ゲームのあとしまつ
高架下の薄闇の中、相沢祐樹はまるで最初からそこにいたかのように音もなく姿を現した。
ノアが担いでいた小倉美咲の体を静かに受け取ると、その脈拍と呼吸を確認する。
「クロロホルムか……。すぐに目は覚ますだろう」
「ミナ、こいつはどうするの?」
ノアが、地面に転がったサイレントを足でつついて言う。
「こいつは、カラスに引き渡す。今回の件、西園寺の爺さんには大きな貸しができたからな。その手土産だ」
祐樹はスマートフォンを取り出し、カラスに連絡を入れる。
内容は簡潔だった。
『獲物を捕らえた。B-7地区の高架下。後始末を頼む』
数秒後、『承知した』という返信。
これで、このプロの兵士が表社会に戻ってくることは二度とないだろう。
西園寺グループが持つ“力”が、彼の存在をこの世から綺麗に消し去るはずだ。
「さあ、帰るぞ」
祐樹は美咲を横抱きにすると、ノアに言った。
「えー、もう終わり? つまんないの」
「終わりじゃない。始まりだ」
祐樹の声には、これまでにないほどの冷たさが宿っていた。
「奴の背後にいる人間を、根絶やしにする。そのための準備が始まるんだ」
その言葉通り、翌日から東京の裏社会は、静かだが激しい嵐に見舞われた。
西園寺グループが、本気で動いたのだ。
サイレントを雇ったライバル企業は、脱税、不正会計、反社会的勢力との繋がりなど、あらゆるスキャンダルを白日の下に晒され、株価は暴落。
数日のうちに、市場からの退場を余儀なくされた。
そして、その混乱の裏で、祐樹もまた動いていた。
彼は、カラスから得た情報と、サイレントの所持品から抜き取ったデータを基に、今回の襲撃計画に関わった末端の協力者たちを一人残らずリストアップしていた。
ある者は、謎の食中毒で病院送りに。
ある者は、交通事故で再起不能の重傷を負う。
またある者は、全てのデータを失い、忽然と姿を消した。
その全てが、警察も介入できない、完璧な「事故」として処理された。
祐樹は、その冷徹な手腕で、敵の根を静かに、だが確実に絶やしていったのだ。
◇
一方、無事に保護された美咲は、誘拐された間の記憶を失っていた。
彼女が覚えているのは、黒いバンに引きずり込まれたところまで。
次に気がついた時には、自宅のベッドの上だったという。
彼女を救ったのが誰なのか、真相は再び闇の中に葬られた。
だが、西園寺麗奈だけは、その真相に最も近い場所にいた。
美咲が保護された直後、彼女のスマートフォンに、一件だけ、非通知の着信履歴が残っていた。
その番号にかけ直しても、もちろん繋がることはない。
だが、麗那は、その番号が誰からのものなのか、直感的に理解していた。
“守護者”からの、無言のメッセージ。
『友人は、無事に返した』と。
◇
事件から数日後。
プロの暗殺者による、ピアノ落下事件。
そして、親友である美咲の誘拐。
立て続けに起きた、あまりに悪質で暴力的な事件。
それらは西園寺麗奈の完璧だったはずの世界に消えない傷跡を残していた。
その夜。
西園寺家の豪奢な自室。
麗奈はベッドの上で膝を抱え、ただ一点を見つめていた。
美咲は無事に保護された。
記憶を失っていたことを除いては。
だが、麗奈の脳裏には、あの時の恐怖が鮮明に焼き付いて離れない。
もう、チンピラや不良が相手ではない。
自分は明確な殺意を持つプロの犯罪組織に狙われている。
そのどうしようもない事実に、彼女は生まれて初めて、本当の「無力さ」を感じていた。
SPを何人つけようと無駄だ。
西園寺の権力も財力も、あの闇の中から伸びてくる悪意の前では何の役にも立たない。
(……怖い)
彼女の華奢な体が微かに震えた。
だが、その恐怖のすぐ隣に。
もう一つ、別の不思議な感情が、芽生えていることにも彼女は気づいていた。
“守護者”。
今回もまた、彼は現れたのだ。
ピアノが落ちてくる、まさにその寸前に作動した火災報知器。
美咲を救い出したあまりに手際が良すぎる警察の奇跡的な介入。
偶然ではない。
彼がいたのだ。
また、自分のすぐ近くの闇の中で自分を守ってくれていた。
(……あなたは、一体、誰なの……?)
彼女のその問いは、もはや疑念や好奇心から来るものではなかった。
それは、もっと切実で、そしてどこかロマンチックな響きを帯び始めていた。
自分のために、これほどの危険を冒してくれる“騎士”のような人が、本当にこの世界のどこかにいる。
その事実が、彼女の恐怖に凍えた心をほんの少しだけ温めてくれていた。
次の話からは毎日19時に投稿します




