リングの外の怪物
テレビの画面が暗転し、部屋に静寂が戻った後も相沢祐樹はしばらく動かなかった。
隣で、ノアが心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
「ミナ……?」
「……何でもない」
祐樹は短く答えると、立ち上がって空になった食器を片付け始めた。
その動きはいつも通り無駄がなく冷静だった。
だが、ノアには分かっていた。
祐樹の心の奥底で、凍てついていた何かが音を立てて軋んでいるのを。
黒瀬竜也。
アビスでは、「クロ」と呼ばれていた。
祐樹と同じ師の下で戦闘技術を学び、常に祐樹の背中を追いかけていた男。
才能だけで言えば、祐樹と唯一互角に渡り合えた存在だった。
だが、彼は決定的に祐樹とは違った。
祐樹が力を「守るため」に振るったのに対し、黒瀬は力を「支配するため」に振るった。
彼は、自らの強さを誇示し、他者を屈服させることに至上の喜びを見出すタイプの人間だった。
そんな彼が今やUFCの世界ミドル級王者。
アスリートとして最も洗練された肉体と技術が要求される、世界で最も競争の激しい階級の頂点に君臨しているのだ。
(……くだらない)
祐樹は、水道の冷たい水で手を洗いながら内心で吐き捨てた。
ルールがあり、レフェリーがいて、ラウンドごとにインターバルがある。
そんなものは戦いではない。
ただの“競技”だ。
本当の戦場では、ルールなど存在しない。
生きるか死ぬか、ただそれだけだ。
テレビの中の王者は、祐樹にとって檻の中で吠える美しい豹に過ぎなかった。
だが、その存在は無視するにはあまりに大きすぎた。
その翌日。
祐樹の日常は、何も変わらずに始まった。
聖マリアンヌ女学院の清掃をし、大学の講義に出る。
だが、彼の意識の片隅には、常に黒瀬竜也の存在があった。
(奴は、なぜ表にいる? いつ、どうやってアビスを出た?)
様々な疑問が、彼の思考を巡る。
その日の夕方。
祐樹は大学からの帰り道、駅前の広場にさしかかった。
人々が足を止め、壁面に設置された巨大なビジョンを見上げている。
そこに映し出されていたのは、黒瀬竜也の次の試合のプロモーション映像だった。
ジムでトレーニングに励む彼の肉体は、鋼のように鍛え上げられていたが決して巨大ではなかった。
無駄な筋肉が一切ない、機能美の結晶。
その動きは、流れるようにしなやかで、それでいて一撃一撃が恐ろしいほどの破壊力を秘めている。
サンドバッグを打つパンチの連打は、まるで残像を描いているかのようだった。
最後に放たれたハイキックは空気を切り裂く鋭い音を立て、道行く人々が息を呑むのが分かった。
「やっぱ、黒瀬は次元が違うな……」
「スピードもパワーも、もはや芸術の域だろ」
祐樹は、そんな賞賛の声を遠くに聞きながら、ただ無言でビジョンの中の男を見つめていた。
その瞳から、穏やかな大学生の仮面は剥がれ落ち、底知れぬほど冷たいアビスの闇の色が浮かんでいた。
その時だった。
祐樹のすぐ近くで、一台の黒塗りの車が、音もなく停車した。
後部座席の窓が静かに下ろされる。
そこに座っていたのは、西園寺麗奈だった。
学校帰りに、偶然この広場を通りかかったのだ。
彼女は、人だかりの中に見慣れた用務員の姿を見つけ、そして、彼の見たことのない表情に思わず息を呑んだ。
いつも学園で見る、穏やかで、どこか頼りなげな青年の姿はそこにはなかった。
そこにいたのは、テレビの中の世界最強の男を、ただ、じっと見つめる、真剣な、そして、どこかとても寂しそうな横顔だった。
彼が、あんな表情をするなんて。
麗奈は声をかけることすらできなかった。
祐樹は彼女の存在に気づくことなくしばらくビジョンを見つめていたが、やがて、ふっと興味を失ったかのように踵を返し雑踏の中へと消えていった。
車の中に残された麗奈は、混乱していた。
(……今の、本当に、相沢さん……?)
あの、瞳。
あの、佇まい。
ただの、優しくて少し不器用な用務員さん。
そう、思っていたのに。
彼のあの寂しそうな瞳の奥には、一体、何があるのだろう。
麗奈は、ただ、もっと彼のことを知りたいと、そう強く思った。
◇
祐樹が雑踏に紛れた、その直後。
まるで入れ替わるように、一人の女性が彼の背後から現れ大型ビジョンの前に立った。
その女性に、祐樹は気づかなかった。
だが、もし彼が振り返っていたら驚愕に目を見開いていたに違いない。
黒いスーツをスタイリッシュに着こなし、その妖艶な美貌には知的な光が宿っている。
西園寺グループのライバル企業に現れ、サイレントの襲撃計画に関わっていた、あの謎の女性。
そして、祐樹がアビスにいた頃、ただ一度だけ一夜を共にしたことがある、忘れもしない女だった。
「……本当に、洗練されたわね。竜也」
女は、ビジョンの中の黒瀬を見上げ小さく呟いた。
そして、ゆっくりと振り返ると祐樹が消えていった雑踏の方角を意味深な笑みを浮かべて見つめる。
まるで、彼の気配を正確に捉えているかのように。
彼女の名は、静。
かつて、アビスの闇の中で生き、そして今、表社会の光の中で暗躍する、もう一人の亡霊だった。
止まっていたはずの過去が、今、祐樹の日常に静かに、だが確実に忍び寄ってきていた。




