深淵の流儀
月光が砕け散ったガラスの天井から舞台のスポットライトのように差し込んでいる。
そこは、コンクリートと鉄骨が剥き出しになった巨大な聖域であり墓場だった。
かつて芸術が飾られた壁には無数の傷跡が刻まれ、床には瓦礫が散乱している。
風が吹き抜けるたび鉄骨がまるで亡霊の嗚咽のような低い音を立てて軋んだ。
湿ったコンクリートと、錆びた鉄の匂いが空気を満たしている。
その静寂と退廃が支配する空間の中心で、二人の男は互いの魂を喰らい尽くさんばかりの視線を交わしていた。
先に沈黙を破ったのは黒瀬だった。
「……ようやく、二人きりになれたな、ミナト」
その声は、憎しみよりも純粋な歓喜に打ち震えていた。
まるで、長年待ち望んだ祭りの夜を迎えた子供のように。
彼は着ていたトレーニングジャケットを脱ぎ捨て、その下に鍛え上げられた世界王者の肉体を晒した。
「UFCのベルトも、世界最強の称号も……その全てが、この瞬間のためだった。お前という、俺の原点にして唯一の“敗北”をこの手で完全に乗り越えるために」
「……まだ、そんな戯言を言っているのか、クロ」
祐樹もまた、静かにパーカーを脱いだ。
その下に現れたのは、チャンピオンの肉体とは対照的な、どこまでも自然体で無駄な筋肉が一切ない、しなやかな体だった。
だが、その薄い筋肉の下に恐ろしいほどの密度を持つ力が眠っていることを黒瀬だけは知っていた。
「お前は檻の中で見世物にされることにすっかり慣れてしまったらしいな。ここは東京ドームじゃない。ルールも、栄光も、ここにはない。お前が世界最強だというのなら、それは、あくまで光の中での話だ」
「ああ、知っているさ」
黒瀬は全身の関節をポキポキと鳴らしながら獰猛な笑みを浮かべた。
「ルールは、いつも通りだ。最後に立っていた奴が、勝ち。それだけだ」
「一つ、訂正しろ」
祐樹は、ゆっくりと戦闘態勢へと移行する。
その体から大学生・相沢祐樹の気配が完全に消え失せ、絶対的な捕食者のオーラが立ち上った。
「ルールは一つ。――死ぬなよ」
その言葉がゴングだった。
最初に動いたのは、黒瀬。
まるで圧縮されたバネが解放されたかのような、爆発的な踏み込み。
床の瓦礫を蹴散らし一直線に祐樹の懐へと突貫する。
そのスピードは世界王者の名に恥じない、まさしく神速の域にあった。
だが、祐樹はそこにいなかった。
黒瀬の拳が空を切った瞬間、祐樹はまるで煙のようにその場から消え、黒瀬の背後、完璧な死角に回り込んでいた。
アビスの暗闇で、気配だけで全てを判断するために磨き上げた亡霊の歩法。
「……!」
(速い! だが、読み通りだ!)
黒瀬がその超人的な反応速度で振り返る。
だが、それよりも早く祐樹の踵が薙ぎ払うように黒瀬の脇腹を襲った。
アビスの住人だけが知る、体重を乗せずに骨を断ち切るための蹴り。
しかし、黒瀬もまた進化していた。
彼は直撃の寸前で鍛え上げられた腹斜筋を硬化させ、同時に腕のガードを間に合わせる。
ゴッ!
肉と骨がぶつかる鈍い衝突音。
黒瀬は数メートル吹き飛ばされたが、まるで猫のように空中で体勢を立て直し完璧に着地した。
ガードした腕はあり得ないほど痺れている。
もし、まともに食らっていれば肋骨ごと内臓が砕かれていただろう。
(……クソッ、威力は変わらねえ。だが、あの頃の俺じゃねえんだよ!)
「……ハッ。相変わらず、陰湿な攻撃しやがる。だがな、ミナト。俺の体はもうお前が知ってる頃のガキの体じゃねえんだよ!」
「お前こそ随分と頑丈になったじゃないか。表の飯は美味いらしいな」
互いに言葉の刃を交わしながら再び距離を取る。
戦いは第二段階へと移行した。
黒瀬の構えが変わる。
彼はフットワークを使い、リングを支配するように祐樹の周りをサークリングし始めた。
軽快なジャブが祐樹の顔面を狙って雨のように繰り出される。
それは、UFCで幾多の挑戦者を沈めてきた彼の必勝パターンだった。
だが、その完璧なジャブはことごとく祐樹の顔面の数ミリ手前で虚空を殴った。
祐樹は動いていないように見えた。
ただ、上半身を水草のように揺らめかせているだけ。
その最小限の動きで黒瀬の繰り出す全ての攻撃を見切っていたのだ。
(……見えねえ。こいつの動きの中心が、全く見えねえ!)
黒瀬の内心に焦りが生まれる。
彼のボクシングは相手の重心の移動、視線の動き、呼吸のリズム、その全てを計算して最適な一撃を叩き込む科学的なものだ。
だが、祐樹にはその全てが存在しない。
彼はまるで重心そのものがないかのようにそこに“在る”だけだった。
(リズムがない。こいつの動きにはアビスの騒音と同じで、何の規則性もねえんだ……!)
痺れを切らした黒瀬が大きく踏み込み渾身の右ストレートを放った。
ミドル級の王者が放つ必殺の一撃。
だが、祐樹はそれを待っていた。
彼はその拳を避けない。
ただ、一歩だけ内側へ踏み込む。
そして、黒瀬の腕に自らの腕を蛇のように絡みつかせた。
(黐手!?)
黒瀬の驚愕。
それは、かつて師が教えていた敵の攻撃を受け流し支配するためのアビスの接近戦術。
祐樹は黒瀬の拳の威力を完全に殺し、いなすと、空いた方の手で無防備になった黒瀬の喉元へ指先を突き出した。
勝負あったか、と思われた、その瞬間。
黒瀬の口元に不敵な笑みが浮かんだ。
「――もらったぜ!」
黒瀬は腕を絡め取られたまま無理やり体勢を捻り、祐樹の体に密着する。
そして、至近距離から強烈な膝蹴りを祐樹のボディへと叩き込んだ。
UFCで彼が得意とするダーティボクシングの応用。
ドッ!
鈍い衝撃が祐樹の体を貫く。
さすがの祐樹もその一撃に僅かに呼吸が乱れた。
その隙を突き、黒瀬は腕の拘束から逃れると素早く距離を取った。
「……どうだ、ミナト。お前の知らねえ技はまだ山ほどあるんだよ」
「……なるほどな。面白い」
祐樹は初めて楽しそうに笑った。
その瞳にはもはや欠片の油断もなかった。
目の前にいる男は、もはや、かつての自分の模倣者ではない。
光の世界で自分だけの牙を磨き上げた正真正銘の世界王者。
小手先の技だけでは勝てない。
黒瀬は確かな手応えを感じていた。
(いける。こいつの動きは見切れねえが、パワーと耐久力なら今の俺が上だ!)
彼は戦術を、技術戦から純粋な破壊戦へと切り替えた。
「――オオオオオオッ!」
雄叫びと共に黒瀬が再び突進する。
今度の狙いは祐樹ではない。
その背後にある巨大なコンクリートの柱だった。
彼は祐樹の回避コースを予測し、その退路を瓦礫で塞ぐつもりだった。
世界王者の渾身の蹴りが、柱に叩き込まれ凄まじい轟音と共に柱が砕け散る。
粉塵が月光を遮り、二人の間の視界を完全に奪い去った。
コンクリートの柱が砕け散り、月光を遮るほどの濃密な粉塵が戦場を支配した。
視界はゼロ。
常人であれば、咳き込み、目を閉じることしかできないだろう。
だが、黒瀬は笑っていた。
(視界がねえのは、お互い様だろ、ミナト!)
彼はUFCの激戦の中で、血で片目が塞がった状態でも戦い抜いてきた。
視覚だけに頼る戦いなど、とうの昔に卒業している。
彼は全神経を聴覚に集中させた。
粉塵が舞う音。
風が空気を揺らす音。
その中に混じる、僅かな、本当に僅かな衣擦れの音と呼吸のリズム。
(……そこか!)
黒瀬は己の野生の勘を信じ、粉塵の中、祐樹がいるであろう一点に向かって渾身の右フックを叩き込んだ。
それは、勘に頼った博打のような一撃。
だが、世界最強の男の勘はもはや予知の領域に達していた。
ザシュッ!
鈍い手応え。
拳が祐樹の左腕を浅く、しかし確実に捉えた。
祐樹のパーカーの袖が衝撃で裂け、その下の皮膚が赤く切り裂かれる。
アビスを出て以来、彼が表社会で初めて流す血だった。
「……っ!」
祐樹の体が衝撃で数メートル吹き飛ばされ、粉塵の外へと弾き出される。
彼は背中の壁に叩きつけられ、一瞬だけ動きを止めた。
左腕からは赤い血が一筋伝っている。
「ハ……ハハハ! どうだ、ミナトォ!」
粉塵の中から悪鬼のような形相の黒瀬が姿を現した。
「届いたぜ……! 俺の拳がついにお前という亡霊に届いた!」
初めて祐樹に一撃を与えられた。
その事実は黒瀬の心に麻薬のような高揚感をもたらす。
(いける! 勝てる! こいつは、無敵じゃねえ!)
祐樹は腕の傷に一瞥をくれると静かに立ち上がった。
その表情に痛みや焦りの色はなかった。
ただ、ほんの僅かな“驚き”の色が浮かんでいる。
(……博打を打ったか。だが、その一撃にここまでの威力を乗せるか)
祐樹は黒瀬竜也という男の“進化”を、その身をもって認めざるを得なかった。
光の世界で彼が積み上げてきたものは決して無駄ではなかったのだ。
(……そうか。ならば、俺も礼を尽くさねばなるまい)
祐樹の纏う空気が変わった。
それまでの流れる水のような気配が絶対零度の氷へと変質する。
彼がゆっくりと構えを取る。
それは、師から教わったどの型とも違う彼自身がアビスの闇の中で編み出した、ただ、人を壊すためだけの構え。
黒瀬はその異様な気配に勝利の高揚感を一瞬で忘れさせられた。
(……なんだ……? 今までの奴と、違う……!)
本能が警鐘を鳴らす。
目の前にいるのはもはや“ミナト”ではない。
“名無し(アノニマス)”だ。
「――かかってこいよ、ミナトオオオ!」
黒瀬は恐怖を振り払うように絶叫し、最後の勝負をかけるべく突進した。
祐樹はそれを正面から迎え撃つ。
二人の距離がゼロになる。
黒瀬の勝利を確信した拳が、祐樹の顔面に叩き込まれ――ようとした、その瞬間。
祐樹の数本の指先が、まるで瞬きのような速さで黒瀬の体の数か所を軽く触れた。
ト、ト、トン、と。
まるで、子供の遊びのような優しいタッチ。
一つは、首筋。
一つは、こめかみ。
一つは、耳の後ろの窪み。
そのあまりに無防備な攻撃に、黒瀬は一瞬何が起きたのか理解できなかった。
そして、次の瞬間。
黒瀬の世界が壊れた。
まず、音が消えた。
耳鳴りとも違う、完全な無音。
次に、視界がぐにゃりと歪み、赤と黒のノイズに覆われる。
そして、世界が、逆さまになった。
体が上下左右の感覚を完全に見失ったのだ。
強烈な目眩と、吐き気。
それは、脳が外部からの情報を受け取ることを拒否した究極のシステムエラー。
祐樹は黒瀬の平衡感覚と視聴覚を司る全ての神経節を寸分の狂いもなく、同時に、的確に、打っていたのだ。
「……あ……が……?」
声も出せない。
世界最強の王者は、今や、目も見えず、耳も聞こえず、まっすぐに立つことすらできないただの赤子と化した。
その無防備な体に祐樹の冷徹な追撃が突き刺さる。
まず、黒瀬が祐樹を傷つけた右の拳。
祐樹はその肘の関節を足で踏みつけた。
ゴキリ、と。
骨があり得ない方向に曲がる嫌な音が響いた。
次に、彼を支える軸足。
祐樹はその膝の側面に体重を乗せた的確な蹴りを叩き込む。
靭帯が断裂する、鈍い感触。
「―――――ッ!!」
声にならない絶叫と共に黒瀬の巨体が瓦礫の上に崩れ落ちた。
完全に戦闘不能。
圧倒的な決着だった。
祐樹はその亡骸のような姿を静かに見下ろしていた。
月光が彼の顔に深い影を落としている。
「……終わりだ」
彼はそう呟くと、冷たく背を向けその場を去ろうとした。
だが、その背中に最後の力が振り絞られたような、か細い声が突き刺さった。
「待……て……ミナト……」
黒瀬は砕かれた体を引きずり、血反吐を吐きながら顔を上げた。
その目には、もはや憎しみはなかった。
ただ、子供のような純粋な問いだけがそこに浮かんでいた。
「師匠を……殺したのは、本当に、お前なのか……?」
その言葉は、凶器のように廃墟の静寂を切り裂いた。
祐樹と黒瀬。
二人を繋ぎ、そして、二人を分かち、黒瀬の心に長すぎる執着の楔を打ち込んだ全ての元凶。
彼らの師の死の真相。
祐樹は歩みを止め、振り返らないまま何も答えなかった。
ただ、その瞳の奥で忘れたはずの過去の記憶が激しい嵐のように吹き荒れていた。
表世界最強敗れたり




