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鉄壁の檻

キバを排除し、教会にしばしの平穏をもたらした祐樹だったが、彼に残された時間はあまりにも少なかった。


「……ミナト。もう、行ってしまうのかい?」


教会の地下。

ハナが寂しそうな顔で尋ねる。


祐樹は新たに補充した最低限の装備をバックパックに詰めながら静かに頷いた。


「ああ。ARTの連中は、今頃、俺が潜入した“穴”を、血眼になって探しているはずだ。長居はできない」

「ですが、あなたの体は……」


ハナの視線が祐樹の腕や脇腹に残る無数の傷跡に向けられる。

アビスへの潜入は彼の肉体を確実に蝕んでいた。


「問題ない。アビスではこの程度の怪我は日常だ」


祐樹は、そう言って、心配させまいと笑ってみせた。だが、その笑みはどこか力ない。


彼は眠っている子供たちの顔を、一人一人その目に焼き付けるように見つめた。

この子たちのために自分は帰らなければならない。

再び、あの偽りの日常へと。

そして、この子たちが生きるための次の物資を送るために。


「ハナさん。俺が表に戻ったら、すぐにカラスを通じて、新しいルートの情報を送る。それまでは絶対にここから動かないでくれ」

「……わかったわ。だけど、ミナト……」


ハナは、意を決したように祐樹に告げた。


「……もう、戻ってこなくていいんだよ」

「……何?」

「あなたの人生は、ここにあるべきじゃない。先生も、きっとそう願っているはずだ。あの子たちのことは、わしらが何とかする。だから、あなたはあなたの幸せを……」

「俺の幸せは」


祐樹は、ハナの言葉を静かにしかし力強く遮った。


「この子たちが、笑って生きていられることだ。それ以外に俺が戦う理由はない」


彼はそれだけ言うと、ハナに背を向け地下通路の闇の中へとその姿を消していった。


アビスの壁へと向かう帰路は、行きよりも遥かに険しいものとなっていた。


祐樹がキバを排除したことで、中層地区のパワーバランスは完全に崩壊。

主を失った派閥同士が新たな縄張りを求めて各地で激しい抗争を繰り広げている。

祐樹はそれらの戦闘を避けながら、最短ルートで壁を目指した。


半日以上をかけ、彼がかつて自分が侵入した北西エリアの壁の麓にたどり着いた時。

彼はその光景に思わず息を呑んだ。

壁の上部には以前の倍以上の数の監視ドローンが飛び交い、壁面には新たなセンサーと思われる無数の赤いランプが不気味に点滅している。

そして何より壁の頂上にはARTの兵士たちが数メートルおきに完全武装で仁王立ちしていた。


(……完全に、塞がれたか)


祐樹が使った「針の穴」は、彼が通ったことで、もはや穴ではなく最も厳重な要塞の一部と化していたのだ。

同じルートでの脱出は不可能。


祐樹は舌打ちをすると即座に思考を切り替えた。


別のルートを探す。

彼の脳内マップが高速で展開される。

ARTの警備が比較的手薄な場所。


それは、アビスの構造上、最も危険で最も汚染されたエリア。

――東九区。旧工業廃棄物処理施設の跡地。


そこにはアビスが生まれるよりも昔から存在する、古い、巨大な下水道網が迷路のように張り巡らされている。


だが、その下水道は、今や猛毒の化学廃棄物が流れ込み、並の人間であれば数分で肺を焼かれて死に至る、死のトンネルと化していた。

ARTの連中も、まさか生物がそこを通るとは考えていないはずだ。


(……賭けるしかない)


祐樹は覚悟を決めた。

彼はアビスで手に入れた簡易なガスマスクを装着すると、東九区へとその足を向けた。


数時間後。

祐樹はその地獄の入り口に立っていた。


鼻を突く強烈な化学薬品の匂い。

地面には緑色に発光する粘着質の液体が不気味に広がっている。


彼はマンホールの蓋を開け、その内部を覗き込んだ。

闇の奥から、ゴポゴポと何かが沸騰するような不気味な音が聞こえてくる。


ここを、潜り抜ける。

祐樹は深く息を吸い込むと、その闇の中へと躊躇なくその身を投じた。


祐樹が足を踏み入れた下水道は、もはやただの下水道ではなかった。

それは、アビスが生み出すあらゆる汚染物質が数十年もの間、蓄積され続けた地獄の血管だった。


鼻腔を突き刺す強烈な化学薬品の匂い。

肌がピリピリと痛むほどの高濃度の毒素。

そして、足元に広がるヘドロ状の液体。

それは、水ではなく様々な化学廃棄物が混じり合った未知の化合物だった。

所々で不気味な緑色の光を放ち、ゴポゴポとメタンガスと思われる泡を立てている。


祐樹が履いている獣の皮で作られた特殊なブーツの靴底が僅かに溶け、ジュウと嫌な音を立てた。


(……長居はできない)


彼が装着しているのはアビスで手に入れた旧式の軍用ガスマスク。

そのフィルターが、この猛毒の空気の中で何分持つか見当もつかなかった。


彼は壁際に残された僅かな足場を頼りに、慎重に、しかし素早く先へと進んでいく。

闇の中、彼の目は全てを見通していた。


ヘドロの流れ、ガスの濃度、そして、足場の脆さ。

その全てをアビスで培った獣じみた第六感で正確に読み取っていく。

それは、まさに一本の細い綱の上を渡るような極限の集中力を要する死の行軍だった。


数時間が経過した頃。

祐樹の異常に発達した聴覚が、この地獄にはおよそ不似合いな一つの音を捉えた。


――カシャ、カシャ、カシャ……。


規則正しい金属の駆動音。

それは、生物の音ではない。

機械の音だ。


祐樹は咄嗟に通路の影にその身を隠した。

音の主がゆっくりと闇の奥から姿を現す。

それは、全長五十センチほどの蜘蛛のような形をした小型のドローンだった。

六本の多関節脚で、壁や天井を自在に這い回り、その中央のカメラアイが赤い光を放ちながら周囲をスキャンしている。


(……ARTの偵察ドローンか!)


ARTはこの死のトンネルですら、完全には無視していなかったのだ。

人間が入れない場所は機械に任せる。

その、あまりに合理的で徹底したやり方に祐樹は内心で舌打ちした。


ドローンは祐樹が隠れていることに気づかず、ゆっくりと彼の側を通り過ぎていく。

やり過ごせるか、と思われた、その瞬間。


祐樹の足元でヘドロの泡が、一つ弾けた。

ポコン、と。


あまりに小さな音。


だが、高性能な集音マイクを搭載したドローンが、その音を聞き逃すはずもなかった。

カメラアイが、一瞬で、祐樹が隠れる方角を向いた。


――Target locked.


(まずい!)


報告されれば、このトンネルの両端は完全に封鎖される。

そうなれば袋の鼠だ。


祐樹は思考よりも早く動いていた。

彼はドローンが警報を発信するよりも早く、懐から一本のナイフを抜き放つと、それを回転させながら投げつけた。


だが、狙いはドローンの本体ではない。

その、遥か頭上。

トンネルの天井を走る錆びついた巨大なパイプだった。

ナイフはパイプを支えていた最後のボルトを完璧に断ち切る。


ギィィィッ!という金属の悲鳴と共に、数トンの重さを持つ鉄の塊がドローンめがけて落下した。


ドローンはそれを回避しようとするが間に合わない。


グシャアアアアッ!

凄まじい轟音と共にドローンは鉄の塊の下敷きとなり、その赤い光を完全に消し去った。


だが、祐樹に安堵している暇はなかった。

ドローンを破壊した衝撃で、天井が大規模な崩落を起こしたのだ。

瓦礫が滝のように降り注いだ。

そして、破壊されたパイプから大量の高濃度の化学廃棄物が濁流となってトンネル内に溢れ出してきた。


「ぐっ……!」


祐樹は想定外の事態に悪態をついた。

もはや悠長に進んでいる時間はない。


彼は腰まで迫ってきた猛毒の濁流の中を、ただひたすらに出口へと向かって突き進んだ。

ガスマスクのフィルターが、限界を示す赤いランプを点滅させている。


意識が、朦朧としてきた。

だが、彼は足を止めなかった。

脳裏に浮かぶ子供たちの顔。

そして、アパートで彼の帰りを待つノアの顔。


(……帰るんだ。必ず……!)


そして、どれほどの時間が経ったのか。

朦朧とする意識の中、彼の目に一つの光が見えた。

地上へと続くマンホールの蓋から漏れる微かな月明かり。

彼は最後の力を振り絞り、壁に設置された錆びた梯子を登っていく。

そして、重い鉄の蓋を渾身の力で押し上げた。


ゴッ、と。

外の新鮮な空気が彼の肺へと流れ込んでくる。

彼は、まるで、生まれたての赤子のように貪欲にその空気を吸い込んだ。

体は化学薬品で焼け爛れボロボロだった。


だが、彼は帰ってきたのだ。

地獄から、日常へと。


祐樹はマンホールから這い上がると、雨上がりの濡れたアスファルトの上に倒れ込んだ。

数秒間、死んだように動かなかったがアビスで培われた彼の生存本能が休息を許さない。


(……動け。ここで止まるな)


彼は壁に手をつき、震える足でゆっくりと立ち上がった。

周囲を見渡す。

人影はない。

ARTの追手もいない。


彼はボロボロのガスマスクを投げ捨てると、フードを目深に被り、まるで夜の闇に溶け込むようにその場を去った。


どれほどの時間を歩いただろうか。

意識が途切れる寸前、彼は見慣れた自分のアパートのドアの前にたどり着いていた。

鍵を開ける力も残っていない。

彼がドアに寄りかかるように崩れ落ちた、その時。


内側からドアが勢いよく開かれた。


そこに立っていたのは、一睡もせずに彼の帰りを待ち続けていたノアだった。


「……ミナ……!」


ノアは言葉を失った。

目の前のボロボロになった祐樹の姿に。

彼女は倒れ込んでくる祐樹の体を、その小さな体で必死に受け止めた。


「……おかえり」

「……ああ。ただいま」


その短い言葉を最後に、祐樹の意識は完全に途切れた。


唯一、安らげる場所で、彼はようやくその重い瞼を閉じたのだった。

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