表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/58

過去への扉

 シズカの悪意に満ちた毒の薔薇。

 その、静かなる脅威を、祐樹が影から退けてから数日が過ぎた。


 学園の日常は何も変わらない。

 だが、祐樹の心はもはや平穏ではなかった。


 シズカが戻ってきた。

 そして、彼女は麗奈の命を明確に狙った。

 それは、祐樹にとってARTの静かなる包囲網とは、また質の違う、より直接的で悪質な脅威だった。

 彼は、自らの日常が二つの巨大な顎に挟み込まれ、少しずつ砕かれていくような感覚に苛まれていた。


 その週末。

 祐樹は、まるで何かに引き寄せられるように、あの喫茶店へと足を運んでいた。


 「珈琲館 待宵まつよい」。


 彼が唯一心から安らげる聖域。

 彼はいつもの窓際の席で、ただぼんやりと珈琲カップの湯気を眺めていた。

 本を開く気にもなれなかった。


 カラン、コロン、と。

 ドアベルが涼やかな音を立てる。


 祐樹は顔を上げなかった。

 だが、その足音には聞き覚えがあった。

 軽やかで静かで、しかし一切の迷いのない足音。

 その足音が彼のテーブルのすぐ側でぴたりと止まった。


「……あら」


 その、凛とした声に、祐樹はゆっくりと顔を上げた。

 そこに立っていたのは、やはり橘詩織だった。

 彼女もまた、この場所の静寂を求めて訪れたのだろう。

 その手には、一冊の古い学術書が抱えられている。


「……奇遇、ですわね。また、お会いするなんて」


 詩織はそう言うと、悪戯っぽく微笑んだ。

 その笑顔はARTの指揮官のそれではない。

 ただの、一人の美しい女性の顔だった。


「……ええ。本当に」


 祐樹もまた、ぎこちなく微笑み返す。

 詩織は、店内が混み合っているのを確認すると、少しだけ躊躇いながら尋ねた。


「……また、ご一緒してもよろしいかしら?」

「……はい。どうぞ」


 祐樹は頷いた。

 断る、という選択肢は、もはや彼の頭にはなかった。


 二人の二度目の偶然の時間が始まる。

 最初はぎこちなかった会話。

 だが、詩織の巧みな話術に導かれるように、祐樹も少しずつその口を開いていった。


 趣味の話。

 好きな食べ物の話。

 他愛もない、しかし二人にとってはかけがえのない平穏な時間。


 詩織は目の前のこの物静かな青年と話していると、不思議と心が安らぐのを感じていた。

 ARTの指揮官として、常に張り詰めている心の鎧が一枚、また一枚と剥がされていくような感覚。

 彼女は、この心地よい時間にもっと浸っていたいと願った。


 そして、気づけば彼女は踏み込んではならない領域へと足を踏み入れていた。


「……相沢さん」

「はい」

「……あなたは、時々、とても寂しそうな目をなさるわね」


 その、あまりに直接的な言葉に、祐樹の心臓がトクンと跳ねた。

 詩織は、しまった、というように慌てて言葉を続けた。


「ご、ごめんなさい! 今のは忘れて!」

「……いえ」


 祐樹は、静かに首を横に振った。


「……家族がいないものですから。時々、昔のことを思い出してしまうだけです」


 それは、嘘ではなかった。

 ただ、あまりにも多くの真実を隠した言葉だったが。


「……そう。……ごめんなさい。私も同じだから」


 詩織の瞳が、僅かに伏せられた。

 そして、彼女は祐樹のその寂しさに、自らの寂しさを重ねるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


 自らの、過去を。

 そして、自らが警察官になった、その理由を。

 アビスが関わる事件で両親を失ったこと。

 そして、その悲しみを乗り越え、自らが正義を執行する側に立つと決意したこと。


 彼女は決して感情的にはならなかった。

 ただ、淡々と事実だけを語っていく。

 だが、そのあまりに静かな語り口が、逆に彼女がどれほど深い傷をその心に負っているかを物語っていた。


 祐樹はただ、黙ってその言葉に耳を傾けていた。

 相槌も打たない。

 同情の言葉もかけない。

 彼は、ただ、全身で彼女のその声にならない悲しみを受け止めていた。

 それは、彼がアビスで身につけた、唯一の優しさの形だったのかもしれない。


 やがて、詩織は話を終えた。

 そして、自嘲するように小さく笑った。


「……ごめんなさい。私としたことが取り乱してしまいましたね。こんな話あなたにしても仕方がないのに」

「……いいえ」


 祐樹は初めて口を開いた。

 その声は穏やかで、しかしどこか不思議な響きを持っていた。


「……立派、ですね」


 そのあまりに素朴でしかし誠実な一言。

 詩織は思わず息を呑んだ。

 祐樹は続けた。

 その目は彼女の心の奥底を見透かすように静かだった。


「大切なものを守りたい、という気持ちは、きっと誰の中にもある。……ただ、その守り方が人それぞれ違うだけなのかもしれませんね」


 その言葉。

 普遍的な真理。

 だが、そのあまりに深く、そしてどこか哀しい響きを持った言葉は、詩織の心を強く揺さぶった。


 この人は一体誰なのだろう。

 ただの大学生。

 ただの用務員。

 そんなはずがない。


 詩織の祐樹への好意と興味は、もはや揺らぐことのない確かなものへと変わっていた。


 そのあまりにも濃密な時間が終わろうとしていた、その時だった。

 祐樹の胸ポケットに入れていたスマートフォンが、特殊なサイレントの振動をした。

 カラスからの緊急の連絡。

 祐樹の表情が一瞬だけ凍りついた。

 彼は詩織に気づかれぬよう何事もなかったかのように立ち上がった。


「……すみません。そろそろバイトの時間なので」

「……ええ。……また、ここでお会いできますか?」

「……はい。きっと」


 祐樹はそう言うと、彼女に背を向け足早に店を出ていった。


 一人残された詩織は、彼の最後の言葉を胸の中で反芻していた。


 (……きっと)


 その約束が、彼女の心を温かい光で満たしていく。


 だが、彼女はまだ知らない。

 そのささやかな約束が、これからどれほど過酷な運命に翻弄されることになるのかを。


 店を出た祐樹は、路地裏でカラスからのメッセージを確認していた。

 その短い文面に、彼の全身の血が逆流するほどの衝撃が走った。


『――シズカが、動いた。奴がどこからか連れてきた“忘れ形見”と共にな』


 シズカ。

 そして忘れ形見。

 その言葉の意味を、祐樹が理解したその瞬間。

 彼の封印していたはずの過去の記憶の扉が、激しい音を立ててこじ開けられた。


 それは、彼が忘れたくても決して忘れられなかった、あの雪の日の誓いへと繋がる扉だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ