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監視者たち

 橘詩織と喫茶店で偶然の再会を果たしてから、数日が過ぎた。


 祐樹の日常は、表向き何も変わらない。

 だが、彼の水面下の世界は、確実にその姿を変え始めていた。

 詩織というあまりにも巨大で、そして個人的すぎる駒が盤上に置かれてしまったからだ。


 彼女のあの悲しみを湛えた笑顔。

 亡き少年を語る時の声。

 それらが、祐樹の完璧なはずのポーカーフェイスの下で消えない残響となっていた。

 彼はその心のざわめきを打ち消すように、ただひたすらに自らの日常の任務へと没頭した。


 その日の、午前。

 祐樹は聖マリアンヌ女学院の正門付近の落ち葉を掃き集めていた。

 秋晴れの穏やかな日差し。

 生徒たちの楽しげな笑い声。

 全てが平和そのものだった。


 だが、祐樹の超人的な感覚は、その完璧な平穏の中に僅かな、しかし確実な“ノイズ”を感知していた。


 視線だ。

 それも、一つや二つではない。


 学園の向かいのマンションの三階の窓。

 通りの角に停められた何の変哲もない宅配業者のバン。

 そして遥か上空。

 鳥と見紛うほどの、高さで滞空している一点。

 その全てから、プロの、それも寸分の隙もない統率の取れた監視の視線が、この学園へと注がれている。


 祐樹は気づかないフリをしながら作業を続けた。

 だが、彼の脳はその監視ポイントの位置と角度から、敵の目的を正確に分析していた。


 (……ARTか)


 間違いない。

 詩織の部隊だ。

 あの学園査察で何も見つけられなかった彼女が、次の一手を打ってきたのだ。


 (狙いは、この学園で起きた不可解な事件の“介入者”……つまり、俺の影)


 彼の視線が、校舎の窓辺で友人たちと楽しげに談笑している、一人の少女の姿を捉えた。


 西園寺麗奈。

 全ての事件の中心にいる少女。

 ARTが、彼女を重要参考人として、マークしている可能性は極めて高い。


 その日の、午後。

 麗奈は、一人図書館で読書をしていた。

 彼女が最近好んで読んでいるのは、祐樹がかつて口にしたあの古い戦記物だった。


 彼がどんなものに興味を持っているのか。

 彼のあの寂しそうな瞳の奥にはどんな世界が広がっているのか。

 彼女は、ただそのことだけを知りたかった。


 その時、彼女の隣の席に一人の見慣れない男が静かに腰を下ろした。

 上質なスーツに身を包んだ人の良さそうな紳士。

 男は麗奈ににこやかに話しかけてきた。


「――失礼。少し、よろしいかなお嬢さん。私はこの学園の卒業生でしてね。懐かしくなって、少し見学を、と」

「……そうですの」


 麗奈は本から目を離さずに、素っ気なく答えた。


 その全ての光景を。

 書架の影から、祐樹は見ていた。

 あの男。

 昨日から学園の周辺を、うろついていたARTの調査員の一人だ。


 (……まずいな。麗奈に、接触する気か)


 祐樹の背筋に冷たいものが走る。

 今、ここで麗奈が何か不用意な発言をすれば、ARTの疑いは一気に深まるだろう。


 止めなければならない。

 だが、どうやって?

 ここで、自分が割って入ればそれこそ不自然極まりない。


 調査員は当たり障りのない会話を続けながら、ゆっくりと本題へと切り込もうとしていた。


「……それにしても、最近この学園も物騒になったものですな。ピアノが落ちてきたり、不良が大怪我をしたり……」


 その、探るような視線。

 麗奈が何かを答えようと、その美しい唇を開いたその瞬間だった。


 祐樹は動いた。


 彼は手にしていたモップとバケツを静かに床に置くと、まるで最初からそこにいたかのように自然な足取りで、二人のすぐ側にある書架へと近づいていった。

 そして、誰にも気づかれないように、その一番下の段に自らのつま先をほんの僅かに引っ掛けた。


 次の瞬間。


――ガタガタガタッ、ドッシャアアアアン!!


 祐樹がわざとらしく派手に転んだ。

 彼の体が書架にぶつかり、その衝撃で棚に並んでいた数十冊の分厚い本が雪崩を打って床へと落下したのだ。


 凄まじい轟音が静寂に包まれていた図書館に響き渡る。


「きゃっ!」


 麗奈も調査員も、その突然の出来事に驚いて飛び上がった。


「……も、申し訳ありません!」


 祐樹は床に散らばった本の中で、頭を抱え情けない声で謝罪した。

 そのあまりにもタイミングの良すぎる、そしてあまりにもわざとらしい大失態。

 図書館にいた全ての生徒と職員の視線が、一斉にその一点へと注がれる。


 調査員は忌々しげに舌打ちをした。

 もはや、麗奈と二人きりで話せる雰囲気ではない。

 彼は目的を中断せざるを得なかった。


「……また、日を改めてお伺いしますかな」


 男は、そう言うと足早にその場を去っていった。


 麗奈は、その一部始終を呆気にとられて見ていた。


 (……あの人、また……)


 ドジで不器用で、そしてどこか放っておけない。

 彼女は自分でも気づかぬうちに、その口元に小さな笑みを浮かべていた。


 彼女は立ち上がると、床に散らばった本を必死に集めている祐樹の元へと歩み寄った。


「……あなた、本当に不器用な方ですのね」

「も、申し訳ありません、お嬢様!」

「いいから、手を貸しなさい」


 麗奈はそう言うと自らも屈んで本を拾い始めた。

 その、思いがけない行動に祐樹の方が戸惑ってしまう。


「い、いえ! お嬢様の手を、煩わせるわけには……!」

「いいのです。どうせ退屈していましたから」


 二人はしばらく無言で本を拾い続けた。


 その、ほんの数分間の静かな時間が、麗奈にとってどれほど温かいものだったか。

 それを、祐樹はまだ知る由もなかった。


 ♢


 その日の夕方。

 祐樹はアパートへの帰り道、カラスに短い報告を送った。


『ARTが、麗奈に接触したので妨害した』

『……ほう。どうやってだ?』

『少し、ドジを踏んだだけだ』


 その、あまりに簡潔な報告にカラスは数秒間沈黙した。


 そして合成音声が、どこか楽しそうに響いた。


『……面白い。お前も随分と人間らしくなったじゃないか“名無し”』


 その言葉に、祐樹は何も返さなかった。

 ただ、夕暮れの空を見上げ、今日図書館で見た麗奈のあの優しい笑顔を思い出していた。

 彼の孤独な戦いは、今ほんの少しだけその色合いを変え始めていたのかもしれない。

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