偶然の珈琲
ARTの公式査察から、数日が過ぎた週末の午後。
相沢祐樹は、都心から少し離れた古い商店街の路地裏にひっそりと佇む一軒の喫茶店にいた。
店の名は「珈琲館 待宵」。
使い込まれた飴色の木のカウンター。
壁にはセピア色の古い映画のポスター。
店内に静かに流れるのは、ノイズ混じりのクラシック音楽。
ここは、彼がこの表社会で見つけた、数少ない心から安らげる場所だった。
ARTの見えざる包囲網。
そしてアビスの子供たちの未来。
その、あまりにも重い現実から、ほんの少しだけ逃れるための彼だけの聖域。
祐樹は、窓際の一番奥の席で文庫本を片手に静かに珈琲を味わっていた。
その時だった。
カラン、コロン、と。
ドアベルが来客を告げる涼やかな音を立てた。
祐樹は、本から顔を上げない。
だが、彼の聴覚は、その新しい客の足音を捉えていた。
軽やかで、静かで、しかし、一切の迷いのない足音。
その足音が彼のテーブルのすぐ側でぴたりと止まった。
祐樹は、訝しげに顔を上げた。
そして、その目に映った人物に、彼の完璧なはずのポーカーフェイスが僅かに揺らいだ。
「……あら」
そこに立っていたのは、一人の美しい女性だった。
白いシンプルな、ブラウス。
黒いロングスカート。
学園で見た、あの鋼鉄の鎧のような、スーツ姿とは全く違う柔らかな出で立ち。
だが、その凛とした佇まいは間違いなく彼女のものだった。
橘詩織。
ARTの指揮官。
祐樹にとって、今この世界で最も警戒すべき敵。
詩織もまた驚いていた。
彼女にとって、この店は誰にも教えたことのない秘密の隠れ家だったからだ。
そして、その隠れ家に、先日学園で会ったばかりの、あの物静かな用務員がいる。
その、あまりの偶然に、彼女は思わず声をかけてしまっていた。
「……聖マリアンヌの……相沢さん、ですわよね?」
「……はい」
祐樹は、内心の激しい動揺を完璧に押し殺し、穏やかな顔で頷いた。
まずい。
なぜ、彼女が、ここに。
彼の脳が高速で状況分析を開始する。
これは罠か?
俺の身辺調査の一環か?
いや、違う。
彼女のその驚いた表情に嘘の色はない。
これは、本当に、ただの……。
「……奇遇ですわね」
詩織がふわりと微笑んだ。
それは、彼女の指揮官ではない一人の女性としての柔らかな笑顔だった。
その笑顔に、祐樹の警戒心がほんの僅かに麻痺する。
店内は、あいにく満席だった。
詩織は少しだけ、困ったように店内を見渡した。
そして、意を決したように祐樹に尋ねた。
「……もし、ご迷惑でなければ」
「……こちらの席、ご一緒させていただけないかしら?」
その、あまりにも予想外の提案。
祐樹の思考が、一瞬停止した。
断るべきだ。
これ以上、この女と関わるべきではない。
だが、「相沢祐樹」という、人の良い用務員の仮面は、その選択肢を許さなかった。
彼は、数秒の沈黙の後、ぎこちなく頷いた。
「……あ、はい。どうぞ……」
二人のあまりにも危険で、そして、どこか甘い偶然の時間が、今静かに始まろうとしていた。
詩織が、彼の向かいの席に静かに腰を下ろす。
ぎこちない沈黙が、二人の間に流れた。
祐樹は内心の激しい動揺を悟られまいと、目の前の文庫本に視線を落とす。
だが、その活字はもはや彼の頭には全く入ってこなかった。
沈黙を、破ったのは詩織の方だった。
「……相沢さんも、本がお好きなのですか?」
「え……あ、はい。まあ、少しだけ」
「その本……。私も、好きです。まさか、同じ趣味の方がいらっしゃったなんて」
詩織はそう言うとふわりと微笑んだ。
その、あまりに自然で柔らかな笑顔に、祐樹の心の壁が僅かに軋む音がした。
二人の会話は、そこから始まった。
好きな、作家の話。
好きな、音楽の話。
そして、この喫茶店の珈琲の味がいかに素晴らしいかという話。
詩織はARTの指揮官という仮面を脱ぎ、一人の女性として久しぶりに心から会話を楽しんでいる自分に気づき戸惑っていた。
祐樹もまた、常に張り詰めている緊張を忘れ、穏やかな「相沢祐樹」としてその時間を楽しんでいる。
それは、二人にとってあまりにも居心地の良い時間だった。
やがて、ウェイトレスが詩織の注文を取りに来る。
祐樹は飲み干してしまった珈琲カップを見つめると、メニューを再び手に取った。
そして、まるで遠い遠い記憶の残滓に、導かれるように一つのメニューを指差した。
「……これを、お願いします」
彼が注文したもの。
それは、この店の隠れた名物。
鮮やかな緑色のソーダ水の上に、真っ白なアイスクリームが浮かんだ、昔ながらの「クリームソーダ」だった。
それを見た詩織の表情がふと変わった。
彼女は驚いたように目を丸くする。
そして、その瞳にどこか懐かしむような優しい光が灯った。
「……クリームソーダ」
彼女は囁くように言った。
「昔、好きだった男の子が大好きだったんです。さくらんぼが乗っているのが宝物みたいだって、いつも笑ってて」
詩織は少しだけ、寂しそうな、それでいて愛おしそうな笑みを浮かべて続けた。
「……まあ、その子は、ずっと昔に事故で亡くなってしまったんですけどね」
その、あまりに無防備な告白。
祐樹はただ静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。
「……そうだったんですね。……辛いことを思い出させてしまいましたね。すみません」
その心からの労りの言葉。
そして、彼の気遣うような瞳。
詩織は、その穏やかな佇まいに、心の一番柔らかい場所を、そっと撫でられたような感覚になった。
(……なんて優しい人なのかしら)
その日、二人はそれ以上深い話はしなかった。
ただ、クリームソーダの、甘い気泡が弾ける音を聞きながら、静かな時間を共有しただけ。
だが、その時間は確かに二人の心に大きな変化をもたらしていた。
喫茶店を出て別れの挨拶を交わす。
去っていく彼の、少しだけ猫背な背中。
詩織はその背中を見えなくなるまで、じっと見送っていた。
彼女の心の中に「相沢祐樹」という、一人の不器用で、しかし、優しい青年に対する確かな温かい「好意」が、芽生えた瞬間だった。




