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偽りの空、日常の音

実力隠し系が大好物です。

 コンクリートとガラスで構成された、無機質な箱。


 それが、相沢祐樹あいざわゆうきが今いる場所――城西大学、三号館二百一番講義室の第一印象だった。


 初老の教授が語る経済学の歴史は、ほとんどの学生にとって催眠効果のあるBGMでしかない。

 スマートフォンの画面をなぞる指の微かな音。

 ノートパソコンの冷却ファンが発する低周波。

 気怠い午後の空気が、埃っぽい室内に澱んでいる。


 祐樹は、その他大勢の学生と同じように、背中を少し丸めて何の変哲もないノートにペンを走らせていた。

 当たり障りのないシャツに、履き慣れたジーンズ。

 人混みに紛れれば一分と経たずに見失ってしまいそうな没個性的な青年。

 それが周囲からの彼に対する評価であり、彼自身が望んで纏っている擬態だった。


 だが、彼の耳に届く「音」は、他の誰のものとも違っていた。


 教授の少し掠れた声。

 その奥にある呼吸の乱れ――(風邪気味か、昨夜の深酒か)。

 三列前の女子学生がタイピングする音。

 エンターキーを叩く力が、五分前から苛立ちを帯び始めている――(課題の進捗が芳しくないのだろう)。

 窓の外、三百メートル先のけやき並木。風に揺れる木の葉のざわめき。

 その一枚一枚が擦れ合う高周波の音まで、祐樹の鼓膜は正確に分解して拾っていた。


 世界は、祐樹にとって常に情報の洪水だ。


 アビスでは、それが生きるための術だった。

 敵の息遣い、地面を踏む僅かな振動、殺意が放つ独特の空気。

 五感の全てを最大まで拡張しなければ、次の朝日を拝むことはできない。


(……静かすぎる)


 この表社会の「日常」は、彼にとって異常なまでに静かだった。

 静かで、退屈で、そして何よりも――安全だった。

 だからこそ、常に意識の半分を眠らせておく必要があった。

 全ての情報を拾ってしまえば、脳が焼き切れる。

 擬態を完璧にするには、鈍感なフリをしなければならない。


 講義の終わりを告げるチャイムが鳴り、死んでいた学生たちの目に光が戻る。

 祐樹もまた、周囲に合わせて軽く伸びをすると、教科書とノートを鞄にしまった。


「よー、祐樹! 学食行こうぜ」


 声をかけてきたのは、佐伯健太さえきけんただった。

 快活な笑顔がトレードマークの、祐樹がこの大学で唯一「友人」と呼べる男だ。


「ああ」


 短く応じると、健太は祐樹の肩を馴れ馴れしく叩きながら、人混みをかき分けるように進んでいく。

 その背中を、祐樹は少しだけ距離を置いて追った。


 学食は、喧騒の坩堝るつぼだった。

 食器のぶつかる甲高い音、学生たちのとりとめのない会話、券売機の無機質な音声。


 祐樹と健太がトレーを持って席を探していると、壁際に設置された大型テレビがニュース速報のテロップを映し出した。


『――本日未明、東京都旧新宿開発地区、通称<アビス>の境界壁付近で、新たに男性二名が行方不明となっていることが分かりました。被害者は動画配信者の男性らと見られ、深夜にアビス内部を撮影する目的で接近したまま連絡が途絶えており、警察は事件に巻き込まれた可能性も視野に捜査しています。アビス周辺での行方不明事件は、今年に入ってこれで十一件目となります』


 淡々と事実を告げる女性アナウンサーの声。

 周囲の学生たちが、一瞬だけそちらに視線を向けた。


「うわ、またかよ」

「アビスって、マジでやばいらしいね」

「近づいちゃダメって言われてんのに、なんで行くかね。馬鹿じゃん」


 他人事の感想が、さざ波のように広がっては消えていく。

 彼らにとってアビスは、画面の向こう側にある現実感のない恐怖。

 決して自分たちの日常とは交わらない、異世界の物語だ。


 健太も「物好きもいたもんだな」と呆れたように言いながら、空いた席を見つけて腰を下ろした。


「なあ祐樹、お前さ、ああいう都市伝説とか興味ないもんな」

「……別に」


 祐樹は、テレビから目を離し、カツカレーの皿にスプーンを突き刺しながら曖昧に答えた。


 彼の表情に変化はない。

 関心も、恐怖も、嫌悪も。

 何も浮かんでいない。


 だが、ほんの一瞬。


 アナウンサーが「アビス」という単語を口にした、その〇・二秒だけ、彼の瞳孔が爬虫類のように収縮したことを、健太は知る由もなかった。


 アビス。


 その名前は、祐樹にとって故郷の呼び名であり、同時に、捨て去った過去そのものだった。

 画面に映る、高くそびえる灰色の壁。

 その内側で繰り広げられる、血と暴力に塗れた日常を、ここにいる誰も知らない。

 知る必要もない。


「それにしても、十一件目って多すぎだろ。警察も何やってんだか」


 健太が口に唐揚げを放り込みながら言う。


「壁の中には入れないんだろ?」

「らしいな。治外法権ってやつ? まあ、中の奴らも出てこないなら、それでいいんじゃね。関わらないのが一番だって」


 健太が話の途中で、テーブルの端に置いていたペンケースに肘を引っ掛けてしまった。

 中身が床に散らばる。


「おっと!」


 健太が慌てて屈もうとした、その瞬間。


 彼の視界の隅で、信じられない光景が起きた。

 床に落ちる寸前だったシャープペンシルを、祐樹が椅子に座ったまま、右足のつま先でピン、と軽く蹴り上げたのだ。

 放物線を描いたペンは、テーブルの上に着地し、コトリと音を立てて止まった。

 一連の動作に、一ミリの無駄もなかった。

 祐樹はカレーを食べる手を、一切止めていない。


「……は?」


 健太が目を丸くする。


「え、今……見たか?」

「何がだ?」


 祐樹は、さも当然のように言って、スプーンを口に運ぶ。


「いや、今の! ペン! お前、足で……つーか見てなかっただろ!?」

「見てたさ」

「嘘つけ! サッカーでもやってたのか?」

「いいや」

「じゃあなんだよ、その神業!」

「たまたまだ」


 そう言って、祐樹は静かに微笑んだ。


 その笑みは、いつも通りの穏やかなもので、健太は「まじかよ……お前、たまに人間やめてるよな」と興奮気味に笑うだけで、それ以上深くは追及しなかった。


 祐樹にとって、それは呼吸をするのと同じくらい、無意識の反応だった。

 落下物の軌道を予測し、最適最短の動きで対処する。

 アビスでは、それがペンではなく、ナイフや銃弾だっただけの話だ。


 この男、佐伯健太は、善良で、鈍感だ。


 だからこそ、祐樹は彼の隣にいることを自分に許していた。

 彼と一緒にいれば、自分もただの大学生でいられるような錯覚を覚える。


 その錯覚が、今の祐樹には必要だった。

 アビスの亡霊ではなく、相沢祐樹として生きるために。


 食事を終え、午後の講義もない二人は大学を後にする。


「祐樹、この後バイトだろ? 頑張れよ」

「ああ」


 駅へ向かう健太と別れ、祐樹は一人、都心へ向かうバスに乗り込んだ。


 窓の外を流れる、平和な街並み。

 笑顔で歩く人々。

 壁一枚を隔てただけで、こうも世界は違う。


 祐樹はポケットからスマートフォンを取り出し、特定の暗号化されたアプリを開いた。


 受信ボックスには、一件の未読メッセージ。

 送り主は**『カラス』**。


 祐樹を表社会へ手引きし、時折、裏の仕事を紹介してくる情報屋だ。


『例の件、準備が整った。今夜22時、いつもの場所で』


 短い文面を確認し、祐樹は画面を消した。


 バスの揺れに身を任せながら、静かに目を閉じる。

 彼の「日常」は、ここまで。

 ここからは、もう一つの顔。

 アビスの亡霊が、狩りの準備を始める時間だった。


 ◇


 夜の帳が下りた新宿。


 ネオンの洪水が、アスファルトをけばけばしい色に染め上げている。

 祐樹は、そんな喧騒を背に、再開発から取り残されたような古い雑居ビルの裏口へと消えた。


 従業員用の階段を、音もなく駆け上がる。

 彼の足音は、常人にはまず聞き取れない。


 目指すは屋上。

 しかし、屋上へ出る扉は固く施錠されている。


 祐樹は気にも留めず、扉の横にある配電盤のカバーを爪先で器用に引っかけて開けると、複雑に絡み合った配線の中から二本を選び、指先で接触させた。


 微かなスパークが散り、電子ロックが沈黙する。

 時間にして、わずか三秒。


 重い鉄の扉を開けると、生暖かい夜風が彼の髪を揺らした。


 そこは、新宿の夜景を一望できる、ビルの屋上だった。

 しかし、彼の目的地はここではない。

 さらに屋上の隅にある、給水タンクへ続くメンテナンス用の梯子を登っていく。


 タンクの影に隠れるように設置された、もう一つの扉。


 ここが『いつもの場所』――ビルの最上階と屋上の間に存在する、空調やエレベーターを管理するための機械室だった。


 中に入ると、無数のサーバーや機械類が発する熱気と低い駆動音が、彼を出迎えた。


 部屋の中央。

 巨大な換気扇がゆっくりと回るその下に、古びた革張りのソファが一つだけ置かれている。


 そこに、一人の人物が座っていた。


 深く被ったフードのせいで、その顔は窺えない。

 闇よりも黒い影が落ちているだけだ。


「――五秒遅刻だ、"名無し"」


 合成音声のような、性別も年齢も判別できない声が、機械の駆動音に混じって響いた。


「バスが混んでいた」

「言い訳は聞きたくない。お前の五秒は、凡人の五時間、下手をすれば一生に値する。違うか?」


 影――情報屋『カラス』は、クツクツと喉の奥で笑った。


「……要件を言え」


 祐樹は、カラスから最も遠い壁に背を預け、警戒を解かずに言った。


 この男のことは信用していない。

 だが、その情報網と手腕だけは信頼している。

 祐樹が『相沢祐樹』でいられるのも、全てはこのカラスが用意した完璧な戸籍と経歴のおかげだ。

 もちろん、タダではない。


「せっかちだな。まあいい。極上の仕事を持ってきた」


 カラスは言うと、ソファの前に置かれたテーブルに、一枚の写真を放った。


 吸い込まれるように、写真は祐樹の足元まで滑ってくる。

 拾い上げて見ると、そこに写っていたのは一人の少女だった。


 気の強そうな、しかし気品のある顔立ち。

 真っ直ぐな黒髪。

 名門女学院のものと思われる制服に、寸分の隙もなく身を包んでいる。

 まるで、精密に作られた人形のようだ。


「西園寺麗奈。国内最大級のコングロマリット、西園寺グループの天蓋孤独。唯一の正統後継者。歳は十七」

「……それがどうした」

「護衛だ」


 カラスの言葉に、祐樹は眉をひそめた。


「断る。俺は殺し屋でも便利屋でもない。それに、そんな大層な令嬢の護衛など、面倒なだけだ」

「まあ聞け。依頼主は、彼女の祖父であり、グループの総帥でもある西園寺剛三。ただし、条件が一つある」


 カラスは、芝居がかった仕草で指を一本立てた。


「“見えない”護衛。つまり、令嬢本人に護衛の存在を悟られてはならない」

「……どういう意味だ?」

「お嬢様は、それはそれはプライドの高いお方でな。護衛など付けられることを、何よりの屈辱と考えていらっしゃる。これまでにも何人ものプロが付けられたが、全て叩き出されたそうだ。だが、彼女を狙う不穏な輩がいるのも事実。そこで、だ」


 カラスは、影の中で笑みを深めたようだった。


「気配を完全に消し、影となり、音もなく脅威を排除する。そんな芸当ができるのは、この東京広しといえど、アビスで最強と謳われた亡霊――お前くらいのものだろう?」


 祐樹は黙り込んだ。

 馬鹿げた話だ。

 だが、カラスの言う通り、それは彼が最も得意とすることだった。

 アビスでは、気配を読むことと同じくらい、消すことが重要だったからだ。


「なぜ俺なんだ。元SASでも、スペツナズでも、腕利きはいるだろう」

「連中は『兵士』だ。殺しのプロではあっても、隠れるプロじゃない。奴らの殺気は、平穏な日常ではあまりに異質すぎる。だが、お前は違う」


 カラリ、とカラスの喉が鳴る。


「お前は、獣だ。気配を消して獲物を狩り、危険を察知すれば闇に溶ける。そして何より、平穏な日常というものに完璧に擬態できる。……最高の適任者だとは思わんかね?」


 それでも、祐樹の気は乗らなかった。

 この平穏な日常を、これ以上掻き乱されたくはなかった。


「……断る、と言ったら?」

「まあ、そう言うな。無論、タダでとは言わん」


 カラスは、タブレット端末を取り出し、画面を祐樹に向けた。


 そこに表示された数字を見て、祐樹の呼吸が、ほんのわずかに止まった。


 ゼロの数が、現実感を失わせるほどの金額。

 祐樹がこれまで請け負ってきた裏仕事の、数十回分に相当する額だった。

 その金があれば。

 アビスに残してきた子供たちの……孤児院の、今後十年分の運営費が賄える。


 安全な食料、清潔な水、そして何より、最低限の医療品。

 あそこでは、それら全てが命に等しい価値を持つ。


 その金があれば、何人かの子供を、表社会へ引き抜くための準備資金に充てることすらできるかもしれない。


 祐樹の表情から、迷いの色が消えた。


 瞳の奥に、冷徹な光が灯る。

 それは、狩人の目だった。


「……仕事の内容を、詳しく聞かせろ」


 その言葉を待っていたかのように、カラスは満足げに頷いた。


「話が早くて助かる。潜入先は、彼女が通う『私立・聖マリアンヌ女学院』。お前の身分は、これだ」


 カラスが、もう一枚、カードを放る。


 それは、祐樹の写真が貼られた、真新しい職員証だった。


 所属:私立・聖マリアンヌ女学院 施設管理課

 役職:用務員


「明日から、お前の新しい日常が始まる。せいぜい楽しんでくれたまえよ、相沢祐樹君」


 合成音声の嘲笑を背に、祐樹は何も答えなかった。


 ただ、手にした職員証を強く握りしめ、機械室の窓から広がる偽りの光に満ちた東京の夜景を静かに見下ろしていた。

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