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幕間:ノアのはじめての友達

 相沢祐樹が、命を懸けて守ろうとしている「日常」。


 その日常を、ノアは、まだ、本当の意味では理解できていなかった。


 ♢


 彼女が通うことになった定時制高校。

 そこは、様々な事情を抱えた様々な年齢の生徒たちが集う場所だった。

 昼間は働き、夜に学びに来る。


 彼らの顔には、祐樹が生きる光の世界の住人たちとは、また少し違う、独特の疲労と、そして、未来へのささやかな希望が刻まれている。


 ノアはそんな教室の一番後ろの席で、いつも一人で窓の外を眺めていた。


 彼女にとってクラスメイトたちは理解不能な存在だった。


 なぜ、彼らは無意味な雑談に興じ、笑い合うのか。

 なぜ、彼らは、自分の弱さを、易々と他人に晒すことができるのか。


 アビスではそれらは全て死に直結する愚かな行為だった。


 彼女の体には、まだ、アビスの掟が深く染み付いている。

 常に周囲を警戒し、敵とそうでない者を見極め、決して他人に心を許さない。


 その結果、彼女はクラスの中で完全に孤立していた。

 誰もが、その人形のように美しい、しかし氷のように冷たい彼女を遠巻きに眺めているだけだった。


 ただ、一人を除いては。


「――高月さん、だよね? 私、陽葵! 宮下陽葵!」


 休み時間。

 ノアが、一人で席に座っていると、一人の太陽のような笑顔の少女が話しかけてきた。


 彼女は、ノアの偽りの名前を呼ぶ。


「……」


 ノアは何も答えず、ただ、じっとその少女を見つめ返した。

 その瞳は値踏みするように、相手の真意を探っている。


 だが、陽葵と名乗った少女――ヒマリは、そんなノアの態度にも、全く怯まなかった。


「次の授業、移動教室だよ! 一緒に行こ!」

「……一人で行ける」

「えー、いいじゃん、一緒に行こーよ! この学校、迷路みたいでわかんないでしょ?」


 ヒマリは、強引にノアの腕を取ると、教室の外へと引っ張っていった。

 ノアは、そのあまりに無防備で、あまりに裏表のない馴れ馴れしさに、ただ、戸惑うことしかできなかった。


 それからも、ヒマリは何かとノアに絡んできた。


 昼休みに自分のお弁当のおかずを、分けてくれようとしたり。

 授業で分からないところを、親切に教えてくれようとしたり。


 ノアはその全てを拒絶した。

 アビスでは、他人からの施しは「弱さ」の証明であり、いずれ何倍にもなって奪い返される危険な「貸し」でしかなかったからだ。


 だが、ヒマリはそれでも決して諦めなかった。

 まるで、心を閉ざした野良猫に、毎日餌を運び続ける優しい子供のように。


 その日の帰り道だった。


 授業が終わり、ノアが一人で夜道を歩いていると、数人の他の学校の制服を着たガラの悪い男たちが、行く手を塞いだ。


 その中心にいたのはヒマリだった。

 彼女は男たちに、しつこく連絡先を聞かれ困っているようだった。


 ノアは、その光景を路地の影から無感情に見つめていた。


 アビスの掟に従うなら関わるべきではない。

 他人のトラブルは他人のもの。

 下手に首を突っ込めば、自分も危険に晒されるだけ。


 彼女は、そのまま音もなくその場を立ち去ろうとした。


 だが、その時。


 彼女の耳に、ヒマリの震えているが、しかし凛とした声が届いた。


「……やめてください! 私には、そういうことに興味はありませんから!」


 男たちが、嘲笑う。


「ああ? なんだよ、その言い方。ちょっと、ツラがいいからって調子に乗ってんじゃねえぞ」


 一人の男が、ヒマリの腕を乱暴に掴んだ。


 ヒマリの顔が、恐怖に歪む。


 だが、彼女は決して泣き叫んだり許しを乞うたりはしなかった。


 ただ、その男の顔を強い意志の宿った瞳で真っ直ぐに睨みつけていた。

 それは、アビスの住人が自分より強い捕食者を前にした時に見せる、最後の尊厳の光とよく似ていた。


 ノアの足が止まった。

 彼女の心の中で何かが僅かに動いた。


 面倒だ。

 関わるべきじゃない。

 だが。

 あの、太陽のような笑顔が、このまま汚れた手で摘み取られてしまう光景を、彼女はなぜか「見たくない」と思ったのだ。


 それは、彼女が生まれて初めて抱いた誰かのための感情だった。


 彼女はゆっくりと路地の影から姿を現した。


 その、あまりに小さな、か弱い少女の登場に、男たちは一瞬きょとんとした顔をした後下品な笑い声を上げた。


「あんだ、てめえ? この女のダチか?」

「ちょうどいい。お前も一緒に遊んでやろうか?」


 ノアは何も答えない。

 ただ、ヒマリの腕を掴んでいるリーダー格の男を、その大きな瞳でじっと見つめた。


 その、次の瞬間。


 ノアの瞳から、全ての感情が消えた。

 それは、もはや人間の目ではない。

 獲物の首筋だけを、ただ見つめる飢えた肉食獣の目。


 彼女の小さな唇が僅かに開いた。


「……その汚い手を、離せ」


 その声は囁くように静かだった。


 だが、その声に含まれた絶対零度の殺気と圧倒的な威圧感に男たちの背筋を氷のような悪寒が走り抜けた。


 目の前にいるのは、か弱い少女ではない。

 自分たちとは、決して相容れない別の世界の捕食者。


 本能が叫んでいた。

 こいつには関わるな。

 関われば死ぬ、と。


「……ひっ」


 リーダー格の男が短い悲鳴を上げ、ヒマリの腕を反射的に離した。


「……な、なんだよ、てめえ……」


「……失せろ」


 その、二言目だけで十分だった。

 男たちは蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げ去っていった。


 後に残されたのは呆然と立ち尽くす、ヒマリと、そして何事もなかったかのように、再び無表情に戻ったノアだけだった。


 やがて、我に返ったヒマリがノアの元へと駆け寄ってきた。


「た、高月さん……! すごい! めっちゃ、カッコよかった……!」


 その目は恐怖ではなく、純粋な尊敬と憧憬にキラキラと輝いていた。


「ありがとう! 助けてくれて!」


 感謝の言葉。

 アビスでは決して聞くことのなかった言葉。


 ノアはその言葉の意味をどう受け取っていいのか分からず、ただ戸惑っていた。


 その日、帰り道で初めて二人は本当の「会話」をした。

 ヒマリが一方的にマシンガンのように喋り続けただけだったが。


 そして、別れ際にヒマリは最高の笑顔で言ったのだ。


「私、高月さんのこと、もっと知りたいな! だから、また、明日も、一緒に帰ろ! ね!」


 それは、ノアが生まれて初めて誰かと交わした「約束」だった。


 その夜。

 アパートに帰ったノアを祐樹がいつものように迎えた。


「……おかえり、ノア。どうした、今日は少し帰りが遅かったな」

「……うん」


 ノアは、どこか上の空で返事をした。


 祐樹はそんな彼女の様子に、僅かな違和感を覚えた。

 夕食の時も彼女はどこかそわそわとして落ち着かない。


 食事が終わり祐樹が食器を片付けていると、ノアがおずおずとその背中に声をかけた。


「……ミナ」

「どうした?」


 祐樹は振り返った。


 そこにいたのは、いつもの無表情なアビスの少女ではなかった。

 頬を僅かに赤らめ、どこか恥ずかしそうに、そして嬉しそうにはにかんでいる、一人のごく普通の少女。


 彼女は小さな、しかしはっきりとした声で言った。


「……友達が、できた」


 その言葉に、祐樹の全ての動きが止まった。


 彼はゆっくりとノアの顔を見た。


 彼女の瞳の中に、彼が今まで一度も見たことのなかった光が灯っているのを見た。

 それは、戦士の鋭い光でも生き残るための必死の光でもない。

 ただ、純粋な喜びに満ちた温かい光。


 祐樹の脳裏にこれまでの全ての戦いがフラッシュバックする。


 血と、硝煙。

 痛みと、裏切り。


 彼がその手を汚し、その魂を削りながら守ろうとしてきたもの。


 その全ての答えが、今、目の前のこの小さな少女のはにかんだ笑顔の中にあった。


 祐樹の常に氷のように固く閉ざされていた唇が、ゆっくりと綻んだ。

 それは、彼がこの表社会に来てから初めて見せた心の底からの本当の笑顔だった。


「……そうか。よかったな、ノア」


 その、あまりにも優しい声が静かな部屋に響き渡った。

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