嵐の前の静けさ
あの血と硝煙に塗れた夜から一ヶ月が過ぎた。
B-7地区で起きた“大規模暴力団抗争事件”は、世間を一時的に騒がせたものの、次から次へと流れてくる新しいニュースの波に飲まれ今や人々の記憶からは薄れつつあった。
絶対王者・黒瀬竜也は、「事件に巻き込まれた際の重傷」を理由に無期限の休養を発表。
彼の伝説は悲劇の色を帯びたまま熱狂的なファンの心の中だけに生き続けることとなった。
そして、その事件の裏で暗躍した魔女シズカの行方を知る者は誰もいない。
世界は何事もなかったかのようにその日常を回し続けている。
祐樹の日常もまた、驚くほどの平穏を取り戻していた。
いや、以前よりもそれは穏やかなものへと変質していたかもしれない。
きっかけは、あの夜の後、初めてノアと二人きりになった日の短い対話だった。
アパートのリビング。
祐樹が自らの腕に残った痣に湿布を貼っていると、テーブルの向かい側でノアが意を決したように口を開いた。
「……ミナ」
「何だ」
「……ごめんなさい」
その声は蚊の鳴くような小さな声だった。
祐樹は手を止めず、視線も上げずに尋ねた。
「何に対しての謝罪だ?」
「……ミナの命令破ったから。ここで待ってろって、言われたのに」
「ああ」
「でも……でも、後悔はしてない」
ノアの声に少しだけ芯の強さが戻る。
「ミナの匂いがしたから。ミナがすごく怒ってる匂いと、少しだけ困ってる匂いがした。だから、行った。ミナは一人で戦っちゃダメだって思ったから」
その言葉に祐樹の手がぴたりと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げると、ノアの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
そして、深く長い溜息をついた。
彼はソファから立ち上がると、ノアの前に屈みその小さな頭を優しく、しかし強く、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「……ありがとう」
その、たった一言に彼の全ての感情が込められていた。
彼女が命令を破ったことへの怒り。
彼女が無謀な危険に身を晒したことへの恐怖。
そして、何よりも絶望的な状況下、唯一の希望として現れてくれたことへの心の底からの感謝。
「お前が来なければ、俺はあの場所で終わっていたかもしれない」
祐樹が、初めて見せた弱さの告白。
ノアの大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……うん……!」
彼女は祐樹の首に力一杯抱きついた。
「だが、これだけは約束しろ」
祐樹はノアの体を優しく引き離すと、その瞳を真剣に見つめた。
「これからは、一人で動くな。俺とお前は二人で一つだ。お前は俺の“切り札”じゃない。俺の、“相棒”だ。そして、相棒なら自分の命を俺の命と同じくらい大事にしろ。分かったな?」
「……うん! わかった!」
ノアは涙で濡れた顔のまま最高の笑顔で頷いた。
二人の間にあった、保護者と被保護者という見えない壁。
それが、この瞬間完全に取り払われ、彼らは同じ地獄を共有し、共に戦う対等な“家族”になったのだ。
◇
祐樹の日常は完璧な擬態のまま、静かに、そして規則正しく回り続けていた。
その日、彼は大学のキャンパスで、友人の佐伯健太と昼食をとっていた。
学食の喧騒、友人との他愛もない会話。
黒瀬との死闘やシズカの狂気がまるで別の世界の出来事だったかのように、そこには完璧な日常風景が広がっていた。
「なあ祐樹、今度の連休、どっか行かねえ? サークルの連中とキャンプとかどうだよ」
「……考えておく」
「なんだよ、ノリ悪いな。ああ、ノアちゃんの面倒か? なら、ノアちゃんも連れてくりゃいいじゃん! 絶対楽しいって!」
健太の屈託のない笑顔。
祐樹はその言葉に曖昧に微笑み返した。
この、あまりにも眩しく、そして脆い平穏。
これを守るためなら、自分はどんな罪でも背負える。
彼は、改めてそう心に誓った。
その時だった。
学食に設置された大型テレビの画面が、突如として緊急ニュース速報のテロップに切り替わった。
学生たちのざわめきが少しずつ小さくなっていく。
『――ただ今、総理官邸より、国家安全保障に関する重大発表が行われる模様です。記者会見の様子を、中継でお伝えします』
画面には無数のフラッシュが焚かれる、厳粛な雰囲気の会見場が映し出された。
壇上に立つのは政府高官の中でも特に強硬派として知られる、内閣安全保障室長だった。
彼はマイクの前に立つと、用意された原稿に一度も目を落とすことなく強い口調で語り始めた。
「……政府は、もはや無法特区アビスの存在を座視し続けることはできません。あの場所は我が国の法と秩序を嘲笑う悪性の腫瘍です。我々は、本日、この腫瘍を完全に切除し我が国の安寧を取り戻すための、新たな一歩を踏み出します!」
高官はそこで一度、言葉を切った。
そして、カメラのレンズを射抜くような目で見つめ高らかに宣言した。
「本日、ここに、アビスの治安回復と、段階的な解放を目指す、超法規的権限を与えられた特別編成部隊――**対アビス特殊部隊『ART』**の発足を宣言いたします!」
会場がどよめきと、記者たちの怒号のような質問で爆発する。
健太もまた、口をあんぐりと開けて画面に見入っていた。
「マジかよ……! 政府、ついに本気出しやがった……!」
祐樹はカツ丼を食べる手を止めなかった。
彼の表情に変化はない。
ただ、彼の意識だけがテレビの音声へと鋭く集中していた。
(……政府直轄の特殊部隊。最悪の手だ。権限が大きすぎる。まず間違いなく壁周辺の全ルートを物理的に、そして電子的に封鎖してくるだろう。子供たちへの物資が届かなくなる。時間の問題だ……)
壇上の高官が騒然とする記者たちを手で制し、言葉を続けた。
「そして、この国家の威信をかけたプロジェクトの現場オペレーション指揮官として、我々は、若く最も優秀な人材を抜擢いたしました。警察庁より出向、橘詩織警視です」
カメラが壇上に立つ一人の女性を大きく映し出した。
ストライプの入ったシャープなパンツスーツに身を包み背筋を凛と伸ばして立つ、美しい女性。
彼女がマイクの前に立つ。
そのクリアで力強い声が食堂のスピーカーから響き渡った。
『……私と同じような悲しみを、これ以上誰にも味わわせないため、この身を賭して任務を完遂する所存です』
(……指揮官の言葉……“正義”や“悲劇”を口にするタイプか。最も厄介だな。一切の妥協も例外も認めないだろう。アビスの住人は子供だろうと全て“悪”と断じるに違いない)
健太はそんな祐樹の内心など知る由もなく、目を輝かせている。
「うわー、すげえ美人……! しかも超エリートかよ! まさに日本の希望って感じだな!」
「……ふーん」
祐樹はテレビ画面から目を離し、目の前の味噌汁を一口すすると興味なさそうに相槌を打った。
健太はそのあまりに素っ気ない反応に少しだけ拍子抜けしたようだった。
「お、おう……。お前、ほんと、そういうの興味ねえのな」
「それより、午後の講義出るのか?」
祐樹は何事もなかったかのように健太に尋ねた。
彼の頭の中では、すでにこの新しい脅威に対する無数のシミュレーションが開始されていた。
アビスの子供たちを救うための、残り僅かな時間。
その中で何をすべきか。
彼の思考は、すでに次の一手へと移行していた。
テレビに映る美しい指揮官の顔など、彼の意識にはもはや一片も残されてはいなかった。
◇
一方、その頃。
西園寺家の、広大な書斎。
麗奈は家庭教師との今日の授業を終え、一人静かにお茶を飲んでいた。
壁にかけられた巨大なモニターには、経済ニュースが音もなく流れている。
それは、彼女にとって、あまりに平穏な日常の光景だった。
だが、彼女の心は晴れない。
自分の身に立て続けに起きた不可解な事件。
そして、自分を救ってくれた正体不明の“守護者”。
その存在が、彼女の完璧だったはずの世界に、小さな、しかし、消えない影を落としていた。
その時、モニターの映像が緊急ニュース速報に切り替わった。
総理官邸からの中継。
国家安全保障に関する重大発表。
麗奈は、思わず手にしていたティーカップを置いた。
画面の中で政府高官が対アビス特殊部隊『ART』の発足を高らかに宣言する。
彼女はその光景を息を呑んで見つめていた。
そして、その部隊の指揮官として紹介された、一人の女性。
橘詩織。
その、あまりに凛とした、そして強い意志を宿した美しい姿。
(すごい……)
麗奈は素直にそう思った。
自分とさほど年齢も変わらないであろうその女性が、国家の命運を左右するような重責をその細い肩に、担っている。
彼女の力強い演説を聞きながら、麗奈の心に一つの小さな希望の光が灯った。
(この人なら……。この人たちなら、私の周りで起きている出来事を終わらせてくれるのかもしれない)
それは、彼女にとって、初めて自分を救ってくれた“守護者”以外の巨大な力への期待だった。
そして、同時に思うのだ。
(これで、私の日常も、本当に平穏なものに戻るのかしら……)
(……もう、あの“守護者”様に頼る必要もなくなるの……?)
その考えに至った瞬間、彼女は自分の心に、ほんの僅かな寂しさがよぎったことに気づいた。
そして、その自分でも説明のつかない感情に戸惑う。
彼女は、ただ、モニターに映る新しい時代のヒロインの姿を複雑な思いで見つめ続けることしかできなかった。
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