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深淵の病

アビスの空気は祐樹の肺を懐かしい腐臭で満たした。


雨に濡れたコンクリートと、錆びた鉄、そして、どこからか常に漂ってくる死と腐敗の匂い。

表社会の清潔な空気に慣れた体には毒のようにすら感じられる。

だが、祐樹の魂は、この空気を吸い込むことで戦闘態勢へと切り替わる昂揚感にも似た感覚を覚えていた。


ここは、彼が生まれ育った狩り場。

全ての偽りを捨て、ただの“獣”として生きることが許される唯一の場所。


彼は闇から闇へと音もなく移動していく。

アビスでは、目立つ格好の単独行は格好の獲物だ。

特に祐樹が背負う物資が詰まったバックパックはその価値を知る者たちにとっては垂涎の的だった。


案の定、三つの影が祐樹の行く手を塞ぐように瓦礫の陰から姿を現した。

痩せこけ、しかしその目は飢えた狼のようにギラついている。

手には錆びついた鉄パイプや、刃こぼれしたナイフ。

この地区を縄張りとする、スカベンジャー(残飯漁り)の類だろう。


「……よう、兄さん。随分と良いモン、持ってるじゃねえか」


リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべる。


「中身を、全部ここに置いていけ。そうすりゃあ命だけは助けてやるよ」


祐樹は何も答えなかった。

ただ、フードの下からその冷たい視線を男たちに向けるだけ。

その、あまりに落ち着き払った態度に男たちは逆に苛立った。


「なんだ、このガキ……聞こえなかったのか!?」

「殺っちまえ!」


三人が同時に祐樹へと襲いかかった。


だが、その光景はもはや戦闘とすら呼べなかった。


最初に突っ込んできた男の鉄パイプを振り上げた腕を、祐樹はまるで柳のように受け流すと、その肘の関節に的確な掌底を叩き込んだ。

ゴキリ、と嫌な音がして男は悲鳴と共に崩れ落ちる。


二人目のナイフを突き出してきた男のその手首を掴むと、信じられない力で捻り上げる。

男の手からナイフが滑り落ち自らの太腿に突き刺さった。


最後に残ったリーダー格の男は、目の前で起きた一瞬の出来事に恐怖で足が竦んでいた。

祐樹はその男の目の前までゆっくりと歩み寄る。

そして、その顔面に強烈な膝蹴りを、ただ一発叩き込んだ。

男の意識はそこで闇に沈んだ。


祐樹は気絶した男たちの体をゴミでも見るかのような目で見下ろすと、その装備の中からまだ使えそうなサバイバルナイフと水の入った水筒だけを手際良く奪い取った。


アビスでは、奪う者が生きる。

奪われる者は、死ぬ。

ただ、それだけだ。


半日ほどかけて、祐樹は目的地である廃墟と化した教会の前にたどり着いた。


彼が合図のノックをすると、内側から重いかんぬきが外される音がした。

現れたのは腰の曲がった老婆――ハナだった。

彼女は祐樹の姿を見ると、その皺だらけの顔を驚きとそして安堵に歪ませた。


「……ミナト……! ああ、生きて、生きていたんだね……!」


彼女は祐樹がアビスを去った数少ない事情を知る先生の代からの協力者だった。


「……子供たちの容態は」


祐樹の問いに、ハナは力なく首を横に振った。


「……よくはない。さあ、こっちへ」


ハナに導かれ、祐樹は教会の地下に広がる隠された聖域サンクチュアリへと足を踏み入れた。

そこには、数十人の子供たちが、身を寄せ合うようにして暮らしていた。


祐樹が表社会から送り続けている物資のおかげで、彼らは飢えてはいなかった。

だが、その顔にはARTの圧力がもたらす、閉塞感と未来への不安が暗い影を落としている。


そして、部屋の奥。

そこには、粗末な毛布の上に十人ほどの特に幼い子供たちがぐったりと横たわっていた。


ゼェ、ゼェ、と苦しそうな呼吸。

熱に浮かされた、虚ろな瞳。


祐樹は、その一人、五歳の少女の額にそっと手を置いた。

燃えるような、熱。

アビス特有の汚染された水や空気から感染する肺の病だ。


祐樹は背負っていたバックパックから、持てる限りの抗生物質と解熱剤を取り出した。

そして、慣れた手つきで、子供たち一人一人に薬を投与し濡れた布で体を拭いていく。


その横顔には、アビスの亡霊の冷徹さも大学生の穏やかさもない。

ただ、愛する家族の身を案じる、一人の兄の苦悩に満たた表情だけがあった。


「……ありがとう、ミナト」


一通りの応急処置を終えた祐樹に、ハナが震える声で言った。


「だけど……これだけでは、とても足りない...病の進行が早い子が、まだ、五人も……」

「分かっている。必ず、追加の薬を持ってくる」


祐樹は力強く答えた。

だが、ハナの表情は、晴れない。


「……問題は、病だけでは、ないの」


彼女は意を決したように祐樹に告げた。


「物資が完全に途絶え、アビスの連中は追い詰められている。そして、追い詰められた獣はより弱い者から牙を剥く……」

「……」

「今、中層地区を、一人の男が力で支配しているの。最も凶暴な三つの派閥を束ね上げた残忍な男……」


ハナは、忌々しげに、その名を口にした。


「――“キバ”。」

「筋金入りの実力者よ。そして、ARTの包囲網が完成する前に、アビス内部に流通していた、ほとんどの食料と、そして……医薬品を、独占してしまったの」


祐樹の全身から、殺気とでも言うべき冷たいオーラが放たれた。


「……奴の狙いは、なんだ」

「……この、教会よ」


ハナは、悔しそうに唇を噛み締めた。


「ここは、アビスの中でも数少ない安全に水が手に入る場所。そして、多くの“働き手”になる子供たちがいる。奴はこの場所を自らの新しい巣にするつもりなの」

「……」

「奴は、子供たちが、この病でさらに弱るのを、待っている。そして、我々が完全に抵抗できなくなった時……この場所を、全て奪いに来るつもりだろう」


ハナは、祐樹の腕を皺だらけの手で強く掴んだ。


「ミナト……。分かっているわ。あなたに全てを背負わせるわけにはいかない。だが、あの子らを守るには、あなたの、力と、非情さが必要なの……!」


祐樹の新たな任務。

それは、もはや、薬を届けて、帰還するだけの単純なものではなくなっていた。

アビス内部に生まれた、新たな癌。

それを、完全に切除しない限り、子供たちに未来はない。


祐樹はハナの懇願を静かに聞いていた。

その瞳には、同情も憐れみも浮かんでいない。

ただ、目の前の状況を、一つの「任務」として冷徹に分析しているだけだった。


彼はハナの震える手を、そっと外させると尋ねた。


「その“キバ”という男について、知っていることを、全て話してくれ」


その夜、教会の地下では小さな作戦会議が開かれた。


祐樹はハナや教会に身を寄せる年長の者たちから、キバに関するありとあらゆる情報を貪欲に吸収していった。

キバの本拠地は中層地区の西側、かつての大規模地下鉄駅の跡地。

地上からの光が一切届かない、天然の要塞。

彼が率いる兵力は、三つの派閥を統合した約百名。

その全てが、殺しに躊躇のない筋金入りの悪党たち。


そして、キバ本人。


彼はアビスの中でも珍しい、巨漢だった。

その強さは、純粋な暴力と恐怖によって成り立っている。

裏切り者は、腹心であろうと見せしめとして広場に死体を晒す。


だが、その支配は、完璧ではなかった。


「……奴は、傲慢だ」


かつてキバの派閥にいたが、そのやり方に反発し逃げてきたという、若い男が言った。


「奴は自分がアビスで一番強いと本気で信じ込んでいる。だから、自分より強いと噂される存在を病的なまでに憎んでいる。コロッセウムの伝説……“名無し”のことも、奴は、ただの作り話だといつも嘲笑っている」

「……なるほどな」


祐樹は静かに頷いた。

傲慢。

それこそが、最強の鎧であり、そして最大の弱点だ。



一方、その頃。

地下鉄駅跡地を改造した、キバの玉座。


そこには、乱暴に積み上げられた物資の山を背に巨大な体躯の男がふんぞり返っていた。

その顔には額から顎にかけて大きな爪痕のような傷が走り、その眼光は常に獲物を探す飢えた肉食獣のそれだった。


彼こそが中層地区の新たなる支配者、“キバ”。


「……なんだと?」


側近からの報告に、キバは不機嫌そうに眉をひそめた。


「あの、ジジイとガキどもの巣に物資を運んだ奴がいる、だと? ARTの包囲網をどうやって抜けた?」

「は……それが、全く……。ただ、ここ数日、中層地区の西側で奇妙な噂が流れております」

「……噂?」

「はい。数年前に姿を消した、コロッセウムの亡霊……“名無し”が帰ってきた、と……」


その名を聞いた瞬間、キバの顔が怒りで歪んだ。


「ハッ! 下らん!」


彼は側近の胸ぐらを掴むと、軽々と持ち上げた。


「いいか! その亡霊とやらが、本物だろうが偽物だろうが関係ねえ! 俺の縄張りでコソコソ嗅ぎ回るネズミは、一匹残らず俺様がその牙で噛み砕いてやる!」


彼は側近を投げ捨てると、玉座から立ち上がった。


「総員に伝えろ! 三日後、あの教会を完全に潰す! 食料も、水も、ガキどもも、全て奪い尽くせ! この俺様の名をアビス全土に知らしめてやるんだ!」


キバの獰猛な咆哮が、地下の要塞に不気味に木霊した。



教会の地下。

祐樹は、全ての情報を頭の中の地図に落とし込み、完璧な作戦を構築していた。

ハナが、不安そうにその横顔を見つめている。


「……ミナト。やはり無茶だわ。相手は百人を超える軍隊。あなた一人で、どうこうできるものでは……」

「軍隊と、戦う必要はない」


祐樹は初めて顔を上げた。

その瞳には、もはや一片の迷いもなかった。


彼は一枚の古びたひび割れた仮面をどこからか取り出した。

それは彼がかつてコロッセウムで“名無し”として戦っていた時に身につけていたものだった。


「……作戦は、シンプルだ」


祐樹はその仮面をゆっくりと自らの顔に装着した。

フードの下、その素顔は完全に闇に隠された。

現れたのは、もはやミナトではない。

アビスの伝説、“名無し”そのものだった。


「――俺が、奴の縄張りのど真ん中で最高の“餌”になってやる」

「傲慢な王は、伝説の亡霊を自らの手で狩り尽くさなければ、気が済まないはずだ。奴は必ず少数の側近だけを連れて俺を追ってくる」

「ですが、それは、あまりにも危険すぎる……!」

「危険?」


仮面の下から、冷たい笑い声が漏れた。


「ああ、そうだな。……奴にとっては、な」


祐樹は立ち上がった。

その手には、アビスに入ってからスカベンジャーたちから奪い取った、一本のサバイバルナイフだけが、鈍い光を放っている。


「軍隊を相手にする必要はない。獣を狩るのに兵士はいらない」

「必要なのは、完璧な罠だけだ」


彼はそう言い残すと、ハナの制止の声も聞かず、一人教会の闇の中へと再び姿を消した。

伝説の亡霊が新たなる獣を狩るための孤独な戦いが、今、始まった。

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