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邂逅

 聖マリアンヌ女学院にその報せが届いたのは、ある晴れた秋の日の朝のことだった。


『本日午前十時、政府管轄の対アビス特殊部隊『ART』が、本校の警備体制に関する公式な査察に訪れる』


 学園長から、全校生徒と職員に通達されたその一文は、この世間から隔離された穏やかな花園に静かな、しかし確かな波紋を広げた。


 生徒たちは、好奇と僅かな恐怖の入り混じった声で囁き合った。


「ARTが、うちの学校に?」

「やっぱり、この前のピアノの事件とか関係あるのかしら……」

「本物の、エリート部隊の方々がいらっしゃるのね……!」


 教室の窓から、その会話を上の空で聞いていた西園寺麗奈は、一人固い表情をしていた。

 彼女の心臓は、朝から嫌な予感を告げるように早鐘を打っている。


 ARTの来訪。

 その目的が、ただの警備査察などではないことを彼女は直感していた。

 彼らが追っているのは、この学園に潜む“何か”。


 ……自分の、“守護者”。


 その存在がこの学園の平穏をかえって乱しているのではないか。


 麗奈は複雑な思いで窓の外、中庭を黙々と掃き清めている一人の用務員の背中に視線を送った。


 相沢祐樹。

 あの、図書館での不思議な言葉。

 あの、木の上で子猫に見せた不器用な優しさ。

 なぜか、彼女は彼のことだけを目で追ってしまっていた。


 その頃、当の相沢祐樹は落ち葉を掃き集めながら思考を別の場所へと飛ばしていた。

 ARTの来訪は彼ももちろん察知していた。


 正門前で交わされる会話、彼らの足音、そして、その集団の中心から放たれる独特の鍛え上げられた人間の気配。

 その全てを、彼の超人的な感覚は正確に捉えている。


 だが、彼の心に焦りはなかった。

 むしろ、その逆。

 いつか必ず訪れると覚悟していた日。

 敵の本丸が自らのテリトリーに足を踏み入れてきたのだ。


 ならば、やることは一つ。

 彼はただの用務員。

 臆病で、物静かで、権力者の前では小さくなっているだけの社会の歯車の一つ。

 その完璧な擬態を演じきるだけだ。


 やがて、廊下の向こうから、数人の足音が近づいてくる。

 学園長に案内された橘詩織とその部下たちだった。


 詩織は、鋭い観察眼で廊下の隅々までチェックしている。

 監視カメラの位置、窓の強度、そして天井裏へと続く点検口の有無。


「……この廊下、死角が多いわね。監視カメラを最低でもあと三台は増設すべきです」

「は、はあ……」


 学園長が額の汗を拭う。

 詩織はそんな彼の様子には目もくれず、ただ淡々と査察を続けていた。


 そして、彼女の視線が廊下の片隅で黙々と清掃を続ける、一人の用務員の姿を捉えた。


 祐樹は彼らが近づいてくるのに気づくと作業の手を止め、壁際に寄り静かに深々と頭を下げた。

 邪魔にならないように道を譲る。

 それは用務員としてあまりに自然で完璧な動きだった。


 詩織はそのあまりに平凡な姿に一瞬だけ視線を向けた。

 だが、そこに特別なものは何もない。

 ただの大勢の中の一人。

 彼女はそのまま通り過ぎようとした。


 だが、その時。

 彼女の右腕である、鋭い目つきの男、坂崎が祐樹に声をかけた。


「おい、君。少し、いいかな?」


 祐樹の心臓が、僅かにトクン、と跳ねた。

 来たか。

 だが、その表情は変わらない。

 彼はゆっくり顔を上げると、困惑したような、少しだけ怯えたような完璧な「善良な一般市民」の顔で答えた。


「……は、はい。なんでしょうか」


 運命の歯車が、今、かみ合った。

 光の世界の番人と闇の世界の亡霊が初めてゼロ距離で対峙する。

 その、息も詰まるような静かな尋問が始まろうとしていた。


「君は、ここの用務員か。名前は?」

「……相沢、祐樹です」

「いつから、ここで働いている?」

「……今年の、春からです」


 矢継ぎ早に飛んでくる尋問じみた質問。

 祐樹は吃音にならないよう、しかし少しだけ緊張しているように聞こえる絶妙な声色で、一つ、一つ、丁寧に答えていく。


 詩織は、そのやり取りを腕を組んで黙って見ていた。

 彼女の目は、祐樹の答えそのものではなく、その“反応”を分析していた。


 瞳孔の動き。

 瞬きの回数。

 汗の量。

 指先の微かな震え。


 “ゴースト”――彼女が追う、未知の超人。

 その存在が、目の前のこの気弱そうな青年である可能性。

 彼女はその可能性を、一つ、また一つと冷静に切り捨てていった。


 違うわね。


 彼女は内心で結論を下した。

 心拍数、上昇。

 発汗、軽度。

 視線は泳いでいる。

 これは、権力に対する典型的な一般市民の恐怖反応だ。


 “ゴースト”ならば、この程度の尋問でこれほど分かりやすい生体反応を示すはずがない。

 目の前の青年は危険な亡霊などではない。

 ただの、臆病で、平凡な駒の一つ。

 詩織は祐樹に対する興味を完全に失った。


 彼女は、祐樹からこれ以上の情報は得られないと判断すると、静かに、しかし、はっきりと尋問を打ち切った。


「坂崎、もう結構です」


 そして、祐樹の方へと僅かに向き直ると、形式的ではあるが丁寧な口調でこう付け加えた。


「――ご協力に、感謝します」


 その言葉は、祐樹にとって勝利の宣告だった。

 だが、彼は安堵の表情など微塵も見せない。

 ただ、解放されたことにほっとしたような、情けない笑みを浮かべるだけ。

 詩織は、そんな祐樹に一瞥もくれることなく、背を向けた。

 そして去り際に、まるで独り言のように呟いた。


「……この学園で、何か変わったことはありませんでしたか? どんな些細なことでも、構いません」


 それは、最後の罠だった。

 祐樹は数秒間、何かを思い出すかのように視線を宙に彷徨わせた。

 そして、困ったように答える。


「さあ……。私のような、ただの用務員には、何も……。生徒の皆様はいつも楽しそうにしていらっしゃいますよ」


 その、あまりにも完璧な模範解答。

 詩織はそれに何の反応も示さなかった。

 ただ、その集団は、祐樹の前から静かに去っていった。

 遠ざかっていく足音。

 祐樹は彼らの姿が廊下の角に完全に消えるまで、深々と頭を下げ続けていた。


 そして誰もいなくなったことを確認すると、ゆっくりと顔を上げた。

 彼の額からは、玉のような汗が一筋流れ落ちていた。

 それは緊張による冷や汗ではなかった。

 自らの全ての神経を完璧にコントロールし続けたことによる、極度の精神的な疲労の証だった。


 その、全てを。

 二階の教室の窓から、西園寺麗奈は息を殺して見つめていた。

 彼女の目に映っていたのは、狩人の駆け引きではない。

 ただ、国家権力という圧倒的な力の前に、萎縮し、おどおどと尋問に答える、一人のか弱そうな用務員の姿だった。


 彼女の胸に、チクリと小さな痛みが走った。


 (……なぜ、かしら)


 なぜ、自分はあの人のことをこんなに気にしているのだろう。

 なぜ、あの人が強い人間に問い詰められている姿を見るだけで、こんなにも胸がざわめくのだろう。

 彼女は、その感情の正体をまだ知らない。


 ただ、あのARTの美しい指揮官の、あまりに冷たい目に無性に腹が立った。


 そして、あの用務員のあまりに頼りない背中を、なぜか守ってあげたいと思ってしまった。

 その、自分でも説明のつかない新しい感情に、麗奈は、ただ戸惑うことしかできなかった。


 相沢祐樹という男の謎が、彼女の中でまた一つ別の色合いを帯びて深まっていった瞬間だった。

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