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狩人の盤上

夜のアビスは昼にも増してその牙を剥き出しにする。


闇に紛れて動くのは獲物を求める獣か、あるいは、それよりも危険な二足歩行の捕食者たち。


相沢祐樹はその闇の中をまるで水が流れるかのように音もなく進んでいた。

ひび割れた仮面の下、その瞳はもはや人間のそれではない。

周囲の闇、風の音、遠くで聞こえる争いの声、その全てを情報として取り込、完璧な三次元マップを脳内に構築していく、冷徹な狩人の目だった。


彼の目的地は、キバの本拠地である地下鉄駅跡地ではない。

その手前、いくつもの派閥が縄張りを主張し、アビスの中でも特に危険とされる入り組んだ廃墟群――通称“迷宮ラビリンス”。

そこが、祐樹が選んだ決戦の舞台だった。


彼は数時間をかけて、その“盤上”を丹念に調べて回った。


崩れかけたビルのどの床が体重を支えきれずに抜けるか。

地下へと続く忘れられた下水道の入り口はどこか。

風向きを計算した上で、最も音が響き敵を誘い込みやすい通路はどこか。


彼は戦うのではない。

この迷宮そのものを巨大な罠へと作り変えているのだ。


彼は道中で倒したスカベンジャーたちから奪った、数本のワイヤーをビルの間に張り巡らせる。

それは、敵の足を引っ掛けるための原始的な罠ではない。

祐樹がこの立体的な戦場を縦横無尽に移動するための、高速の移動路ハイウェイだった。


また、彼は特定の場所にガソリンが半分ほど残った錆びついたドラム缶を、まるで最初からそこにあったかのように自然に配置していった。


準備は夜が明ける頃、静かにそして完璧に完了した。

あとは、傲慢な獲物が自らこの罠にかかりに来るのを待つだけだった。



その頃、キバの要塞。

玉座で巨大な肉の塊にかぶりついていたキバの元に血相を変えた側近が駆け込んできた。


「キバ様! 大変です!」

「あぁ? 今度はなんだ」

「“名無し”です! 奴が……奴が、我々の縄張りを荒らし回っています!」

「なんだと?」


側近の報告によれば、こうだ。


昨夜のうちに中層地区の西側を固めていたキバの配下にある三つの拠点が立て続けに襲撃された。

だが、その手口が異常だった。


拠点の兵力は一人残らず意識を失って転がっていた。

死者は一人もいない。

しかし、その全員が肘か膝の関節を的確に一つだけ破壊されていたのだ。

戦闘能力を完全に奪われて。


そして、それぞれの拠点の壁には、一つのマークがナイフで刻みつけられていた。

ひび割れた仮面の紋章。

それは、アビスの住人ならば、誰もが噂で聞いたことのある伝説の亡霊の証だった。


「……ハッ。ハハハハハ!」


報告を聞き終えたキバは、怒るどころか、心の底から楽しそうに高笑いした。


「……面白い。面白いじゃねえか、“名無し”! 俺に、喧嘩の売り方を教えてやがる!」


死者を出さない。

それは、圧倒的な実力差がなければ不可能な芸当だ。

そして、関節だけを的確に破壊する。

それは、相手を嬲り殺しにするよりも遥かに高度な技術と冷徹な精神を必要とする。


これは、ただの襲撃ではない。

伝説の亡霊からこの地区の新たな実力者への明確な“挑戦状”だった。


「キバ様、いかがいたしますか? 全兵力を以って、奴を捜索し包囲しますか?」

「馬鹿野郎!」


キバは側近を蹴り飛ばした。


「奴は、それを待ってんだよ。俺たちが、大軍でノコノコと出かけていって、奴が作った罠にハマるのをな。……だがな、奴も一つ、勘違いをしてやがる」


キバは玉座から立ち上がると、壁にかけてあった巨大ななたのような特製のクレイモアを、その手に取った。


「伝説だか、亡霊だか知らねえが、所詮は、一匹狼。俺様のように群れを率いた経験はねえ。――つまり、奴は本当の“狩り”を知らねえんだよ」


キバの目に、獰猛な光が宿る。


「お前ら、最強の十人だけを選べ」

「……! キバ様、自ら、お出ましに?」

「当たり前だ。伝説の首は俺様自身がこの牙でへし折ってこそ意味があるんだろうが」


彼は舌なめずりをしながら命令した。


「奴が最後に目撃されたのは、“迷宮”だな? 奴は、そこで俺を待っている。最高の舞台を用意して、な」

「しかし、それは罠では……」

「罠に自ら飛び込んで、その罠ごと喰い破るのが俺のやり方だ!」


キバの咆哮が地下の要塞に木霊する。

傲慢な肉食獣は祐樹の思惑通り最高の“餌”に見事に食いついたのだ。



その半日後。

“迷宮”の入り口に、キバと彼が選りすぐった十人の屈強な側近たちがその姿を現した。


彼らは祐樹のような、隠密行動ステルスなど微塵も考えていない。

ただ、圧倒的な暴力でこの迷宮に潜むネズミを正面から探し出し、叩き潰す。

それだけだった。


「……さて、狩りの時間だ」


キバが、獰猛な笑みを浮かべ、迷宮へとその第一歩を踏み出した、その時。


ヒュッ、と。

風を切る、鋭い音。


キバのすぐ側を歩いていた側近の一人の眉間に、一本の黒い矢のようなものが深々と突き刺さった。

男は悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちる。

矢の正体は、先端を鋭く尖らせた、鉄筋だった。


「……なっ!?」


キバたちが一斉に矢が飛んできた方向――迷宮の奥、ビルの屋上を見上げる。


だが、そこには、誰もいない。

ただ、夕暮れの赤い光が廃墟を不気味に照らしているだけ。


だが、祐樹はそこにいた。

ビルの、さらに奥の影の中。


彼は手製の強力なスリングショットを構え、静かに、次の獲物へと照準を合わせていた。

その仮面の下の瞳は、もはや、獲物の数と位置、そして、風の強さと向きだけを計算する精密な機械と化していた。


狩りは、すでに、始まっている。


ヒュッ!

風を切り裂く音と共に、側近の一人が悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちた。

その、あまりに静かで、あまりに完璧な一撃。

それは、キバが率いる百戦錬磨のならず者たちの心に、初めて本能的な“恐怖”の楔を打ち込んだ。


「……ちぃっ!」


キバは、忌々しげに舌打ちすると、巨大な鉈を構え怒号を上げた。


「ビビってんじゃねえ! 奴は、たった一人だ! 全員散開しろ! そのドブネズミを穴蔵から引きずり出して八つ裂きにしてやれ!」


その命令に、側近たちは一瞬だけ躊躇いを見せた。

散開する。

それは、各個撃破される最大のリスクを意味する。


だが、彼らはキバの命令に逆らうことの方が遥かに恐ろしいことを知っていた。

十人の兵士たちは、互いに目配せをすると、二人一組のチームを組み、迷宮の闇の中へと吸い込まれるように消えていった。


それは、祐樹が完全に予測していた通りの行動だった。

群れから離れた獣は、もはや狩人の餌食でしかない。

祐樹はビルの屋上から、獲物たちの動きを静かに観察していた。

彼の目は、暗闇を昼間と何ら変わらずに見通すことができる。

二人の男が、瓦礫の山を乗り越え、廃墟の一階部分へと侵入していくのが見えた。


(……二匹目)


祐樹は腰に提げた小さなポーチから鉄球を取り出した。

それは、彼がアビスで愛用していた、ただの鉄の塊。

だが、彼の手に握られることで、それは恐るべき凶器へと変わる。

彼は狙いを定めると、その鉄球を、真下へと、音もなく、ただ、落とした。

落下地点は二人が侵入した廃墟の真上の脆くなった天井部分。


ズンッ、と。

低い、地響きのような音がした。


次の瞬間。

ゴゴゴゴゴゴッ!

鉄球の衝撃によって、天井が巨大な口を開けるように崩落した。


「な、なんだぁ!?」

「うわあああああっ!」


二人の男はなすすべもなく、数トンのコンクリートの瓦礫の下敷きとなった。

即死は免れても、生きてここから這い出すことは二度とできないだろう。



別の場所。

また二人の男が地下へと続く不気味な階段を慎重に下りていた。


「……おい、何か、聞こえねえか?」

「気のせいだろ」


その時、彼らの足元で、カチリ、と。

小さな、しかし、致命的な音がした。

祐樹が道中で仕掛けておいたワイヤー式の簡易な罠だった。


罠は彼らの頭上にあった、剥き出しの水道管のバルブに繋がっていた。

バルブが勢いよく捻られる。

直後、水道管から濁った水と共に、青白いゼリー状の液体が滝のように降り注いだ。


「うおっ、なんだこりゃ!?」

「くせえ! まるで、腐った……」


男たちがその液体の正体に気づいた時には、すでに遅かった。


それは、アビスの深層にのみ生息する特殊な粘菌だった。

この粘菌は、酸素に触れると獲物の神経を麻痺させる強力な毒素を放出するのだ。

二人の男は短い痙攣の後、その場に崩れ落ち二度と動くことはなかった。


キバと残った六人の部下たちは、仲間たちの断末魔の悲鳴を離れた場所で聞いていた。

彼らの顔から最初の自信は完全に消え失せていた。


「キバ様……! いったい、何が……」

「……こいつ、ただの殺し屋じゃねえ。この迷宮そのものを味方につけてやがる……!」


キバは歯噛みしながら呟いた。


恐怖がじわりじわりと彼らの心を蝕んでいく。

この闇の中には、自分たちでは到底太刀打ちできない得体の知れない“何か”がいる。


「……キバ様! いったん、退きましょう! 体勢を立て直すべきです!」


側近の一人が震える声で進言した、その時だった。


ゴウッ!

彼らの目の前で、突如として巨大な火柱が上がった。

祐樹が事前に配置しておいた、ガソリン入りのドラム缶。

それを、彼は屋上から火をつけた布を巻いた鉄筋を投擲することで完璧なタイミングで爆破させたのだ。


炎の壁が、キバとその後方にいた三人の側近を完全に分断する。


「ぐわあああっ!」


炎に巻かれた三人が悲鳴を上げながら地面を転げ回る。

そして、炎の向こう側には、キバがただ一人孤立していた。


「……ようやく、邪魔者がいなくなったな」


炎の向こう側、揺らめく影の中から一つの人影がゆっくりと姿を現した。

ひび割れた仮面をつけた、亡霊。

相沢祐樹だった。


彼は手にしたスリングショットを捨てると、腰から一本のサバイバルナイフを抜き放った。


「……てめえ……! 出てきやがったな、“名無し”!」


キバは恐怖と怒りに顔を歪ませながら、巨大な鉈を構え直す。


「俺の仲間を、よくも……!」

「仲間? お前にとっては、ただの使い捨ての盾だろう」


仮面の下から冷たい声が響く。


「……さて。盤上の駒は、全て片付けた」

「残るは、お前だけだ。……“キバ”」


炎の壁を挟んで、対峙する二つの影。

アビスの新たなる実力者と、伝説の亡霊。


狩りの舞台は整った。

本当の戦いは、今、ここから始まる。

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