表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/58

路地裏の軍勢

「――怪物は群れで狩りをする」


祐樹の静かな言葉が廃墟の空気を震わせた。


その言葉の意味をシズカが理解するよりも早く異変は始まった。


廃墟の闇のありとあらゆる隙間から、無数の爛々と光る目が浮かび上がってきたのだ。


天井の鉄骨の上には濡れたような黒い翼を持つ何十羽ものカラスが、まるで葬列のようにずらりと並んでいる。


瓦礫の山や砕けたコンクリートの陰からは、ギィ、と鳴く数百、いや千は超えるであろうネズミの群れが黒い波となって姿を現した。


そして、最も静かで最も危険な影。

月光の下、まるで液体のようにしなやかに動く数十匹の痩せてしかし筋肉質な野良猫たちが傭兵たちの退路を音もなく断っていた。


それは、この都会のコンクリートジャングルで人間の知らない闇の中でたくましく生き抜いてきた路地裏の王たちの軍勢だった。


「な……なんなの、これは……!?」


シズカの完璧な表情が初めて理解不能な現象を前に焦りと混乱に歪んだ。


彼女が率いるのは人間の戦争におけるプロフェッショナル集団。

だが、彼らの訓練の中に突如として現れた野生動物の軍団との戦闘マニュアルなど存在するはずもなかった。


「うろたえるな! ただの獣だ!」


部隊のリーダー格の男が部下たちを叱咤する


「威嚇射撃! 追い払え!」


数人の傭兵が空に向かって威嚇射撃を行った。

けたたましい発砲音が廃墟に木霊する。


だが、その音は獣たちを追い払うどころか、むしろ、血祭りの始まりを告げる号砲となってしまった。


天井の上、鉄骨に止まっていたノアが、まるでオーケストラの指揮者のようにその小さな手をすっと振り下ろした。


その合図に呼応するように、まず動いたのは空の軍勢――カラスだった。


彼らは一斉にその黒い翼を広げると急降下爆撃機のように傭兵たちめがけて襲いかかった。


「ぐわあっ!」

「目、目がぁ!」


彼らの狙いは肉を食いちぎることではない。

その鋭い嘴と爪は傭兵たちの顔、そして、暗闇での彼らの目となっていたナイトビジョンゴーグルのレンズを的確に狙っていた。


視界を奪われパニックに陥る兵士たち。


次に動いたのは地の軍勢――ネズミだった。


黒い津波は傭兵たちの足元に襲いかかり、その戦闘ブーツや装備の隙間に容赦なく牙を立てる。

痛みそのものは大したことはない。


だが、自分の足元を無数のネズミが這い回るという生理的な嫌悪感と恐怖は屈強な兵士たちの精神を確実に蝕んでいった。


「くそっ、このドブネズミどもが!」


一人の兵士が足元に銃口を向け掃射する。


だが、その無駄弾が仲間たちの足を撃ち抜くという最悪の結果を招いた。


規律は完全に崩壊した。


そして、その崩壊した規律の隙間を縫うように影の軍勢――野良猫たちが、静かに、そして致命的な仕事を開始する。


彼らはパニックに陥った兵士の背後に音もなく忍び寄り、その鋭い爪で銃を持つ手首の腱や首筋の動脈を的確に引き裂いていく。


それは、もはや一方的な蹂躙だった。


シズカが誇る完璧に統率されたはずの精鋭部隊が、アビスの少女が率いる寄せ集めの野生の軍団によっていとも容易く無力化されていく。


「――今だ!」


祐樹の低い声が響く。

その声に我に返った黒瀬が片膝をついたまま残った片腕で床の鉄筋を拾い上げた。


祐樹は傷ついた黒瀬の背後を守るように立ち、前方の敵を睨む。


憎しみ合っていたはずの二人が、今、まるで長年連れ添った戦友のように互いの背中を預け合っていた。


混乱の極みにある傭兵の一人が祐樹たちの姿に気づき銃口を向けた。


だが、その男の顔面にどこからか飛んできた空き缶が強烈に叩きつけられた。


ノアの狙撃だった。


兵士が一瞬怯んだその隙。


祐樹は地面を蹴り、その懐へと一瞬で潜り込むと、鳩尾に強烈な一撃を叩き込んだ。


兵士は呻き声も上げられずに崩れ落ちる。


別の方向からもう一人がナイフを手に襲いかかってくる。


それを迎え撃ったのは黒瀬だった。


彼は片膝をついたまま体勢を低くすると相手の足元めがけて拾い上げた鉄筋を槍のように突き出した。


鉄筋は兵士の太腿を容赦なく貫通する。


「があっ!」


悲鳴を上げて倒れた兵士に、黒瀬は冷たく言い放った。


「……ここは、お前らみてえな坊やが来る場所じゃねえんだよ」


戦いの趨勢は完全に決した。


シズカの完璧な計画が、たった一人の予測不能な少女の登場によって音を立てて崩れ去っていく。


彼女はその惨状を唇を噛み締めながら見つめていた。


そして、その怒りと屈辱に満ちた瞳を全ての元凶である天井の上の小さな人影へと向けた。


シズカは懐から護身用の小型拳銃を抜き放つと、その銃口を一直線にノアへと向けた。


「――お遊びは、そこまでよ、クソガキ」


その冷徹な声と共に乾いた発砲音が廃墟の混沌の中に響き渡った。


パンッ!


シズカの放った一発の銃弾が、混沌とした戦場を切り裂き一直線にノアへと向かう。


それは、怒りと屈辱に満ちた女王からその計画を台無しにした道化への死の宣告だった。


だが、その弾丸がノアの小さな体に届くことはなかった。


キンッ!


甲高い金属音と共に、銃弾はあり得ない角度で弾かれ天井へと跳ね返っていった。


ノアの目の前に黒い影がまるで盾のように立ちはだかっていたのだ。


相沢祐樹。


彼はシズカが銃を抜いたそのコンマ数秒の間に、足元の瓦礫を蹴り上げ、信じられないほどの跳躍力でノアの前へと回り込んでいた。

そして、手に持っていた鉄パイプで寸分の狂いもなく飛来する銃弾を叩き落としたのだ。


常人の動体視力では到底捉えることすらできない、神業。


「……ミナ!」


ノアが驚きの声を上げる。

祐樹は振り返らないまま、低い声で言った。


「……言ったはずだ。待っていろと」


その声は怒っているようでもあり、どこか安堵しているようでもあった。


「……化け物が」


シズカは目の前で起きた信じがたい光景に忌々しげに吐き捨てた。


彼女はもう一発撃とうとする。


だが、その時、彼女の背後に巨大な影が音もなく迫っていた。


片膝をつき片腕が使えないはずの黒瀬だった。


彼は残った傭兵たちが野生動物の軍勢に気を取られている隙に、まるで傷ついた獅子のように静かに、しかし確実にシズカへと這い寄っていたのだ。


「……ゲームは、終わりだぜ、魔女」


黒瀬の地を這うような声がシズカの耳元で響く。


「!?」


シズカが振り返った時にはすでに遅かった。


黒瀬の残された左腕が鋼鉄の万力のようにシズカの銃を持つ腕を掴み握り潰していた。


「きゃあっ!?」


悲鳴と共にシズカの手から拳銃が滑り落ちる。


「……アビスの流儀を教えてやるよ」


黒瀬はニヤリと血に濡れた口元を歪ませた。


「俺たちの戦いに女子供がしゃしゃり出てきてんじゃねえんだよ」


彼はシズカの体をまるで人形のように軽々と担ぎ上げると、そのまま肩に担いだ。


「ミナト! こいつは俺がもらっていく! お前はそこの嬢ちゃんととっとと消えろ!」


黒瀬はそう叫ぶと、シズカの悲鳴を無視して廃墟の闇の中へとその巨体を消していった。

彼には彼のやり方で、この魔女と、そして自分自身の過去にケリをつけるつもりなのだ。


残された傭兵たちはもはや戦意を喪失していた。


主を失い異形の獣たちに囲まれた彼らは武器を捨て次々とその場に崩れ落ちていく。


祐樹はその光景を一瞥すると、ノアが立つ天井の鉄骨の上へと再び軽々と飛び上がった。


「……帰るぞ、ノア」

「うん……」


ノアは素直に頷くと、祐樹の背中にぎゅっとしがみついた。


祐樹はその小さな体を背負うと、まるで重さを感じさせない軽やかな動きで、廃墟の屋根から屋根へと飛び移り、警察の包囲網が完成する前に完全にその場から姿を消した。


後に残されたのは路地裏の王たちが獲物を貪る静かな宴の光景だけ。


やがて、夜が明け朝日がその惨状を照らし出す頃には、そこには、人間の死体も、そして、一匹の獣の姿も残されてはいなかった。


ただ、夥しい血痕と薬莢だけが昨夜の悪夢の存在を静かに物語っているだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ