毒の薔薇
ARTの静かなる監視。
それは、祐樹にとって息苦しい新たな日常の始まりだった。
彼は自らの五感を常に最大レベルまで拡張し続けなければならなかった。
学園のどこに監視の目が光っているのか。
誰がARTの協力者なのか。
そして、詩織はいつ次の一手を打ってくるのか。
彼の完璧な擬態の下で、見えない神経戦が常に繰り広げられていた。
一方、西園寺麗奈の日常はここ最近ほんの少しだけ彩り豊かなものへと変わっていた。
彼女の心の中には今や二人の気になる男性がいたからだ。
一人は自分を影から守り続けてくれる正体不明の“騎士”。
そして、もう一人は学園の物静かな用務員、相沢祐樹。
彼女は、自分でも説明のつかないその二つの感情の間で揺れ動きながらも、どこかその状況を楽しんでいる自分に気づいていた。
その日の午後。
学園の正門前に、一台の高級なフラワーデリバリーのバンが停車した。
中から現れた配達員姿の若い男が、一つの大きな花束を抱えている。
真っ赤な薔薇。
その百本はあろうかという深紅の薔薇のその中心に、まるで王女のようにたった一本だけあり得ないほど美しい青い薔薇が咲き誇っていた。
その花束は西園寺麗奈宛て。
差出人は「名もなき、あなたを慕う者より」。
そのあまりに芝居がかった演出は、生徒たちの間で大きな噂となった。
「まあ、素敵!」
「麗奈様の秘密の恋人かしら!」
麗奈はそのあまりに派手な贈り物を、少し呆れたような、しかし、どこか満更でもない表情で受け取った。
そして、その花束を生徒たちが誰もが見えるようにラウンジの一番目立つ場所に飾らせた。
それは、彼女なりの女王としての余裕の表れだった。
その全ての光景を。
祐樹はラウンジの片隅を清掃しながら静かに見ていた。
彼は、あの配達員の男の動きに僅かな違和感を感じていたのだ。
その、無駄のない歩き方。
周囲を一瞬で把握する視線の動き。
あれは、ただの配達員ではない。
プロのそれも一流の訓練を受けた人間の動きだった。
(……誰だ? ARTの新しい調査員か? いや、違う。奴らの動きとは質が違う……)
祐樹の心に警鐘が鳴る。
♢
やがて、放課後。
生徒たちの、ほとんどが帰宅し聖マリアンヌ女学院のラウンジは、夕陽に照らされ静寂に包まれていた。
祐樹は最後の見回りとして、その場所を訪れた。
夕陽が窓から差し込み、青い薔薇を妖しいほど美しく照らし出している。
祐樹はその花にゆっくりと近づいた。
そして、その香りを確かめるように、僅かに鼻をひくつかせた。
薔薇の甘い香り。
その、奥の奥に。
彼のアビスで鍛え上げられた嗅覚だけが感知できる、ほんの僅かな“異臭”。
それは鉄錆とそしてどこかアーモンドに似た、甘くしかし致命的な匂い。
彼がアビスで何度も嗅いだことのある匂い。
特定の植物の根からしか抽出できない、特殊な神経毒の匂いだった。
祐樹の全身の血が凍りついた。
(……シズカ……!)
間違いない。
あの女のやり方だ。
美しく華やかで、そしてどこまでも悪意に満ちた罠。
この青い薔薇の棘に、毒が塗られているのだ。
触れた皮膚から、吸収され、数日後、心臓を、麻痺させる、遅効性の、猛毒。
麗奈はまだこの花に、直接触れてはいない。
だが、時間の問題だった。
(いつ、麗奈がそれに触れるとも限らない、何かしら準備が必要だ。)
♢
祐樹はラウンジの中央に吊るされた、古いシャンデリアの電球を交換していた。
背の高い移動式の脚立の上。
それは、用務員としてのごく当たり前の業務。
だが、彼のその場所のすぐ下。
テーブルの上に青い薔薇が、まるで女王のように咲き誇っている。
彼は、作業をするフリをしながらその毒の華を監視することにした。
その時だった。
ラウンジの入り口のドアが、静かに開いた。
入ってきたのは麗奈だった。
彼女は教室に教科書を忘れてきたのだという。
そして、その足はまっすぐに自らの元へと届けられた、美しい青い薔薇へと向かっていた。
「……綺麗」
彼女は、うっとりとその花を見つめると、その甘い香りを確かめようと花へと顔を近づけた。
そして、その絹のように滑らかな指先が、棘のある茎にそっと触れようとした。
まさにその寸前だった。
脚立の上で作業をしていた祐樹の足元がぐらりと大きく揺れた。
「うわっ!」
祐樹は短い悲鳴と共にバランスを崩し、脚立から落下した。
それは、誰の目から見ても不注意な用務員の、あまりにみっともない転落事故。
彼の動きはただの落下ではない。
まるで、猫のようにしなやかな空中での完璧な姿勢制御。
彼は空中でくるりと体を反転させ、音もなく床に着地するそのまさに着地の瞬間。
彼の伸ばされた足が「偶然」薔薇が置かれていた、テーブルの脚を蹴り飛ばしたのだ。
――ガシャアアアアン!!
テーブルは横転し、美しいガラスの花瓶は床へと叩きつけられ木っ端微塵に砕け散った。
麗奈の短い悲鳴。
「きゃっ!」
水とガラスの破片と、そして毒の薔薇が床一面に散乱する。
麗奈は目の前で起きたあまりにも突然の大惨事に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「も、も、申し訳ありませんっ!」
床に尻餅をついたまま、祐樹が情けない裏返った声で謝罪した。
その顔は恐怖と絶望で真っ青になっているように見える。
麗奈はその惨状と祐樹の姿を交互に見比べた。
そして次の瞬間。
彼女の全身から女王としての絶対的な怒りのオーラが放たれた。
「あなたという人は、なんて……!」
彼女のプライドが許さない。
この自分のために贈られた美しい花束を、不注意な男に台無しにされたことが。
彼女がいつもの氷のような声で彼を罵倒しようとした、その一歩手前だった。
彼女は見てしまったのだ。
祐樹がかなり高い場所から、落ちたという事実を。
そして、その衝撃で床に打ち付けたであろう、彼の肩が僅かに震えているのを。
彼女の怒りの言葉は、その一歩手前で全く別の言葉へと変わった。
「……あなた! 大丈夫ですの!? 怪我は!?」
それは怒りよりも遥かに大きく、そして彼女自身も予期していなかった純粋な「心配」の言葉だった。
その、思いがけない言葉に今度は祐樹の方が不意を突かれる。
彼は驚いたように顔を上げた。
「え……あ、いえ、私は大丈夫です! それよりも、花瓶とお花を……! 本当に申し訳ございません!」
祐樹は慌てて立ち上がると、床の後片付けを始めようとする。
その、必死な姿を見て麗奈の心の中で怒りの感情は急速に萎んでいった。
そして、その感情は呆れと、そしてほんの少しの庇護欲へと変わっていく。
彼女は、ふぅ、と一つ大きな息を吐いた。
「……もう、いいですわ。……それよりあなたこそそのガラスで手を切らないように気をつけなさいな」
彼女はそう言うと、まるで悪戯が見つかった弟を諭す姉のような口調で付け加えた。
「……後で、始末書は提出していただきますけれど」
「は、はい……!」
麗奈はそれだけ言うと、踵を返しその場を去っていった。
その、去っていく後ろ姿はどこか怒っているようで、それでいてほんの少しだけ楽しそうにも見えた。
一人、ラウンジに残された祐樹は静かに息を吐いた。
作戦は成功した。
だが、彼の心には麗奈の最後の思いがけない優しい言葉が、小さな棘のように残っていた。
彼はその複雑な感情を振り払うように、仕事へと意識を切り替える。
床に散らばったガラスと薔薇の残骸。
その中から、彼は誰にも気づかれないように、あの青い薔薇の全てのパーツ――花びら、茎、そして最も危険な棘――を、小さなビニール袋へと丁寧にそして完璧に回収した。
そして、その小さな死の塊をポケットに仕舞い込むと、何事もなかったかのように床の後片付けを始めた。
ただの不器用な用務員として。
彼の静かなる戦争は、最も悪質な敵の登場によって次なるステージへと移行しようとしていた。




