幕間 : 秘密の時間
秋の気配が、聖マリアンヌ女学院の美しい中庭を静かに染め始めていた。
世間では、対アビス特殊部隊『ART』の華々しい活躍が、連日ニュースを賑わせている。
だが、西園寺麗奈の心は、そんな世界の動きとは全く別の場所にあった。
彼女の世界は、今、たった一人の謎めいた男を中心に回っていたのだ。
深夜、西園寺家の広大な書斎。
その一角で、麗奈は一人パソコンに向かっていた。
彼女が調べていたのは、祐樹の完璧すぎる経歴でもなかった。
画面に表示されていたのは、ただ、祐樹が図書館で口にした、あの古い戦記物の名前。
(……本当に、あんな本が存在するのかしら)
それが、彼女のささやかな「調査」の始まりだった。
彼が好きだと言っていたもの。
彼が興味を示したもの。
それを知りたい。
そのあまりに純粋な好奇心が、彼女を突き動かしていた。
◇
彼女の「秘密の時間」は、学園生活の中にもあった。
昼休み。
彼女は、友人たちとの昼食を少しだけ早く切り上げると、一人中庭が見える渡り廊下の窓際に立つ。
お目当てはもちろん一人だった。
相沢祐樹。
彼は、いつも決まって昼休みになると、中庭の一番陽当たりの良いベンチで、一人昼食をとっていた。
メニューはいつも同じ。
購買で買った安っぽい焼きそばパンと牛乳。
西園寺麗奈の豪華なランチとは、あまりにかけ離れた質素な食事。
だが、彼はそれを、どこかとても美味そうに食べるのだ。
麗奈は、その姿をバレないように、そっと眺めるのが最近の日課になっていた。
それは、探偵のそれではない。
ただ、気になる人のことを、もっと知りたいと願う、一人の少女の健気な秘密の行動だった。
その日も、彼女はいつものように彼の姿を探していた。
祐樹はベンチに座りゆっくりとパンを食べている。
やがて、彼は食事を終えると、パンの包み紙を、丁寧に小さく折り畳んでポケットにしまった。
そして。
彼は、何もせず、ただぼんやりと空を見上げた。
その横顔。
麗奈は、思わず息を呑んだ。
そこにいたのはいつも学園で見る穏やかな彼とは全く違う別人だった。
いや、違う。
別人というわけではない。
もっと、根源的な何か。
彼のあの穏やかな笑顔の、そのずっとずっと奥にある本当の顔が、ほんの一瞬だけ零れ落ちてしまったかのような。
それは、ひどく寂しそうな横顔だった。
まるで、この世界のどこにも自分の居場所がないとでも言うかのような。
深い、深い、孤独の色。
麗奈はその横顔から目が離せなくなった。
胸がきゅっと締め付けられる。
知りたい。
なぜあなたがそんな顔をするのか。
あなたのその笑顔の下に、一体どんな哀しみが隠されているのか。
これまでの、彼女の探求は間違っていたのだ。
彼女が知るべきだったのは、彼の「正体」ではない。
彼の「心」だったのだ。
西園寺麗奈という一人の少女の心に、初めて誰かのことを心の底から理解したい、という、強い強い想いが芽生えた瞬間だった。
彼女は、もう遠くから彼を眺めているだけではいられなかった。
彼女は、踵を返すと一直線に自分の教室へと戻っていった。
そして、机の中から一枚の小さなカードを取り出す。
それは、彼女のプライベートな連絡先が記されたカードだった。
以前、彼に渡そうとして、結局渡せなかったもの。
(……こんなもの、無意味だわ)
彼女は、そのカードをくしゃりと握り潰した。
彼と自分の間にある壁。
それは、西園寺の令嬢とただの用務員という身分の差だけではない。
もっと、分厚くて冷たい何か。
こんな、紙切れ一枚で壊せるようなものでは決してない。
ならば、どうする?
彼女は考える。
彼と、もっと自然に話せるきっかけ。
彼が、心を開いてくれる場所。
彼女の脳裏に、一つの記憶が蘇った。
図書館での、あの出来事。
彼が口にした、古い戦記物の名前。
彼女の唇に、ふと、小さな笑みが浮かんだ。
彼女の新しい「秘密の計画」が、今静かに始まった。
ただ、気になる人の気を引きたくて、少しだけ背伸びをする一人の少女の可愛らしい計画。
彼女の孤独だったはずの日常が、今、相沢祐樹という謎の存在によって彩り豊かなものへと変わり始めていた。




