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静かなる観察者

 翌朝、西園寺麗奈は自室の鏡の前で、いつもより長く自分を見つめていた。

 昨夜の出来事が、悪夢のように頭から離れない。


 あの路地裏の闇。

 突如として現れたフードの男。

 人間のものとは思えない、あまりに速く、そして無慈悲な暴力。


 一体、誰だったというの……?

 偶然通りかかった正義の味方?

 馬鹿げているわ。

 あんな場所にそんな人間がいるはずがない。


(……守られた?)


 その考えに至った瞬間、麗奈は自嘲気味に唇を歪めた。

 この私が?

 西園寺麗奈が、誰かに守られる?

 自分の身は、自分で守る。

 それが西園寺家の人間としての矜持だった。

 だが、昨夜の自分はあまりに無力だった。


 彼女は結論を出せないでいた。

 あの男は敵か味方か。

 ただの、気まぐれな暴力装置か。


 分からない。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 自分の知らない世界がすぐ隣にある。

 その、どうしようもない事実だけが彼女の心を重く支配していた。


 麗奈は思考を振り払うように頭を振ると、心を切り替えいつも通りの女王として家を出た。

 今は考えるだけ無駄だ。

 自分の日常を完璧にこなすこと。

 それが、彼女にできる唯一のささやかな抵抗だった。


 その頃、当の相沢祐樹は、中庭の落ち葉を静かに掃き集めていた。

 彼の耳は、落ち葉が地面を擦る音を聞きながら、同時に半径五十メートル以内の全ての音を拾い、分析している。

 生徒たちの会話、教師たちの足音、鳥のさえずり風の向き。


 昨日の一件で、麗奈を狙う脅威のレベルは「素人」だと判断した。

 だが、油断はしない。

 アビスでは、「油断」は「死」の同義語だったからだ。


 彼の仕事は、清掃というカモフラージュを纏った完璧な環境把握と情報収集だった。


 どの窓が開きやすいか。

 どの扉が軋む音を立てるか。

 どの植え込みが人間の体を隠すのに適しているか。


 この美しい学園は、祐樹の頭の中では、すでに立体的な戦場マップとして再構築されつつあった。


 午前の業務を終え、大学の講義に出るため学園を後にする。

 紺の作業着から、昨日と同じ洗いざらしのシャツとジーンズへ。

 祐樹は、まるでスイッチを切り替えるように、アビスの亡霊から平凡な大学生へと戻る。


「よぉ、祐樹。昨日のバイト、どうだった?」


 大学のキャンパスで、佐伯健太が駆け寄ってくる。


「別に、いつも通りだ」

「そっか。なんか最近、お前、雰囲気変わったよな」

「そうか?」

「なんつーか、前より影が薄くなったっていうか……いや、元々薄いけどさ。さらに気配がなくなった感じ?」


 健太は、的確なようでどこかズレた表現で首を傾げた。


 祐樹は内心、少しだけ驚いていた。

 この男の、妙に鋭い勘には時々驚かされる。

 二重生活のストレスが、無意識のうちに気配の遮断を強めているのかもしれない。


「気のせいだろ」


 祐樹はそう言って笑うと、健太の背中を軽く叩いた。


「それより、今日の講義、代返頼めるか? 急用ができた」

「お、おう。いいけどよ。お前にしては珍しいな」

「少し、野暮用だ」


 健太に後を任せ、祐樹はキャンパスを離れた。


 向かったのは、大学の図書館。

 その奥にある、誰も使っていない資料室だった。

 そこで彼は、暗号化されたチャットアプリを開く。

 相手は『カラス』だ。


 YUKI: 『昨夜、対象に接触した輩がいた。三人組のチンピラ。処理済み』

 CROW: 『仕事が早いな。感心感心』

 YUKI: 『相手は素人だった。今後もこのレベルか?』

 CROW: 『さて、どうかな。油断はするなよ。お前の“平穏な日常”は、硝子細工よりも脆いんだからな』

 CROW: 『面白い情報を一つくれてやろう。お嬢様には、熱心なストーカーがいる』


 カラスが、一つのデータを添付してきた。


 祐樹がそれを開くと、一人の高校生の顔写真とプロフィールが表示される。


 名前:鬼塚おにづか ごう

 所属:城南工業高校 三年

 備考:傷害、恐喝で過去三度の補導歴。城南地区の不良グループのリーダー格。通称“学園最強”


 YUKI: 『ただの不良か』

 CROW: 『ただの、な。だが、表社会の基準では“凶暴”な部類だ。何より厄介なのは、こいつの家が、十年前に西園寺グループに吸収合併された町工場の成れの果てだということだ』

 YUKI: 『……逆恨みか』

 CROW: 『そういうこと。歪んだ執着心と憎悪は、時としてプロの殺し屋よりも厄介な動機になる。覚えておけ』


 チャットはそこで途切れた。


 祐樹は、鬼塚という男の顔を脳に焼き付けると、静かに図書館を後にした。


 面倒なことになりそうだ。祐樹は小さくため息をついた。


 ◇


 翌日の放課後。


 その“厄介”は、早速姿を現した。


 聖マリアンヌ女学院の正門前。

 お嬢様学校にはおよそ不似合いな、学ラン姿の男たちが数人、壁に寄りかかって煙草をふかしていた。


 その中心に、鬼塚はいた。


 一八〇センチは超えるであろう大柄な体躯。

 剃り込みの入った髪。

 何より、その目が据わっていた。

 常に他人を威嚇し、支配することに喜びを見出す、捕食者の目だ。


 下校する生徒たちが、彼らを遠巻きに見て、怯えたように足早に通り過ぎていく。


 やがて、西園寺麗奈が友人たちと門から出てきた。


 鬼塚は、待ってましたとばかりにニヤリと笑うと、彼女の前に立ちはだかった。


「よぉ、西園寺の姫様。今日もご機嫌麗しゅう」

「……あなた、また来たの。懲りない男ね」


 麗奈は、嫌悪感を隠そうともせず、冷たく言い放った。

 どうやら、面識はあるらしい。


「お前のそのツレない態度が、俺を燃えさせるんだよなあ」


 鬼塚は下品な笑みを浮かべ、麗奈に顔を近づけようとする。

 麗奈の友人たちは、恐怖で顔を青くしていた。


「麗奈様、行きましょう」

「待てよ」


 鬼塚の仲間が、友人たちの行く手を阻む。

 完全に包囲されていた。


 祐樹は、その光景を校舎の二階の窓から、無感情に観察していた。

 距離、約三十メートル。


 いつでも介入できる位置だ。


 だが、まだ動かない。

 相手の手の内と、麗奈の対応を見るためだ。


「何の用かしら。私、あなたのような下等生物と話す時間はないのだけど」


 麗奈は、恐怖を一切見せず、毅然と言い放った。


 その態度が、鬼塚の嗜虐心を煽った。


「かっけえなあ、姫様は。なあ、俺の女になれよ。そうすりゃ、お前の親父が潰したうちの工場の連中も、少しは浮かばれるってもんだ」

「……それがあなたの目的なの。くだらない逆恨みね。あなたのお父様の経営能力がなかった。ただそれだけのことでしょう」

「……あ?」


 鬼塚の顔から、笑みが消えた。


 空気が、凍りつく。


「てめえ、今、なんつった……?」


 地を這うような低い声。

 彼の仲間たちでさえ、ゴクリと喉を鳴らした。


 だが、麗奈は怯まなかった。


「事実を言ったまでよ。敗者は勝者に淘汰される。それが世の理というものでしょう」

「……そうかよ」


 鬼塚は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目は、狂気的な喜びに爛々と輝いていた。


「いいぜ、姫様。気に入った。お前みてえな高飛車な女が、俺の下で泣き喚く姿を想像するだけで、ゾクゾクする」


 彼は、一歩だけ麗奈に近づくと、その耳元で囁いた。


「明日、面白いモンを見せてやるよ。お前のそのくだらねえプライドが、へし折れるような、最高のショーをな」


 そう言うと、鬼塚は満足げに笑い、仲間たちを引き連れて去っていった。


 後に残されたのは、唇を強く噛みしめる麗奈の姿だった。


 彼女の指先が、怒りか、あるいは微かな恐怖か、小さく震えているのを、祐樹の目は正確に捉えていた。

(ショー、か)


 窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、祐樹は静かにつぶやいた。


 その目は、これから始まる面倒事を、心の底から楽しんでいるようにも見えた。

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