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幕間:親友の背中

 俺には親友がいる。

 相沢祐樹。


 大学でたまたま席が隣だったのがきっかけでつるむようになった俺のたった一人の親友だ。


 あいつは、なんだか不思議な男だった。


 見た目はどこにでもいる、ちょっとイケメンの物静かな奴。

 誰にでも親切で穏やかで怒ったところなんて見たことがない。


 だが、時々ふとした瞬間に、あいつは人間じゃなくなる。


 例えば先日の講義の合間。


 俺は自販機で買った缶コーヒーを、少し離れた場所にいた祐樹にふざけていきなり投げつけた。

 もちろん、祐樹はこっちに背中を向けてスマホをいじっていた。


 あ、やべ、と思った時にはもう遅い。


 だが。


 祐樹は振り返ることなく、スマホを持っていたのと逆の手をすっと背後に伸ばした。

 その掌の中に俺が投げた缶コーヒーが、まるで吸い込まれるようにスポンと収まったのだ。


 一滴もこぼさずに。


「……サンキュ」


 祐樹は振り返ると何事もなかったかのように、そう言ってにこりと笑った。

 俺はあんぐりと口を開けたまま固まっていた。


「……お、お前、今……見てなかったよな!?」

「ん? 見てたぞ」

「嘘つけ! お前背中に目でもついてんのか!?」

「まさか」


 あいつは、そう言って楽しそうに笑うだけ。

 こういうことが一度や二度じゃない。


 あいつの人間離れした反射神経。

 それは、もはやスポーツマンの域を遥かに超えていた。


 また、ある時はこんなこともあった。

 ゼミの発表で最近の国際情勢について、グループでディスカッションをしていた時のことだ。


 誰もがテレビのニュースで聞いたような薄っぺらい意見を言い合うだけ。

 いつもはこういう時、ただ、黙って聞いているだけの祐樹がその日は珍しくポツリと呟いたのだ。


「……その紛争の本当の原因は民族対立でも宗教でもない」


 彼のその静かな声に、俺たちは思わず耳を傾けた。


「……ただの、水と食料の奪い合いだ。正義なんていう綺麗な言葉はいつだって腹が満たされた強者の側が後から作り出すものだよ」


 そのあまりに冷めていて、あまりに物事の本質をえぐるような言葉。


 それはただの大学生が語るにはあまりに重すぎた。

 まるで、実際にそういう地獄をその目で見てきたかのような……。


 俺が「どこで、そんな話を?」と聞くと、あいつはいつものように曖昧に笑うだけだった。


「……さあな。昔、読んだ本の受け売りだよ」


 こいつは一体何者なんだ?

 俺は時々本気でそう思うことがある。


 あいつは俺の親友だ。


 だが、俺はあいつのこと本当は何も知らないのかもしれない。

 そんな予感がずっと俺の心の片隅にあった。


 そして、その予感が確信に変わったのが、つい先日の放課後のことだった。


 その日、最後の講義が終わった後、俺はさっさと帰る準備をしていた。


 「よう、祐樹、帰るぞー」


 俺はいつもみたいにあいつに声をかけた。


 だが、返事はなかった。

 不思議に思ってあいつの席を見ると、祐樹はまだ座ったままだった。


 窓際の一番後ろの席。


 あいつは俺に背を向けるようにして、ただ、じっと窓の外を眺めていた。


 夕焼けが教室をオレンジ色に染めている。

 ほとんどの学生は、もう帰ってしまって、がらんとした教室はやけに静かだった。


「……祐樹?」


 俺はもう一度声をかけた。

 だが、やっぱり返事はない。


 あいつの背中は、まるで石像のようにぴくりとも動かなかった。

 俺はなんとなく胸騒ぎがして、あいつのすぐ側まで歩み寄った。


 そして、その横顔を見てしまったのだ。

 窓ガラスに映った、その表情を。


 ……空っぽ、だった。


 悲しい、とか、寂しい、とかそういうんじゃない。

 もっと根本的に何もなかった。


 喜びも怒りも哀しみも楽しみも。

 人間が当たり前に持っているはずの、心の全ての色が、そこからは完全に抜け落ちていた。


 そこにあったのは、ただ、どこまでも続く深淵のような空虚。


 俺はその時、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。


 こいつは、今、俺たちと同じ世界を見ていない。

 もっと、ずっと遠くて暗くて冷たい場所に、たった一人でいるんだ、と。


 その、あまりにも深い孤独。

 俺はあいつのそんな顔を、今まで一度も見たことがなかった。


「……あ」


 俺が思わず声を漏らした、その時。


 祐樹の体がびくりと震えた。


 そして、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その顔には、もう、あの空っぽの表情はどこにもなかった。


 いつもの穏やかで少しだけ困ったような、あの相沢祐樹の笑顔がそこにはあった。


「……悪い、健太。どうかしたか? 少しぼーっとしてた」

「……いや、別に」


 俺はそれ以上、何も言えなかった。

 聞けるはずがなかった。

 お前、今、どんな顔してたか分かってるのかよなんて。


 俺は、ただ、分かったのだ。

 俺とこいつの間には、決して越えることのできない、深くて暗い川が流れているんだ、と。


 俺はその川のこちら岸で生きていて。

 あいつはたった一人で向こう岸に立っているんだ、と。


 それでいいのかもしれない。

 俺にはあいつが背負っているものを、背負うことなんてできっこないんだから。


 だから、俺はせめて。

 こちら岸からバカみたいにでかい声であいつの名前を呼び続けてやろうと決めたのだ。

 あいつが向こう岸で凍えちまわないように。


 俺は、わざといつもより乱暴にあいつの肩を組んだ。


「ぼーっとしてんじゃねえよ! 腹、減ったな!」

「……ああ」

「よし! 今日は、俺の奢りだ! 特濃こってり豚骨マシマシの最強のラーメン食いに行くぞ!」

「……ふふ」


 祐樹が少しだけ困ったように、でも、本当に少しだけ嬉しそうに笑った。


「……ああ。そうだな」


 それで、いい。

 今はそれで十分だ。


 俺たちは夕焼けに染まる、長い廊下をくだらない話をしながら歩いていった。

 ただのどこにでもいる大学生みたいに。

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