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雪の日の誓い

師匠を殺した理由がついに…!

「師匠を……殺したのは、本当にお前なのか……?」


黒瀬の問いはもはや戦いの中の言葉ではなかった。

それは、長い間心の奥底で膿み続けた傷口から絞り出された魂の叫びだった。


祐樹の動きが完全に止まった。

彼の脳裏に鍵をかけて深淵の底に沈めたはずの記憶の箱がこじ開けられていく。


溢れ出してくるのは血のように赤い夕焼けと全てを白く染め上げる雪の日の記憶だった。

.

.

.

――あれは、祐樹ミナトが十六、黒瀬クロが十五の冬だった。


アビスの冬は死の同義語だ。

食料は枯渇し廃墟の隙間から吹き込む風は、容赦なく体温を奪っていく。

毎年この季節になるとアビスの人口は目に見えて減少した。


弱った者、備えのない者から、静かにそして平等に死が訪れる。


そんな地獄の中で、祐樹と黒瀬には唯一「家」と呼べる場所があった。


アビスの中層、廃墟となった教会の地下。


そこに、彼らの師である隻腕の老人が住んでいた。


老人の名は誰も知らない。

ただ、「先生」と呼ばれていた。


先生はかつて表社会で名の知れた武術家だったが、ある事件をきっかけに全てを失いアビスへと流れ着いたと言われている。

彼はアビスで親を失った子供たち――祐樹や黒瀬、ノア、そして、名前も持たずに死んでいった多くの子供たちを集め、生きるための術を教えていた。


それは、敵から身を守るための戦闘技術であり、獲物を狩るための狩猟術であり、そして、どんな状況でも生き抜くための生存術だった。


だが、彼が本当に教えていたのはそれだけではなかった。


彼は子供たちに人間としての最低限の尊厳を教えようとしていた。


弱者を労わる心。

仲間と食料を分かち合う精神。

そして、力を持つ者の責任。


「力とは振るうためにあるのではない。振るわずに済ませるためにあるのだ」


それが先生の口癖だった。


彼は二人の才能を誰よりも正確に見抜いていた。


祐樹の内に秘められた他者を守るためにのみ際限なく強くなれる「守護者の才」。


そして、黒瀬の内に燻る他者を支配することでしか自らの価値を見出せない「王者の渇望」。


正反対の性質を持つ二人が互いに影響し合い高め合っていくことを彼は誰よりも願っていた。


祐樹と黒瀬は反発しあいながらも互いを唯一無二の好敵手と認め、兄弟のように育った。


その貧しくも穏やかだった日常が壊れるのは一瞬だった。


その冬、アビスに死の病が蔓延した。


感染すれば高熱と激しい咳に襲われ、肺が焼けるような痛みを伴い数日で死に至る恐ろしい病。

医療品など存在しないアビスではそれは死の宣告に等しかった。


そして、その病は教会の子供たちにも容赦なく襲いかかった。


最初に倒れたのは、まだ五歳にも満たない幼い少女だった。

そして、次々と子供たちが病に倒れていく。


先生は自らの食料を削りなけなしの知識で看病を続けた。

祐樹と黒瀬も必死で彼を手伝った。


だが、病の勢いは止まらない。


日に日に、教会の地下から小さな命の灯火が消えていった。


そんな中、祐樹は気づいてしまった。


先生の咳が日に日に酷くなっていることに。

そして、その手が微かに震えていることに。


先生もまた病に侵されていたのだ。

だが、彼は自分のことなどおくびにも出さず、最後まで子供たちのためにその身を削り続けていた。


雪が灰色の空から静かに舞い降りるある日の夕方。


先生は祐樹だけを教会の屋上へと呼び出した。


雪が積もった静かな、静かな世界だった。


「……ミナト。わしは、もう長くない」


雪にまみれながら、先生は穏やかな声で言った。


「この病はタチが悪い。感染した人間が死ぬまでその体内で増え続ける。そして、最も恐ろしいのは宿主が死ぬ間際に最も強い感染力を持つ胞子を体外に放出することだ。……つまり、わしがここで安らかに死ねば、まだ生き残っている子供たちも全て終わりになる」

「……そんな」


祐樹は絶句した。


「聞け。お前には最後の教えを授ける」


先生は祐樹の目を真っ直ぐに見つめた。

その隻腕が、祐樹の肩を力強く掴む。


「本当の強さとは、憎しみや怒りから生まれるものではない。……愛する者を守るため非情になれる、その覚悟から生まれるのだ」


先生は懐から一本の錆びついたナイフを取り出した。


そして、それを祐けの手に握らせる。


「わしが子供たちを殺す“病原体”そのものになる前に。……お前の手でわしを殺せ。ミナト」


それは、師から弟子への最後のそして最も過酷な命令だった。


祐樹は涙を流しながら首を横に振った。

できない。

そんなこと、できるはずがない。


「……師を殺せと、言うのですか」

「違う」


先生は静かに笑った。

その顔には不思議なほどの安らぎが浮かんでいる。


「父を、超えていけ。……息子よ」


祐樹が震える手でナイフを握りしめた、その時だった。


屋上へと続く扉が乱暴に開かれた。


そこに立っていたのは黒瀬だった。


彼は祐樹を探しに来て、二人の会話を最後の部分だけ聞いてしまったのだ。


彼の目に映ったのは病で弱った師に祐樹がナイフを突きつけている、という紛れもない「裏切り」の光景だった。


「……てめえ、ミナト……! 何してやがる!」


黒瀬が怒りの形相で叫ぶ。


「違う、クロ! これは……!」


祐樹が弁明しようとした、その時。


先生が最後の力を振り絞り祐樹の背中を押した。


ナイフを持つ、その腕ごと。


グサリ、と。


生々しい音が雪の降る静寂の中に響き渡った。


先生の体がゆっくり祐樹の腕の中で崩れ落ちていく。


「……それで、いい……。あとは、頼んだぞ……」


それが、先生の最期の言葉だった。


黒瀬はその場で凍り付いていた。


信じられない光景。

尊敬する師が、唯一のライバルであり、親友であったはずの男の手に、かかって……。


彼の頭の中で何かが音を立てて壊れた。


「……うわあああああああああっ!!」


憎悪と絶望の絶叫が白く染まる世界に木霊した。

.

.

.

廃墟と化した芸術センター。

その中心で、時間はまるで凍り付いてしまったかのようだった。


祐樹の口から紡がれたあまりにも重い真実。

それは、黒瀬が十数年もの間、信じ続けてきた「正義」と「憎悪」の全てを根底から覆すものだった。


「……そうだ」


祐樹は長い沈黙の後、廃墟の闇の中で静かに呟いた。


その声はひどく掠れていた。


「先生を殺したのは……俺だ」


彼は黒瀬から視線を逸らし、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を続けた。


「だが、お前が考えているような理由じゃない。あれは……誓いだったんだ。先生の命と引き換えに残された子供たちを俺が必ず守り抜くという、雪の日の誓いだった」


その言葉は言い訳がましくも同情を誘うものでもなかった。


ただ、冷徹な事実としてそこに横たわっているだけだった。


黒瀬は何も言えなかった。


祐樹の言葉が嘘ではないことだけは痛いほど伝わってきたからだ。

彼の瞳の奥に宿る、深い、深い悲しみの色が、その真実を何よりも雄弁に物語っていた。


自分が知らなかった空白の時間。

その間に祐樹は一人でそんな途方もない覚悟を背負っていたのか。


長年彼の心を支配してきた憎しみの炎が、行き場を失って揺らめいていた。


「……なぜ……」


黒瀬は絞り出すように言った。


「なぜ、あの時、何も言わなかった……! なぜ、一人で全てを背負ったんだ!」

「言っても信じなかっただろう」


祐樹は自嘲気味に笑った。


「あの時の怒りに燃えるお前に何を言えた? それに……お前に憎まれることは俺にとって好都合だった」

「……何だと?」

「お前は俺を殺すためだけに強くなった。その憎しみがなければお前はとっくにアビスの冬を越せずに死んでいたはずだ。……俺はお前を生かすためにお前の憎悪を利用させてもらった」

「……っ!」


黒瀬は言葉に詰まった。

図星だった。


彼を地獄から這い上がらせた原動力は紛れもなく祐樹への憎しみだったのだから。

祐樹は自らが悪役になることで、自分を生かしてくれていた……?


二人の間に重くそして悲しい沈黙が流れる。


長すぎた戦いは、互いの拳ではなく過去の真実によって決着を迎えようとしていた。


だが、その感傷的な空気を無慈悲に切り裂く声がした。


「――感動的な再会ね。涙で抱き合でもしたらどう?」


ホールの闇の中から、ハイヒールの音と共にシズカが姿を現した。


彼女はまるで全てを見通していたかのように面白くてたまらないといった表情で拍手をしていた。


「素晴らしいわ、ミナト。これで彼もようやくあなたへの執着から解放される。そして、ようやく私の“駒”として完璧に機能してくれる」

「……シズカ。お前、一体何が目的だ」


祐樹の鋭い視線がシズカを射抜く。


「目的?」


シズカは心底おかしそうに笑った。


「決まっているでしょう? この退屈な世界をもっと面白くしてやることよ。そのためにはあなたたちの力が必要なの。アビスが生んだ二匹の美しい怪物さんの力がね」


彼女がパチンと優雅に指を鳴らす。


その合図に呼応するように廃墟の四方八方の闇から、カツン、カツン、と、無数の靴音が響き始めた。


一人、また一人と、黒い戦闘服に身を包んだ男たちが静かに姿を現す。

その数、およそ三十。


彼らはチンピラや不良などではない。

その動きは統率の取れたプロのそれだった。


手にしたサブマシンガンの銃口には赤いレーザーサイトの光が灯り祐樹と黒瀬の体を無数にてんとう虫のように這い回っている。


それは、サイレントが所属していたPMC『グレイ・ゴースト』の精鋭部隊だった。


「どういうことだ……シズカ!」


黒瀬が怒りの形相で叫ぶ。


「言ったでしょう? ショーは終わり。ここからはビジネスの時間よ」


シズカはうっとりとした表情で両手を広げた。


「あなたたちの憎悪は最高のスパイスだったわ、竜也。あなたを世界最強の座に押し上げるための、ね。そして、ミナト。あなたのその全てを一人で背負い込もうとする哀しいまでの責任感。それもまた最高の脚本だった」


彼女は全てを知っていた。


二人の過去も、師の死の真相も、全てを知った上でこの舞台を演出していたのだ。


祐樹と黒瀬を心身ともに疲弊しきったこの瞬間に、完璧な形で捕獲するために。


「さて」


シズカは芝居がかった仕草で部下たちに顎をしゃくった。


「抵抗すれば手足の一本や二本失うことになるわよ。もっとも、あなたたちならそれでもすぐに再生するでしょうけど」


その言葉には一切の躊躇がなかった。


黒瀬が砕かれた膝の痛みに耐えながら立ち上がろうとする。


「……この、売女が……!」


だが、その背中に部下の一人が容赦なくライフルのストックを叩きつけた。


「ぐっ……!」


呻き声を上げ、黒瀬は再び床に崩れ落ちる。

世界最強の王者は、今や、ただの傷ついた獣でしかなかった。


祐樹は動かなかった。


だが、その脳はこの世の者とは思えないほどの速度で回転していた。


(敵は三十。全て武装したプロ。遮蔽物なし。距離、十五メートル。……逃走経路、ゼロ)

(攻撃目的は、殺害ではなく、捕獲。ならば、即死させるような攻撃はしてこない)

(こちらの消耗は、六割以上。クロは戦闘不能。俺一人でこの状況を打開するのは……不可能に近い)


あらゆる計算式が絶望的な答えを導き出す。

だが、祐樹の心は不思議なほど冷静だった。


彼はノアの顔を思い出していた。

アパートで彼の帰りを待つたった一人の家族。


(……帰ると、約束した)


その約束を破るわけにはいかない。


「諦めなさい、ミナト」


シズカが勝利を確信した声で言う。


「あなたたちの物語はここで終わり。ここからは、私が書く新しい物語の登場人物になってもらうわ」


その傲慢な言葉に、祐樹は初めて静かに顔を上げた。


そして、その唇にほんの僅かな笑みを浮かべた。


「……シズカ」

「何?」

「お前の計算はいつも完璧だ。だが、たった一つだけ見落としていることがある」

「なんですって?」

「お前は俺たちを“怪物”と呼んだな。なら、教えてやる」


祐樹の声のトーンが僅かに変わる。

それは、この場の誰一人として、まだ聞いたことのない、底知れぬほど深くそして暗い響きを持っていた。


「――怪物は、群れで狩りをする」


その言葉の意味を。

シズカが理解するよりも早く。

廃墟の最も高い場所、砕け散った天井の鉄骨の上に一つの影が音もなく立っていた。


夕陽色の銀の髪。

フードを目深に被り、その姿はまるで闇に浮かぶ復讐の天使のようだった。


ノアだった。


彼女は祐樹の命令を破り、彼を追ってこの場所に来ていたのだ。


その手には何も持っていない。


だが、彼女の唇から人間には聞こえない超高周波の音が静かに放たれた。


直後。


廃墟のありとあらゆる闇の隙間から、それらが一斉に姿を現した。


ギィ、と鳴く、無数のネズミの群れ。

カァ、と叫ぶ、何十羽ものカラスの軍勢。

そして、グルル、と喉を鳴らす、縄張り意識の強い数十匹の野良猫の集団。


アビスの少女が率いる都会の闇に生きる野生の軍団が静かにシズカの部隊を包囲していた。

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