サイレント・アンサー
「だから、出てこい! 俺の前に姿を現せ! “名無し(アノニマス)”ッ!!」
その名前が雷鳴のように静まり返った東京ドームに轟いた。
直後、数十本のサーチライトが点灯し狂ったように五万人の観客席を舐め回し始めた。
「な、なんだ!?」
「アノニマスって誰だ!?」
「演出か? ガチか!?」
観客は大混乱に陥る。
◇
VIP専用の通路をSPに守られながら出口へと向かっていた麗奈は、ドーム全体に響き渡るその狂気の叫びに思わず足を止めた。
通路に設置されたモニターに映る黒瀬の正気とは思えない表情に彼女は背筋が凍るのを感じた。
“名無し(アノニマス)”。
“地図にも載っていない場所”。
彼女にはその言葉の意味は何一つ理解できない。
だが、このイベントがただならぬ狂気を孕んでいることだけは肌で感じていた。
「……急ぎなさい。早く、ここから出るわよ」
彼女が、SPたちを促したその時だった。
◇
リングの上。
黒瀬は狂ったように観客席を睨みつけ、サーチライトの光を目で追い続けていた。
これが、彼の最後の賭けだった。
人質も、脅迫もない。
ただ、己の全てを懸けて過去の亡霊の名を叫ぶ。
その魂の叫びにあの男が応えないはずがない。
そう、信じていた。
二階席の闇の中。
祐樹は静かにその狂乱の全てを見下ろしていた。
黒瀬の挑発。
観客の混乱。
そして、自分を探すサーチライトの光。
彼の名前が公の場でこれほど派手に叫ばれてしまった。
このまま何もしなければ、明日からメディアや好事家たちが、「アノニマスとは誰だ」というくだらない宝探しを始めるだろう。
それは彼が最も嫌う事態だった。
彼の日常が好奇の目に晒される。
それは静かな死を意味する。
黒瀬の挑発に乗るつもりはない。
だが、この狂った“祭り”は終わらせなければならない。
黒瀬にそして彼を裏で操るシズカに明確な“返事”を送る必要があった。
祐樹は静かにポケットからスマートフォンを取り出した。
カラスから与えられた漆黒の端末。
彼の指が驚くべき速さで画面の上を滑る。
(お前の光は眩しすぎるんだよ、クロ)
だから、消してやる。
お前が作り出したこの偽りの光ごと。
祐樹は画面に表示された一つのアイコンを無感情にタップした。
その瞬間。
東京ドームが沈黙した。
けたたましく鳴り響いていた音楽がプツリと途絶えた。
会場の全ての照明が一斉に消えた。
そして何より会場中の誰もが見上げていた巨大なビジョンが真っ黒な闇に包まれたのだ。
◇
麗奈がいた通路の照明も、リングを照らすライトも、五万人の観客を映し出す全ての光が一斉に消え完全な闇がドームを支配した。
「お嬢様、お下がりください!」
SPたちの緊迫した声が響く。
麗奈は彼らの背後で息を呑んだ。
予備電源すら作動しない、完璧なブラックアウト。
だが、その闇は数秒で破られた。
通路の壁に設置された全てのモニターだけが、まるで示し合わせたかのように再びぼんやりとした青白い光を灯したのだ。
そこに映し出されていたのは、イベントの映像ではない。
一つの、不気味な紋章だった。
ひび割れた仮面をモチーフにしたかのような、シンプルでそれでいて見る者に言い知れぬ威圧感を与える、漆黒の紋章。
麗奈はその悪夢のような紋章を、SPの背後から、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。
◇
その紋章が、数秒間だけ闇の中で不気味に浮かび上がった後、モニターは完全にその光を失った。
直後、非常用の電源が作動し、ドーム内にかろうじて薄明かりが戻る。
だが、巨大ビジョンは死んだまま。
世界中に配信されていたはずのライブ中継も完全に途絶していた。
黒瀬竜也が用意した世界が注目する最高の舞台は、正体不明のハッカーによって、いとも容易く沈黙させられたのだ。
リングの上。
黒瀬はわなわなと拳を震わせた。
だが、その表情に浮かんでいたのは屈辱や怒りだけではなかった。
やがて、その唇がゆっくりと吊り上がっていく。
それは、歓喜に満ちた獰猛な獣の笑みだった。
(……来やがった)
姿は見せない。
声も発しない。
だが、これ以上ないほど明確な“返事”だった。
『お前の光は俺の闇の前では無力だ』と。
『戦いの場所とルールは俺が決める』と。
あの紋章はそう告げていた。
「……は、ハハ……ハハハハハ!」
黒瀬は天を仰いで高笑いした。
観客の混乱も中断されたイベントももはやどうでもいい。
彼は確かに受け取ったのだ。
闇の中に潜む真の王からの宣戦布告を。
◇
混乱の渦の中心地から、一人の青年が何事もなかったかのように静かに姿を消していた。
彼は一般客に紛れて非常階段を下りながらカラスに短いメッセージを送る。
YUKI: 『返事はしておいた。奴は必ず俺に接触してくる。決闘の場所を用意しろ。観客もレフェリーもいない俺たちのためのリングを』
CROW: 『……了解した。最高の舞台を用意しよう』
祐樹はメッセージを消すと端末をポケットにしまった。
ドームの外に出ると、東京の冷たい夜風が彼の火照った体を撫でていく。
彼は夜空を見上げた。
星は見えない。
偽りの光に満ちた都会の空。
だが、その偽りの光の下にあるささやかな日常を彼は命を懸けて守ると決めたのだ。
過去との決着は、もう、すぐそこまで迫っていた。




