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平穏と予兆

サイレントによる襲撃から、数週間が過ぎた。

嵐が過ぎ去った後のように、麗奈の周りには嘘のような平穏が訪れていた。


西園寺グループを狙っていたライバル企業は、例の事件の後、謎の経営不振に陥り、市場からその姿を消した。

麗奈に、これ見よがしに付きまとっていた物々しい護衛たちの数も今はもういない。


学園は、すっかりいつもの日常を取り戻している。

だが、麗奈の内面だけは、もはや以前の彼女ではなかった。

彼女の心の中には、二人の全く異なる男性の姿が住み着いてしまっていたのだ。


一人は、自分を影から守り続けてくれる正体不明の“騎士ナイト”。

彼は、強く恐ろしく、そしてどこまでも謎めいている。

彼のことを考えると、麗奈の胸は恐怖とそして抗いがたいほどの憧憬に締め付けられた。


そして、もう一人。

学園の物静かな用務員、相沢祐樹。

彼は弱く平凡で、どこか頼りない。

だが、図書館で見せた意外な博識さや、子猫に見せた不器用な優しさ。

彼のことを考えると、麗奈の胸は、なぜか温かい陽だまりのような気持ちに包まれるのだった。


麗奈は、最近休み時間になると、無意識のうちに彼の姿を探してしまっている自分に気づいていた。

中庭で黙々と植木の手入れをする彼の少しだけ猫背な背中。

その背中を物陰からそっと見つめる。

ただ、それだけの時間が彼女にとって新しい秘密の楽しみになっていた。


彼女はただ願っていた。

いつか、あの謎めいた“騎士”様が現れて、自分の日常を脅かす全ての悪を消し去ってくれますように、と。

そして、いつか、あの用務員さんと、図書館で会った時のようにもう一度ゆっくりとお話ができますように、と。


その二つの願いが、同じ一人の人間に向けられた、叶わぬ想いであるなどとは夢にも思わずに。



一方、祐樹の日常にも、変化が訪れていた。


ノアの存在が、彼の無機質だった生活に、彩りを与え始めていたのだ。

カラスが用意した完璧な偽造身分によって、ノアは「海外から帰国した、祐樹の遠い親戚の妹」ということになった。


これで、日中、彼女を外に連れ出していても、不審に思われることはない。


その日の午後。大学の講義が休みだった祐樹は、ノアを連れて近所の商店街を散策していた。


表社会の常識を教える、という名目の社会科見学だ。

活気のある商店街は、ノアにとって驚きの連続だった。

八百屋に山と積まれた色鮮やかな野菜、魚屋の店先で威勢よく響く声、惣菜屋から漂う香ばしい匂い。

その全てが、アビスには存在しない、豊かさの象徴だった。


二人が、ペットショップの前を通りかかった時、ノアが不意に足を止めた。


ガラス張りのショーケースの中で、数匹の子猫が、おもちゃのボールじゃれ合って無邪気に転げ回っている。


「……ミナ」

「どうした?」

「あいつら……なんで戦わないの?」


ノアは、心底不思議そうに首を傾げた。


「アビスにいた猫は、いつもお腹を空かせて、獲物を探して、他の猫と縄張りを争って……いつも戦ってた。でも、こいつらは、戦うことを知らないみたいだ」


その言葉に、祐樹は胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。

ノアが見ているのは、ただの子猫ではない。戦うことを知らずに生きられる、この世界の平穏そのものなのだ。


「……ここは、アビスじゃないからな」


祐樹がそう言うと、ノアは何かを納得したように、小さく頷いた。


「そっか。食べるものに困らないから、戦わなくていいんだ。……変な感じ」


ノアの横顔は、少しだけ寂しそうに見えた。

そんなやり取りをしながら、公園のベンチで休憩していた時だった。


「おーい、祐樹! 奇遇じゃん!」


背後から、底抜けに明るい声がした。

振り返ると、そこには友人の佐伯健太が立っていた。


「健太か」

「おう! って、あれ? その子、誰? めっちゃ可愛いじゃん! 妹?」


健太は、祐樹の隣に座るノアを見て、目を輝かせた。

ノアは、見知らぬ男の登場に、警戒心を露わにする。

その体は硬直し、いつでも飛びかかれるように、獣のような低い姿勢になっていた。


「……ノア、こいつは敵じゃない。俺の友人だ」


祐樹が、ノアの頭を軽く撫でて制する。


「こちらは、佐伯健太。こっちは、遠い親戚で、少しの間だけ預かることになった、ノアだ」


「へえ、そうなんだ! よろしくな、ノアちゃん!」


健太が、屈託のない笑顔で手を差し出す。

ノアは、なおも警戒した目で健太を見ていたが、祐樹が頷くのを見て、おずおずと、その小さな手を差し出した。健太の手が、そっとその手を握る。


「うわ、手ちっちゃ! よろしくな!」


健太の裏表のない態度に、ノアの警戒心も少しだけ解けたようだった。

祐樹は、そんな二人を眺めながら、内心で安堵のため息をついていた。


日常と、非日常。

決して交わることのないはずだった二つの世界が、今、目の前で危ういバランスを保ちながら、共存している。

その光景が、祐樹には不思議なほど心地よく感じられた。



その夜。

アパートに戻った祐樹は、ノアと一緒に、買ってきた惣菜で夕食を済ませていた。

部屋のテレビには、ゴールデンタイムのバラエティ番組が、けたたましい効果音と共に流れている。


「……表の世界の人間は、なんでこんなに大きな声を出すの?」

「面白いから、じゃないか」

「あたしは、ミナのいる静かな方が好き」


ノアはそう言うと、祐樹の腕にこてんと頭を預けた。


その時だった。

番組が中断され、スポーツニュースのヘッドラインが画面に映し出された。


『速報です! 来月開催される、総合格闘技UFCの世界ミドル級タイトルマッチが決定! 無敗の絶対王者、“トーキョー・ブラックドラゴン”こと黒瀬竜也選手が、ブラジルからの最強の挑戦者を迎え撃ちます!』


画面に、一人の男の姿が大きく映し出された。


引き締まった肉体。

自信に満ちた、不遜な笑み。

そして、その瞳の奥に宿る、圧倒的な暴力の光。


紛れもなく、表社会の頂点に君臨する、最強の男だった。


ノアが、預けていた頭を上げ、画面を指差した。


「……あ、こいつ」

「……」


祐樹は、何も言わなかった。


「こいつ、知ってる。アビスにいた。名前は……クロ。いっつもミナに喧嘩売って、いっつも負けてた奴だ」


ノアの無邪気な言葉が、部屋の空気に突き刺さる。

テレビの中の黒瀬竜也が、インタビューに答えていた。


『対戦相手? 誰でもいい。今の俺と同じ階級で、同じルールの上で戦って、俺に勝てる人間は存在しない。それは、俺が一番よく知っている』


その傲岸不遜な言葉は、絶対的な強者の自信に裏打ちされていた。

アナウンサーが、興奮気味に煽る。


『まさに最強! この男を止められる者は、果たして現れるのでしょうか!?』


その問いかけが、部屋に空しく響く。

祐樹は、テレビの電源をリモコンで消した。

部屋に、静寂が戻る。


「……ミナ?」


ノアが、心配そうに祐樹の顔を覗き込んだ。

そこにいたのは、もはや穏やかな大学生でも、優しい兄でもなかった。

冷え切った、無感情な瞳。


それは、アビスのコロッセウム『煉獄闘治場』で、全ての挑戦者を沈黙させ、頂点に君臨し続けた、伝説の亡霊――“名無し(アノニマス)”の目だった。


テレビの中の最強の男を、テレビの前の、本当の最強が見つめている。

止まっていたはずの、過去の歯車が、今、再び大きな音を立てて回り始めていた。

表世界最強の人間!

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