余波と新戦略
祐樹が、アビスの闇から生還を果たしてから、一ヶ月が過ぎた。
彼の体に刻まれた無数の傷跡は、その異常なまでの回復力によって今やほとんど見る影もない。
だが、その魂に刻まれた疲労と、そして新たな焦燥感は日に日にその色を濃くしていた。
日常は、戻ってきた。
ノアは毎日楽しそうに定時制高校へと通い、祐樹は聖マリアンヌ女学院の用務員と大学生という二つの仮面を完璧に使い分けている。
あの地獄のような脱出劇が、まるで悪夢だったかのように世界は静かで平穏だった。
だが、祐樹だけは知っていた。
その静寂が、次なる嵐が訪れる前の、ほんの束の間の不気味な凪でしかないことを。
その日の夜。
祐樹は自室で、カラスと暗号化された通信を行っていた。
「……状況は、どうだ」
「最悪、と言っておこう。お前があの下水道で派手にドンパチをやってくれたおかげでな」
カラスの合成音声は、いつも通りどこか他人事のようだった。
「ARTの連中は、お前が破壊したドローンの残骸を回収した。奴らはあの下水道ルートがまだ生きていることを完全に把握したわけだ」
「……だろうな」
「今は、その入り口と出口に数トンのコンクリートを流し込んで、物理的に完全に封鎖しているそうだ。お前の使った“裏口”は、もうない」
祐樹は、黙ってその報告を聞いていた。
予想通りの展開だった。
「他のルートは?」
「全滅だ。橘詩織という女、見た目に反して仕事が丁寧すぎる。まるで、アビスの全てを知り尽くしているかのように、考えうる限りの全ての抜け道を、一つ、また一つと潰しにかかっている。今のARTの包囲網は、もはや“鉄壁”だ」
その言葉は祐樹にとって死刑宣告にも等しい響きを持っていた。
単独での物資の輸送。
それは、もはや不可能。
キバから奪った物資も、いずれは尽きる。
その時、アビスの子供たちはどうなる?
祐樹は初めて自らの限界を痛感させられていた。
彼の一個人の超人的な戦闘能力。
それは、国家という巨大で冷徹なシステムの前ではあまりにも無力だった。
どうする。
彼の脳裏に、焦りが黒い染みのように広がっていく。
このままではジリ貧だ。
何か、別の手を……。
もっと、根本的な全てを覆すような新しい“戦略”が……。
一方、その頃。
ART司令本部。
橘詩織は、分厚い報告書の束を無表情なままめくっていた。
祐樹が破壊した東九区の地下水路の偵察ドローン。
その残骸から回収された僅かなデータの分析結果が彼女の元に届けられたのだ。
部下である情報分析官が、緊張した面持ちでその横に立っている。
「……警視。結論から申し上げますと、ドローンは外部からの銃撃や爆発物によって破壊されたものでは、ありませんでした」
「……では、何?」
「……物理的な衝撃です。それも恐らくはたった一撃の」
分析官は、信じられないといった表情で言葉を続けた。
「ドローンを固定していたチタン合金製のボルトが、内側からあり得ないほどの力で切断されています。そしてドローンの装甲は、まるで巨大な鉄槌で殴りつけられたかのように、一点から粉々に圧壊していました。……こんな芸当が人間に可能だとは到底……」
詩織は、報告書から一枚の画像データを引き抜いた。
そこに写っていたのは、ドローンのカメラが破壊される最後のコンマ一秒に捉えたノイズ混じりの映像だった。
闇の中、何かが高速で動いている。
それは、もはや人間の姿ではない。
ただの、ブレた“影”。
だが、その影の動きをコンピューターが解析し算出した移動速度と推定されるパワーの数値。
それは、オリンピック選手の世界記録を遥かに凌駕する異常なデータだった。
「……やはり、いたのね」
詩織は誰に言うでもなく静かに呟いた。
彼女は以前から仮説を立てていたのだ。
アビス内部に、これまでのデータにはない極めて強力な、未知の“個体”が存在するのではないか、と。
「……この個体に、コードネームを付与します」
詩織は、決然とした声で言った。
「――“ゴースト”」
その言葉は、まるでARTという組織の新たな指針を示唆するかのようだった。
情報分析官は、その言葉の重みに息を呑む。
「ゴースト……ですか」
「ええ。まるで影のように存在し、音もなくあらゆるものを破壊する。アビスという闇に潜む実体なき脅威」
詩織は、そう言うと、一枚のホログラム画像を空間に投影した。
それは、全国各地で発生している奇妙な未解決事件のリストだった。
山中で突如行方不明になった複数の武装強盗団。
警備の厳重な地下金庫から、痕跡もなく消え去った大量の裏金。
あるいは、特定の人間だけを狙ったかのような、完璧な「事故死」。
これら、一見無関係に見える事件には共通点があった。
それは、いずれの現場にも、“人間が為したとは考えられない、不自然な痕跡”が残されていたことだ。
「この国は、既にアビスの元住人に侵食されている」
詩織の声には確信が宿っていた。
彼女は、この数年、そう直感していたのだ。
アビスという、法治の外にある異形の生態系が、その住人を少しずつ表社会へと送り込み始めている、と。
一般人には理解できない、異常な身体能力を持つ者。
あるいは、常識では考えられない知識や技術を持つ者。
彼らは、まるで“幽霊”のようにこの国の日常に紛れ込み、犯罪を起こし、あるいは何事もなかったかのようにその痕跡を消し去っている。
そして、その最たる存在が、今アビスの奥深くで蠢いている“ゴースト”なのだ。
「奴らは、この国のどこかに潜んでいる。我々のすぐ隣で、普通の人間として生活している可能性すらある」
彼女はホログラムを消すと、強い眼差しで情報分析官を見つめた。
「ARTの最優先目標は、アビスの完全封鎖。そして、その先の、“ゴースト”の捕獲だ」
「かしこまりました。全部隊に、ゴースト捕獲作戦の発令を徹底させます」
詩織は司令室を出ると、廊下を静かに歩いていった。
彼女の脳裏に焼き付いているのは、両親の優しい笑顔。
そして、彼らがアビスの闇に飲み込まれた、あの日の地獄のような光景。
この国に蔓延る闇を全て排除する。
そして、アビスという存在そのものを完全に消滅させる。
それが、亡き両親に誓った彼女の「正義」だった。
そのためならば、どんな犠牲も厭わない。
彼女の、そのガラスのように透明な瞳の奥で冷たい炎が静かに燃え盛っていた。
◇
一方、学園の用務員室。
祐樹はカラスとの通信を終え、深いため息をついていた。
ARTの包囲網は、予想以上に強固。
このままでは、アビスの子供たちに食料も医薬品も届けることができなくなる。
「どうすれば、いい……」
彼は、初めてその表情に明確な焦りの色を浮かべた。
彼が守るべき小さな命。
その全てが、今、絶望的な状況に追い込まれようとしている。
祐樹は机の引き出しから、一枚の四つ折りにされた古びた紙を取り出した。
そっと広げると、そこに描かれていたのは木炭で描かれたであろう、拙い子供たちの似顔絵だった。
アビスを去る前日、教会の子の一人が彼に渡してくれた、宝物。
絵の中心には、子供たちの精一杯の笑顔が描かれている。
祐樹は、その絵を、ただ、じっと見つめていた。
その指先が、紙の上に描かれた子供たちの笑顔をそっとなぞる。
彼に残された時間は、もう多くはない。
祐樹はゆっくりとその絵を胸ポケットに仕舞い込んだ。
彼の孤独な戦いは、今、新たな局面へと突入しようとしていた。




