幕間:世界で一番のごちそう
相沢祐樹が命を懸けて守ろうとしている「日常」。
その日常をノアは少しずつ、しかし、確かに学び始めていた。
学校で初めて「友達」というものを知った。
一人でいるよりも、誰かと笑い合う方が、心が温かくなることを知った。
そして、彼女は祐樹に対しても新しい感情が芽生えていることに気づいていた。
これまでは、ただ、守ってもらうだけだった。
ミナは絶対的な強者で、自分はその庇護の下でしか生きられない、か弱い存在。
だが、今は違う。
彼女は見てきたのだ。
傷つき疲れ果て、それでも、戦い続ける彼の姿を。
そして、親友である健太の前で、ふと見せる、あの底なしの孤独を宿した背中を。
(あたしは、ミナに、何か、してあげられているだろうか)
その思いは、日に日に彼女の中で大きくなっていった。
彼は自分に全てを与えてくれる。
安全な寝床も温かい食事も、そして「学校」という新しい世界も。
なのに、自分は彼に何も返せていない。
その事実が彼女にはもどかしくてたまらなかった。
彼女は決意した。
いつも与えてもらうばかりじゃない。
今度は自分が彼に何かを与える番だ、と。
その日、ノアは学校が終わると祐樹に教わったばかりのスーパーマーケットへと、一人で向かった。
目指すは、食品売り場。
色とりどりの野菜、見たこともない魚、そしてパックに詰められた綺麗すぎる肉。
アビスでは考えられない豊かさの洪水。
彼女はその光景に圧倒されながらも、必死に目的のものを探した。
祐樹が一番好きだと言っていた食べ物。
ケチャップの甘い匂いがする、卵の料理。
彼女は祐樹がスマートフォンの画面で見せてくれた、その料理の「作り方」という魔法の呪文のようなものを、何度も、何度も頭の中で反芻していた。
ぎこちない足取りで食材を買い集め、彼女はアパートへと急いだ。
祐樹がバイトから帰ってくる前に全てを終わらせなければならない。
これは、彼女から彼への初めてのサプライズなのだから。
だが、彼女の挑戦はすぐに困難を極めた。
まず、米を炊くという第一の関門。
「炊飯器」という、謎の機械の操作方法が分からない。
彼女は、勘でいくつかのボタンを押した。
すると、機械は蒸気を吹き出し不気味な音を立てて沈黙した。
次に鶏肉を切るという第二の関門。
アビスで獲物を解体するのには慣れている。
だが、まな板の上で均等な大きさに肉を切る、という繊細な作業は彼女の知らないものだった。
結果、鶏肉は大小様々な謎の肉塊へと変貌した。
そして、最大の難関。
卵を焼くという最終関門
フライパンに油をひき、溶いた卵を流し込む。
そこまでは良かった。
だが、半熟になったそれを、ひっくり返すという工程が彼女には不可能だった。
卵は無惨に破れ、フライパンの上でただの黄色いスクランブルエッグへと変わり果てた。
ガチャリ、と。
玄関のドアが、開く音がした。
祐樹が帰ってきたのだ。
彼はドアを開けた瞬間その場で固まった。
目の前に広がっていたのは、まるで爆撃でも受けたかのような惨状だったからだ。
床には飛び散った小麦粉と卵の殻。
壁にはなぜかケチャップの赤い飛沫。
そして、その惨状の中心で一人の少女が、顔も、髪も、服も、粉とケチャップまみれになりながらフライパンを片手に途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。
ノアだった。
彼女は祐樹の姿を見ると、その大きな瞳にみるみるうちに涙を溜めた。
そして、今にも泣き出しそうな震える声で言った。
「……おかえり、ミナ」
「……失敗、しちゃった……」
その、あまりにも健気な姿に祐樹は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
そして、ただ一言、静かに、そして優しく言ったのだ。
「……ああ、ただいま、ノア。……何、作ってたんだ?」
「……オムライス」
ノアは蚊の鳴くような声で答えた。
「……ミナが、一番好きだって言ってたから。だから、作ってあげようと思ったのに……」
その言葉に祐樹の常に氷のように固く閉ざされていた心の一番柔らかい場所が、きゅっと締め付けられた。
彼は着ていたジャケットを脱ぐと、その袖をゆっくりと捲り上げた。
「……まだ、失敗じゃない」
「え?」
「手伝えノア。二人で完成させるぞ」
祐樹はそう言うと悪戯っぽく笑ってみせた。
そこから、二人のぎこちない料理教室が始まった。
祐樹は、まず無惨な姿になったスクランブルエッグを皿に取り分けた。
「これは、後で、俺が食う。練習用だ」
そして、新しい卵を冷蔵庫から取り出す。
彼はノアの小さな手をそっと取った。
「いいか、ノア。お前のナイフの持ち方は、人を殺すための持ち方だ」
「……うん」
「料理は違う。もっと優しく、力を抜いて握るんだ。……そう、そんな感じだ」
祐樹は手取り足取り彼女に包丁の使い方、火の加減の仕方、そしてフライパンの返し方を教えていく。
ノアは戦場では決して見せない、真剣な、そして、どこか楽しそうな表情でその全てを吸収していった。
キッチンは、さらに小麦粉と卵と、そして二人の不器用な笑い声で満たされていった。
数十分後。
テーブルの上には、二つの少しだけ不格好な、しかし温かい湯気を立てるオムライスが並んでいた。
ノアはケチャップを手に、真剣な顔で祐樹の分のオムライスの上に何かを書いている。
完成したのは子供が書いたような、拙い文字。
『ミナへ』
そして、その横には、歪んだハートのマークが添えられていた。
「……いただきます」
二人は手を合わせると、スプーンを手に取った。
ノアは自分が食べるのも忘れ、固唾を呑んで祐樹のその一口目を見守っている。
祐樹はスプーンでオムライスを一口分すくった。
そして、ゆっくりとその口へと運ぶ。
卵は少し火が通り過ぎている。
中のケチャップライスは味が少し薄い。
鶏肉の大きさもバラバラだ。
決して満点の出来栄えではなかった。
だが。
その不格好な料理には、どんな高級レストランのフルコースにも、決して真似のできない魔法がかかっていた。
温かくて、優しくて、そして少しだけ切ない。
それは「家族」の味がした。
祐樹の唇がゆっくりと綻んだ。
「……うまい」
彼はそう言うと、もう一口オムライスを口に運んだ。
そして、最高の笑顔で固まっているノアに告げた。
「今まで食った、どんなものより美味い」
その言葉にノアの大きな瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
それは悲しい涙ではない。
生まれて初めて誰かのために何かをして、そして「ありがとう」と言ってもらえた、喜びの涙だった。
彼女の顔がこれまでで一番美しい笑顔に、ぱあっと輝いた。
その夜、二人はただ黙々と少しだけ焦げたオムライスを食べ続けた。
窓の外には東京のきらびやかな夜景が広がっている。
それは、祐樹が命を懸けて守り、そして、いつかアビスの子供たちにも見せてやりたいと願う光の世界。
その、眩しすぎる光の中で、たった二人だけの不器用な食卓。
それこそが、彼にとっての世界で一番のごちそうだった。




