円形闘技場への招待状
黒瀬竜也の公開スパーリングが開催されるまでの一週間。
その時間は祐樹にとってあまりに短く、そして、永遠のようにも感じられた。
東京の街は日に日に熱を帯びていく。
テレビでは連日、世界最強の男を特集する番組が組まれ、雑誌の表紙は全て黒瀬の精悍な顔で埋め尽くされた。
駅前の大型ビジョンでは彼のKOシーンが繰り返し再生され、そのたびに人々は足を止めて感嘆の声を上げる。
街全体が来るべき“祭り”に向けて巨大な興奮の坩堝と化していた。
だが、その熱狂の中心にいるはずの祐樹は驚くほど静かな日々を送っていた。
彼の準備は肉体を鍛え上げることではない。
アビスで培われた彼の肉体は常に臨戦態勢にある。
眠れる獣は、目覚めるための準備など不要なのだ。
彼の準備は、思考の領域で行われた。
カラスから送られてきた東京ドームの膨大な設計図データ。
祐樹はそれを自室のPCで開き一晩で完璧に記憶した。
観客席の数、通路の幅、全ての出入り口。
警備員の配置と交代時間。
監視カメラの正確な位置とその首振りの角度によって生まれるコンマ数秒の死角。
電気、水道、空調が通るメンテナンス用のダクトの位置。
地下駐車場の構造から、天井裏のキャットウォークに至るまで。
彼の頭脳は巨大な娯楽施設を三次元の戦場マップへと再構築していく。
それは、これから始まる狩りのための巣作りにも似た作業だった。
「ミナ、あたしも行く」
決戦を三日後に控えた夜、ノアがテーブルの向かい側で真剣な顔をして言った。
「ダメだ」
祐樹は即座にそしてきっぱりと否定した。
「なんで!? あたしだって戦える! ミナが戦うなら、あたしが背中を守る! アビスでは、いつもそうだったじゃない!」
「ここはアビスじゃない」
祐樹は静かに、だが有無を言わさぬ力強さで言った。
「今回は狩りじゃない。殺し合いでもない。これは……儀式のようなものだ。過去の亡霊を完全に葬り去るためのな」
彼はノアの前に屈むと、その肩に手を置いた。
「それに、お前は俺がこの日常を守るための理由そのものだ。お前という存在がいるから俺は光の中に留まっていられる。お前は俺の最後の砦なんだ。だから、ここで待っていてくれ」
その真摯な瞳にノアは何も言い返せなかった。
彼女は唇を噛み締め悔しそうに俯くと小さく頷いた。
「……わかった。でも、ミナが帰ってこなかったら、あたし全部壊してミナを迎えに行くからね」
「ああ。約束する。必ず帰ってくる」
それは、二人の間の血よりも濃い契約だった。
◇
同じ頃、西園寺邸。
麗奈は、自室のクローゼットの前で深いため息をついていた。
ハンガーにかけられているのは、今日のイベントのために用意された、上品ではあるが動きにくいフォーマルなドレス。
「……本当に、気乗りしませんわ」
西園寺グループは、今回の黒瀬竜也のイベントにおける最大のスポンサーの一つだった。
父の名代として、VIPボックス席で観戦し、イベント後のパーティーで関係者に挨拶をして回る。
それが、彼女に課せられた今日の「仕事」だった。
格闘技などという野蛮な見世物には何の興味もない。
だが、これも西園寺家の人間としての重要な務めだった。
彼女は、もう一度ため息をつくと、覚悟を決めそのドレスに袖を通した。
◇
そして、運命の日がやってきた。
決戦の舞台、東京ドーム。
夕暮れの空の下、数万人の観客が巨大な白いドームへと吸い込まれていく。
誰もがこれから始まる世紀のショーに胸を躍らせ、その顔は期待と興奮で紅潮していた。
その巨大な人間の波の中に相沢祐樹はあまりにも自然に紛れ込んでいた。
洗いざらしのパーカーに、黒いキャップ。
どこにでもいる、格闘技好きの若者。
誰も彼の足取りが雑踏の僅かな隙間を縫うように一切の無駄なく進んでいることにも、その目が周囲の観客ではなく、警備員の配置や避難経路の表示灯ばかりを追っていることにも気づかない。
カラスが手配したチケットはリングからは遠く離れた二階席の後方だった。
だが、そこはドームの全体構造を一つの視野に収めることができる最高の“狙撃ポイント”だった。
時を同じくして、麗奈もまた、ドームに到着していた。
一般客とは違うVIP専用のゲート。
数人のSPに囲まれながら、彼女は重い足取りで自分に用意されたプライベートボックスへと向かう。
分厚い防音ガラスの向こうには熱狂する巨大な蟻の巣のような観客席が広がっていた。
彼女はその光景に圧倒されながらも、どこか冷めた目でそれを見下ろしていた。
やがて、会場の照明が一斉に落ち地鳴りのような歓声がドームを揺るがした。
ステージに何本ものレーザー光線が走り爆音と共に派手な音楽が鳴り響く。
巨大なビジョンにプロモーション映像が映し出された。
「Ladieeeees and Gentlemeeeen!!」
アナウンサーの絶叫が祭りの始まりを告げる。
地鳴りのような歓声の中、リングアナウンサーの絶叫が東京ドームのボルテージを最高潮へと引き上げた。
「さあ、皆様お待たせいたしました! 我らが日本の、いや、世界の至宝! UFC世界ミドル級、絶対王者! “トーキョー・ブラックドラァァァゴォォォン”ッ! 黒瀬ぇぇぇ! 竜也ぁぁぁぁッ!」
入場ゲートからスモークと無数のレーザー光線が放たれる。
派手なロックミュージックが鼓膜を揺るがす中、黒瀬竜也がゆっくりと姿を現した。
その肉体は芸術品のように磨き上げられ、その一挙手一投足には王者の風格が満ち溢れている。
彼は五万人の視線を一身に浴びながら、まるで己の領地を歩む獅子のように堂々とリングへと向かった。
……すごい、ですわね」
VIPボックス席で麗奈は思わず息を呑んだ。
画面越しで見ていたのとは比較にならない。
暴力とカリスマが同居した圧倒的な存在感。
だが、それは、彼女にとって決して好ましいものではなかった。
(……野蛮だわ。なぜ、人々は、こんなものに、熱狂するのかしら)
一方、二階席の闇の中。
祐樹はその光景をただ無感情に見つめていた。
彼の目には世界王者の姿も熱狂する大観衆も見えていない。
ただ、アビスで自分に牙を剥き泥にまみれていた一匹の飢えた獣の姿がそこに映っているだけだった。
リングインした黒瀬の「公開スパーリング」は、凄惨というほかなかった。
対戦相手として用意された国内トップクラスの選手たちがまるで子供扱いだった。
一人目の空手家は、踏み込んできたところにカウンターの膝蹴りを顎に受け一撃で失神。
二人目の柔術家は、組み付くことすらできずに高速のパンチの連打を浴びてキャンバスに崩れ落ちた。
三人目のキックボクサーは、黒瀬の放ったハイキックの風圧だけで戦意を喪失した。
それは、もはやスパーリングではない。
絶対的な強者が己の力を誇示するためだけの公開処刑だった。
黒瀬はこのショーを通じて、たった一人の観客にメッセージを送っていたのだ。
(見ているか? これが、今の俺だ。お前が知っているかつての俺じゃない)と。
全ての“生贄”を屠り終え、黒瀬はリングの中央でマイクを握った。
ドームを埋め尽くす割れんばかりの「クロセ」コール。
彼はその声援に満足げに頷くと、話し始めた。
「今日は、集まってくれてありがとう。来月のタイトルマッチも必ず勝つ。敵はいない」
王者の言葉に観客は熱狂する。
だが、黒瀬はその熱狂を自らの手で冷ややかに断ち切った。
「……だが、その前にだ。世界を相手にする前に、この日本で、俺がケリをつけなきゃならねえ、たった一人の男がいる」
その言葉にドームは水を打ったように静まり返った。
誰もが彼の次の言葉を固唾を呑んで見守っている。
黒瀬の瞳が巨大なビジョンに映し出される。
その目はもはやファンに向かってはいない。
このドームのどこかにいるはずのたった一人の宿敵を探していた。
「お前たちには想像もつかないだろうな。地図にも載っていないクソみたいな場所で……ルールもレフェリーも栄光もないただ殺し合うだけの世界があったことを」
麗奈の心臓が大きく跳ねた。
(地図にも、載っていない場所……?)
その、あまりに不穏な言葉に彼女の背筋を、冷たいものが走り抜ける。
この男は一体何を言っているの……?
黒瀬の声がドーム全体に響き渡る。
「そこには、王がいた。誰にも負けず、誰にも知られることなく、ただ頂点に君臨し続けた亡霊がいた。名前すら持たない伝説の男がな!」
彼の声は、憎悪と、そして焦がれるような憧憬の色を帯びていた。
それは、もはやファンサービスの言葉ではない。
剥き出しの狂気だった。
「俺はそいつを超えるためだけにここまで来た! この名声も、この力も、全ては暗闇に隠れるお前を引きずり出すためだ! 俺の光が眩しすぎてお前が影の中にいられなくなるようにな!」
黒瀬は天を仰ぎ心の底から絶叫した。
「分かってんだ! お前はこの会場のどこかにいる! 俺にはお前の気配が分かるんだよ!」
「だから、出てこい! 俺の前に姿を現せ! “名無し(アノニマス)”ッ!!」
その名前が雷鳴のように静まり返った東京ドームに轟いた。
直後、数十本のサーチライトが点灯し狂ったように五万人の観客席を舐め回し始めた。
「な、なんだ!?」
「アノニマスって誰だ!?」
「演出か? ガチか!?」
観客は大混乱に陥る。
VIPボックス席。
麗奈はその場で凍り付いていた。
彼女は“名無し”という言葉の意味も、黒瀬の言葉の真意も何も理解できない。
ただ、この場所が、今、とてつもなく危険な狂気の渦の中心にいる、ということだけを肌で感じていた。
彼女は隣に控えるSPの男に、震える声で告げた。
「……もう、たくさんですわ。車を回してちょうだい」
◇
二階席後方。
祐樹は闇の中で身じろぎもせずに座っていた。
サーチライトの眩しい光が彼のすぐ側を通り過ぎていくが、光と光の間の完璧な闇に紛れた彼の姿を捉えることはできない。
五万人の喧騒も、黒瀬の絶叫も、彼には届いていなかった。
静寂。
そこは、彼だけが存在する絶対的な静寂の世界だった。
リングの上で、過去が彼の名を叫んでいる。
光の中へ来いと手を差し伸べている。
それは甘美な罠。
一度その手を取れば二度と日常には戻れない。
祐樹はゆっくりとその重い瞼を上げた。
その瞳に浮かんでいたのは、怒りでも、恐怖でもなかった。
ただ、長すぎた遊びをようやく終わらせることができるという、深い、深い安堵の色だけだった。




