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針の穴

新章開幕です

ARTの発足から、一ヶ月。


祐樹の日常は完璧な擬態のまま、静かに、そして規則正しく回り続けていた。


だが、その水面下では、ARTの包囲網が日に日にその網目を狭め祐樹の生命線であるアビスの子供たちへの支援ルートを、確実に蝕み始めていた。


そして、ついに恐れていた事態が現実となる。

その夜、祐樹の暗号化端末にアビス内部の協力者から緊急のメッセージが届いた。


『西七区のルートが、完全に塞がれた。ARTの巡回ドローンが、常に上空を飛んでいる。先日の物資搬入は奇跡的に見つからなかったがもう限界だ。備蓄してあった医薬品が底をつき始めている。幼い子供たちのうち三人が高熱を出した。このままでは……』


文面はそこで途切れていた。


だが、その後に続く言葉を祐樹は痛いほど理解できた。


(……まずい)


彼の表情から血の気が引いていく。


祐樹は自室のPCでアビス周辺の地図データを食い入るように見つめた。


新たなルートを探す。

地下水路、古い地下鉄の廃線、下水道…….。


だが、彼が知る限りの全ての抜け道には、すでにARTによる封鎖予測地点を示す赤いマークが付けられていた。

カラスの情報網を使ってもこの完璧な包囲網を突破できるような新たなルートは見つからない。


完全に、手詰まりだった。


(……どうする)


祐樹の脳が猛烈な速度で回転する。


力で突破するか?

医薬品を持ってARTの部隊と正面からやり合う?

馬鹿げている。

そんなことをすれば、全てが終わりだ。


彼の心に焦りとこれまで感じたことのない無力感が広がっていく。


アビスの亡霊として彼は無敵だった。

だが、相沢祐樹は国家という巨大なシステムの前ではあまりにも無力だった。


(……いや)


祐樹は思考を自ら断ち切った。


(俺は一人だ。昔からずっとそうだった。誰かに頼るという選択肢は最初から存在しない)


彼の瞳に再びアビスの闇の色が戻る。


(道がないのならこじ開けるまでだ。俺のやり方で)


彼はカラスに連絡を入れた。

そのメッセージはこれまでにないほど簡潔で、そして無謀だった。


YUKI: 『俺が、行く』

CROW: 『……正気か? ARTの包囲網は完璧だ。鼠一匹通さんぞ』

YUKI: 『完璧なシステムなどこの世に存在しない。機械にはメンテナンスが必要だ。兵士には交代の時間がある。俺が探しているのは“道”じゃない。“隙間”だ』

YUKI: 『ARTの包囲網に関する全てのデータを送れ。警備員の交代スケジュール、ドローンの巡回ルート、センサーのスペックと死角、通信システムの保守記録、周辺の気象データ……お前が持つ全ての情報をだ』

その要求に、カラスは数秒間沈黙した。

そして、短い返信が届く。

CROW: 『……面白い。お前がそこまで本気だというのなら乗ってやろう。だが、失敗すればお前の人生はそこで終わりだと思え』


直後、祐樹の端末に膨大な量のデータが滝のように流れ込んできた。



その夜、祐樹は一睡もせずそのデータの解析に没頭した。

部屋の明かりもつけず、PCのモニターの光だけが、彼の真剣な横顔を青白く照らし出している。


傍らでノアが何も言わず、ただその背中をじっと見つめていた。


祐樹は無数の可能性を、一つずつ丹念に潰していく。


地下水路は新型の音響センサーが設置され、通過は不可能。

古い地下鉄の廃線は高感度の動体探知機が網の目のように張り巡らされている。

壁を直接越えるルートは、常に複数の光学迷彩ドローンが監視している。


まさに、鉄壁。


だが、祐樹は諦めなかった。

そして、夜が白み始める頃、彼はついにそれを見つけ出した。


一つの“穴”ではない。

いくつかの全く無関係な事象が、奇跡的に一点で交差する時間と空間のほんの僅かな“歪み”。



三日後。

その日の深夜、この地区には大型の台風の接近に伴う記録的な暴風雨が予測されている。


そして、その暴風雨が最も激しくなるであろう、午前三時。

壁の北西エリア、最も警備が手薄な第七監視塔で、週に一度の警備員の交代が行われる。

さらに、その交代とほぼ同じタイミングで、そのエリア一帯をカバーする新型広域レーダーのシステム再起動リブートのための、定期メンテナンスが90秒間だけ予定されている。


暴風雨による各種センサーの感度低下。

警備員の交代による、一瞬の人的な空白。

そして、新型レーダーの90秒間の完全な沈黙。


これら全てが重なる奇跡の90秒。

それこそが、祐樹が見つけ出した神ですら見逃すであろう完璧な包囲網に空いたたった一つ*“針の穴”だった。


祐樹はPCを閉じると静かに立ち上がった。


そして、クローゼットの奥から一つの古びたダッフルバッグを取り出した。

中に入っていたのはハイテクなガジェットではない。

アビスで彼が自らの手で作り、使い込んできた生存のための道具。


先端を三日月状に研ぎ澄ました特製のワイヤーフック。

一切の音を立てない柔らかい獣の皮で作られた特殊なブーツ。

そして、光を吸収するマットブラックの戦闘用の衣服。


それらを、彼は静かにそして手際良く身につけていく。

その姿は、もはや大学生でも用務員でもなかった。

それは、死地へと赴く一人の兵士の姿だった。


「……ミナ」


ノアが心配そうな、しかし覚悟を決めた目で彼を見つめている。


「……無茶だよ」

「ああ、無茶だ」


祐樹は準備を終えると、ノアの頭に優しく手を置いた。


「だが、やるしかない。……ただ少し、故郷に散歩に行くだけだ」


その冗談とも本気ともつかない言葉に、ノアは何も言えなかった。


祐樹は玄関のドアを開け、外へと足を踏み出す。



三日後の夜。

予報通り、世界は暴風雨に包まれていた。

風が唸りを上げ、滝のような雨がアスファルトを叩きつける。


祐樹はアビスを囲む高さ30メートルの巨大な壁の前に一人で立っていた。


コンクリートの壁面を激しい雨が川のように流れ落ちていく。

その、あまりに絶望的な光景を、彼はフードの下から静かに、そして冷徹に見上げていた。


針の穴を、通る時間だ。


ザアアアアアアアアアッ――!


空が裂けたかのような凄まじい豪雨。

風がまるで意思を持った獣のように唸りを上げ、巨大なコンクリート壁に叩きつけられている。

視界は数メートル先すら覚束ない白濁した闇に閉ざされていた。


祐樹は壁の麓、ARTが設置したであろう監視カメラの死角となる僅かな窪みに身を潜めていた。

その手にした防水仕様の腕時計がデジタル表示で冷徹に時を刻んでいる。


02:59:30

作戦開始まで、あと三十秒。

祐樹は目を閉じ自らの呼吸と心音を周囲の暴風雨の音に完全に同化させていく。

気配を消す。

存在を消す。

彼はもはや人間ではない。

この嵐の一部。

壁を伝う、ただの一滴の雨粒となる。


02:59:50

祐樹の目がカッと見開かれた。

彼は背負っていたダッフルバッグから、先端を三日月状に研ぎ澄ました特製のワイヤーフックを取り出した。

アビスの硬化したコンクリート壁に突き立てるため、彼が自ら鍛え上げた特殊な合金製の爪だ。


02:59:58

祐樹は壁に向かって駆け出した。

その動きは嵐の中でも一切のブレがない。


02:59:59

彼は壁を数歩垂直に駆け上がると、その跳躍の頂点で腕をしならせた。


03:00:00

腕時計が作戦開始を告げた、そのコンマ一秒後。

祐樹の手から放たれたワイヤーフックが、カシュン!という微かな音を立てて、約十五メートル上方の壁面に深々と突き刺さった。


完璧なタイミング。

新型広域レーダーが沈黙し、第七監視塔の警備員が持ち場を離れた、まさにその瞬間だった。


祐樹は人間離れした腕力と体幹だけで、ワイヤーを伝い壁を登り始める。


暴風雨が容赦なく彼の体を叩きつけ、体温を奪っていく。

滑る壁面、視界を遮る雨粒。

その全てが彼の行く手を阻む致命的な敵だった。


だが、彼の動きに迷いはない。

まるで、垂直な崖を駆け上がる野生の獣のように、彼は黙々と闇の中を登っていく。


残り時間、六十秒。


壁の中腹、約二十メートルの地点。

祐樹の動きが、ピタリと止まった。


彼の嵐の音の中でもなお異音を拾う聴覚が、壁の内部から響く微弱な“振動”を感知したのだ。


(……センサーか!)


壁の内部に高感度の振動センサーが網の目のように埋め込まれている。

フックを打ち込んだ衝撃や壁を登る振動を感知するための、罠だ。


だが、祐樹はこの可能性すら計算に入れていた。


彼はもう一本の先端にゴムが巻かれた特殊なフックを取り出すと、それをセンサーが埋め込まれていない配管用の僅かな溝に音もなく引っ掛けた。


そして、最初のフックを外し自らの体を振り子のように大きく揺らす。

彼は壁に一切触れることなく、ただ、腕力と遠心力だけを利用して、空中を舞うように次のポイントへと移動していく。


それは、もはや登山ではない。

重力に逆らう死の舞踊だった。


残り時間、三十秒。


壁の頂上が目前に迫る。

だが、祐樹の心に一瞬だけ悪寒が走った。


(……何か、いる)


頂上の監視塔の影。

そこに、人の気配。


カラスのデータにはなかったARTの伏兵。

彼らはこの悪天候を逆手に取り、電子機器に頼らない純粋な“目”による監視を行っていたのだ。


祐樹は最後のフックを頂上の縁に引っ掛けると、その勢いのまま体を大きく振り上げ、音もなく壁の頂上へと着地した。


その、まさに着地と同時に。

監視塔の影から二つの人影が、ナイフを手に音もなく襲いかかってきた。

ARTの中でも特に選抜された近接戦闘のスペシャリスト。

彼らは祐樹の存在を、完全に捕捉していた。


「――目標を、捕捉」


一人の男が喉に装着した咽喉マイクで短く報告する。


だが、その報告が司令部に届くことはなかった。

なぜなら、彼の喉は次の瞬間には、祐樹の手刀によって、的確に、しかし、決して死なない絶妙な力加減で打ち砕かれていたからだ。


「が……っ!?」


声にならない呻きを上げ、男が崩れ落ちる。

もう一人が、その異変に気づき振り返ったその時には。

祐樹の姿は、すでにその場から消えていた。


暴風雨の闇に、完全に溶け込んでいた。

男は、背後に死神の気配を感じた。


だが、彼が振り返ることは二度となかった。


後頭部に短く的確な一撃。

男の意識は静かに闇の中へと沈んでいった。


残り時間、十秒。


祐樹は二人の伏兵を痕跡すら残さず完璧に無力化すると、壁の内側――アビスの方へと視線を向けた。

眼下に広がるのは彼が生まれ育った懐かしい闇。


03:01:29

祐樹は壁の縁に立ち、最後の跳躍の準備をする。


03:01:30

レーダーが、再起動するそのコンマ一秒前。


彼の体は、鳥のように闇の中へと舞い降りていった。

壁の内側、アビスの腐臭を纏った大地に祐樹は音もなく着地した。


彼の服は破れ体は無数の切り傷で血を滲ませている。

だが、その瞳には確かな目的を遂行するための、冷たいしかし力強い光が宿っていた。


彼は、故郷の懐かしい腐臭を深く、深く、吸い込んだ。

そして、子供たちが待つ教会の地下へと走り出した。


本当の戦いは、ここから始まる。

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