掃除屋と女王様
翌朝、相沢祐樹は全く別の人間になっていた。
着古したジーンズとシャツの代わりに、真新しい紺色の作業着に身を包む。
大学へ向かうバスではなく、都心でも有数の高級住宅街へと向かう電車に揺られていた。
彼の新たな職場、『私立・聖マリアンヌ女学院』。
百年以上の歴史を誇る、正真正銘のお嬢様学校だ。
政財界の大物の娘や、由緒正しい家柄の子女たちが集う、現代の深窓。
アビスとは光と影ほどに隔たった世界だった。
通用門で昨日受け取った職員証を提示すると、人の良さそうな初老の警備員に「今日からの方ですね。頑張ってください」と声をかけられた。
祐樹は「はい、ありがとうございます」と、人の良い青年の笑みを浮かべて返す。
完璧な擬態だ。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
蔦の絡まる赤レンガの校舎。
細心に手入れされた芝生の庭園。
中央には天使の彫刻が施された噴水が涼やかな水を噴き上げている。
アビスの空気が常に鉄と血の匂いに満ちていたのに対し、ここは澄んだ大気と、ほのかに甘い花の香りがした。
「――相沢君だね。私がここの施設管理を任されている、田中です」
施設管理室で祐樹を迎えたのは、人の良さそうな中年男性だった。
「今日からよろしく。仕事は主に校舎内の清掃と、簡単な備品の修繕だ。まあ、うちの生徒さん方は行儀が良いから、滅多に汚したり壊したりはしないんだがね」
田中はそう言って笑うと、一通りの業務内容と道具の場所を説明してくれた。
祐樹は真面目な新人の顔で、その言葉の一つ一つに丁寧に相槌を打つ。
だが、彼の脳は別の情報を処理していた。
建物の構造、廊下の長さ、窓の数、監視カメラの位置と首振りの角度、そして死角。
それら全てを、一度歩いただけで完璧に記憶していく。
まるで頭の中に、精密な三次元マップを構築していくように。
アビスでは、初めて入る建物でこれを怠る奴から死んでいく。
ここは戦場ではない。
だが、祐樹の生存本能が、そうすることをやめさせなかった。
「じゃあ、まずは西館の一階廊下からお願いしようかな」
「はい、分かりました」
祐樹はモップとバケツを手に、彼の最初の持ち場へと向かった。
始業前の、生徒たちが登校してくる時間帯。
廊下は賑やかだった。
ブランド物の革靴が、磨き上げられた床を叩く軽やかな音。
楽しげな笑い声。
祐樹は、壁際の風景の一部と化し、淡々とモップを動かす。
その耳は、半径三十メートル以内の全ての会話を拾っていた。
「ねえ、昨日のドラマ見た?」
「三組の佐藤さん、また彼氏と別れたらしいわよ」
「次の小テスト、範囲はどこまでかしら」
他愛もない、平和な会話。
その一つ一つを情報として分類し、生徒たちの人間関係の相関図を頭の中に描いていく。
西園寺麗奈の情報を得るには、まず彼女を取り巻く環境を知る必要があった。
その時だった。
廊下の向こうから歩いてくる集団に、他の生徒たちがサッと道を譲った。
モーセの十戒のように、人波が左右に分かれる。
その中心に、彼女はいた。
西園寺麗奈。
昨日、写真で見た通りの少女。
だが、生身の彼女が放つ存在感は、写真の比ではなかった。
背筋は真っ直ぐに伸び、顎を少し上げ、その瞳は常に周囲を見下している。
彼女が歩くだけで、廊下の空気が凛と張り詰めるのが分かった。
取り巻きと思われる二人の生徒を従え、その姿はまるで女王のようだった。
祐樹は、彼女の姿を視界の端に捉えながら、ただの用務員として黙々と作業を続けた。
彼女のグループが、祐樹のすぐ横を通り過ぎようとする。
その時、取り巻きの一人が祐樹の存在に気づき、眉をひそめた。
「ちょっと、邪魔ですわ」
咎めるような声。
だが、麗奈は取り巻きを手で制すると、自ら祐樹の前に歩み出た。
コツ、と彼女の革靴が、祐樹のモップのすぐ手前で止まる。
「あなた、新入り?」
冷たく、鈴の鳴るような声だった。
祐樹は作業を止め、顔を上げた。
そして、困ったように少しだけ眉を下げてみせた。
「……はい。本日付けで配属になりました、相沢と申します」
「そう。ここは生徒が通る場所よ。清掃なら、もっと効率を考えてなさいな」
まるで、出来の悪い使用人に言い聞かせるような口調だった。
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
祐樹は、完璧な「平身低頭な用務員」を演じきり、深く頭を下げた。
麗奈は「ふん」と鼻を鳴らすと、彼にはもう興味を失ったように背を向け、再び優雅な足取りで歩き去っていく。
取り巻きたちが、すれ違いざまに「身の程を知りなさい」「麗奈様がお優しい方でよかったわね」と囁くのが聞こえた。
彼女たちの姿が廊下の角に消えるまで、祐樹は頭を下げたままだった。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その表情に、屈辱や怒りといった感情は一切なかった。
ただ、彼の目が、獲物の生態を観察する研究者のように、冷徹な光を帯びていた。
(西園寺麗奈……なるほど。噂通りの女王様か)
護衛対象としては、最高にやりにくいタイプだ。
だが、その方がいい。
彼女が他人に心を許さない限り、祐樹の存在が露見する危険も少ない。
その日の業務は、何事もなく終わった。
祐樹は他の職員に挨拶をして回り、完全に「真面目で物静かな新人」としての地位を確立した。
退勤時間。
生徒たちのほとんどは、迎えの高級車に乗るか、駅へと向かって帰っていく。
祐樹は、施設管理室で着替えを済ませると、麗奈の後を追った。
もちろん、百メートル以上の距離を保ち、通行人に紛れながらだ。
アビスで培った追跡術は、気配はおろか、自身の存在確率すら希薄にする。
麗奈は、いつも一人で帰るルートがある、とカラスの情報にあった。
運転手付きの車を断り、少しだけ散策を楽しむのが彼女の数少ない趣味らしい。
今日も、彼女は学園から少し離れた、並木道が美しい静かな通りを一人で歩いていた。
(……来るな)
祐樹の聴覚が、道の先にある路地裏から、複数の人間の息遣いを拾った。
一人ではない。
三人。
息にはアルコールと、安いタバコの匂いが混じっている。
足音はだらしなく、チンピラか半グレといったところか。
祐樹は即座にそう判断した。
彼らの目的は、十中八九、西園寺麗奈だろう。
聖マリアンヌ女学院の制服は、金持ちの令嬢であることの証明書のようなものだ。
案の定、路地の角から三人の男が姿を現し、麗奈の行く手を塞いだ。
「よぉ、お嬢ちゃん。ちょっと付き合ってくんない?」
リーダー格と思われる、金髪の男が下卑た笑みを浮かべる。
麗奈は、怯むことなく足を止めた。
その瞳には、恐怖ではなく、汚物を見るかのような侮蔑の色が浮かんでいる。
「……失せなさい、下郎」
麗奈は気丈にそう言い放った。
だが、その言葉は、男たちの歪んだ欲望に火を注ぐだけだった。
「はっ、威勢がいいねぇ! さすがはお嬢様だ。でもな、これからお前のその綺麗な顔を泣きっ面にしてやるんだよ!」
リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべ、麗奈に手を伸ばしたその瞬間だった。
路地裏の一番深い闇の中から、一つの人影が音もなくぬらりと姿を現した。
フードを目深に被っており、その顔は全く見えない。
ただ、そこに「いる」という圧倒的な存在感だけが空気を支配していた。
「……あんだ、てめえは!」
チンピラの一人が、その不気味な闖入者に苛立ち殴りかかった。
だが、その拳が人影に届くことはなかった。
ゴッ、という、鈍い音。
殴りかかった男は何が起きたのか分からないままその場に崩れ落ちる。
人影が一瞬動いたように見えただけ。
「この、野郎……!」
残った二人のチンピラが、恐怖と怒りで同時に襲いかかる。
だが、人影はその二人を避けない。
むしろ、その二人の間をすり抜けるようにゆっくりと歩いて通り過ぎる。
そして、人影が、通り過ぎた後。
二人のチンピラは、まるで糸が切れた人形のようにそれぞれの膝の関節をあり得ない方向に曲げられ、悲鳴も上げられずに地面に崩れ落ちていた。
後に残されたのは恐怖に顔を引きつらせるリーダー格の男と、その前に静かに立つフードの人影だけ。
リーダーは戦意を完全に喪失していた。
「ひっ……! お、覚えてろよ!」
決まり文句を吐き捨て、彼は逃げ出そうとする。
だが、その逃げ出す進路上に、いつの間にかあのフードの人影が先回りして立っていた。
リーダーが絶望し別の方向へ逃げようとする。
だが、そこにも人影が立っている。
まるで瞬間移動でもしたかのように。
完全に心を折られたリーダーは、その場にへたり込んだ。
フードの人影は何も言わない。
ただ、路地裏の出口を指差すだけ。
リーダーは這うようにしてその場から逃げ出していく。
あっという間に静寂が戻る。
後に残されたのは呆然と立ち尽くす麗奈と、地面に転がる二人の男たちだけだった。
麗奈は、恐る恐る自分を救ってくれた、その謎の人影へと視線を向けた。
「……あ、あなたは……?」
だが、そこに人影はすでになかった。
まるで、最初から誰もいなかったかのように完璧にその気配を消し去っていた。
麗奈はただそのあまりに不可解で、そして圧倒的な出来事に立ち尽くすことしかできなかった。