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混沌と秩序

「見っけ」


ノアの無邪気な声が、薄暗い高架下に響く。


その言葉と裏腹に、彼女から放たれる気配は、もはや人間のそれではなかった。


手負いの獣のように全身の筋肉をしならせ、瞳孔は爛々と輝き、いつでも喉笛に噛みつける体勢を維持している。


バンの後部座席の闇の中から、サイレントがゆっくりと姿を現した。


その手には、音もなく抜き放たれたサプレッサー付きの拳銃が握られている。

彼の表情に、焦りや恐怖といった感情は一切ない。ただ、目の前の予測不能な生物を、冷静に分析しているだけだった。


(小娘……いや、違う。これは、野生動物だ)


彼の脳は、瞬時にノアの危険度を再計算する。


計画は失敗した。


だが、任務の遂行が不可能になったわけではない。

目の前の脅威を排除し、人質を確保して離脱する。


プランはDデルタに移行した。


次の瞬間、サイレントは動いた。


発砲ではない。

彼は、バンの中にいた人質――意識を失った美咲の体を盾にするように、外へと転がり出たのだ。


プロの兵士として、非情で、そして最も合理的な判断。


「!」


ノアの動きが、一瞬だけ止まる。


彼女の野生の本能が、人質を傷つけることを躊躇させた。


そのコンマ一秒の隙を、サイレントは見逃さない。


プスッ、プスッ


サプレッサーが、乾いた発砲音を吐き出す。


狙いは、ノアの急所――心臓と眉間。


だが、ノアは人間ではなかった。


彼女は、銃口が向けられるよりも早く、銃弾の“軌道”を読んでいた。

体をあり得ない角度にくの字に曲げ、まるで踊るように、二発の銃弾を紙一重で回避する。


サイレントの氷のような瞳が、初めて見開かれた。


(……なんだと?)


弾道を読んだ? 馬鹿な。


そんな芸当、人間の反射神経で可能なはずがない。


ノアは、着地と同時に、地面のアスファルトの塊を足で蹴り砕いた。


砕石が、散弾のようにサイレントめがけて飛んでいく。


サイレントは、美咲を盾にしながら、最小限の動きでそれを回避。

だが、その一瞬で、ノアはすでに彼の懐、死角へと潜り込んでいた。


「――シッ!」


ノアの爪先が、薙刀のようにサイレントの脇腹を抉る。


だが、その一撃は、硬い感触に阻まれた。


(防弾ベスト……!)


ノアの舌打ち。


サイレントは、その衝撃を利用して後方へ跳び、距離を取ると同時に、再び銃口をノアに向けた。


両者の間に、一瞬の均衡が訪れる。


野生の勘と、戦闘訓練の極致。

混沌と、秩序。


二つの異質な力が、互いを値踏みするように、睨み合った。


その全てを、祐樹はイヤホン越しに伝わる音だけで、完璧に把握していた。


発砲音の数、ノアの息遣い、金属がぶつかる音、そして風の流れ。


彼の頭脳は、それらの情報から、戦場の光景をリアルタイムで再構築している。


『ノア、そいつは殺すな』


イヤホンから、冷静な指示が飛ぶ。


「なんで!? こいつ、ミナの邪魔する敵でしょ!?」

『いいから聞け。奴を生け捕りにする。目的と、依頼主を吐かせるんだ』

「ちぇっ、めんどくさいなあ」


ノアは不満そうに唇を尖らせたが、祐樹の命令には逆らわない。


『奴の装備は、お前より上だ。真正面から行くな。もっと“お前らしく”やれ』

「……お前らしく?」


ノアは、一瞬だけ首を傾げたが、すぐにその意味を理解した。


彼女の口元に、再び獰猛な笑みが浮かぶ。


「――そっか。そうだよね」


次の瞬間、ノアは戦うのをやめた。


彼女は、サイレントに背を向けると、まるで遊びに飽きた子供のように、高架の柱を駆け上がり、あっという間に闇の中へと姿を消してしまったのだ。


「……?」


サイレントは、この不可解な行動に、初めて眉をひそめた。


逃げたのか? いや、違う。あの獣が獲物を前にして逃げるはずがない。


これは、罠だ。


サイレントは、警戒レベルを最大に引き上げた。

人質を抱えたまま、ゆっくりと周囲の闇に視線を巡らせる。


だが、何もいない。


風の音と、遠くで鳴り響くサイレンの音だけ。


(上か……!)


サイレントが、高架の天井を見上げた、その瞬間だった。


彼の足元のアスファルトが、轟音と共に爆ぜた。


マンホールの蓋が、まるで火山噴火のように真上へと吹き飛んだのだ。


「なっ!?」


ノアは、地上から姿を消した後、地下の下水道へと潜っていたのだ。

そして、サイレントの真下に回り込むと、蓋を真下から思い切り蹴り上げた。


完全に意表を突かれたサイレントは、バランスを崩す。


その一瞬の隙が、命取りだった。


闇の中から、無数の黒い影――カラスの群れが、一斉にサイレントに襲いかかった。


「ぐっ……!?」


カラスたちは、彼の顔や腕に鋭い嘴と爪を立てる。視界を奪われ、銃を持つ腕の自由を失う。


『今だ、ノア!』


祐樹の号令。


下水道から飛び出したノアが、無防備になったサイレントの背後に音もなく着地する。


そして、彼女の手刀が、サイレントの首筋に深々と突き刺さった。


人体の構造を完璧に無視した、アビスの“殺法”。

だが、ノアは最後の最後で、その威力を寸止めした。


衝撃だけが、サイレントの延髄を駆け抜ける。


「が……は……」


プロの兵士は、短い呻き声と共に、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


彼の意識が、完全にブラックアウトする。


静寂が戻った高架下。


カラスの群れは、まるで役目を終えたかのように、闇の中へと飛び去っていく。


ノアは、気絶したサイレントの体をゴミのように転がすと、その隣で気を失っている美咲に近づいた。


「……ふぅん。こいつが、ミナの新しい“お仕事”?」


少女は、興味深そうに美咲の顔を覗き込むと、その肩に手をかけ、軽々と担ぎ上げた。


イヤホンから、祐樹の声がする。


『よくやった、ノア。仕事は終わりだ。こっちも、もう一つの“掃除”が終わった』

「掃除?」

『ああ。お前が遊んでいる間に、この誘拐計画を裏で操っていた連中のオフィスを、少しだけ綺麗にしてやった』


その声は、どこか楽しげでもあった。


その頃、西新宿の高層ビルの一室。


西園寺グループのライバル企業である、とある会社のサーバー室は、スプリンクラーの誤作動で水浸しになり、全てのデータが再起不能な状態となっていた。


その現場から、一人の清掃業者が、誰にも気づかれずに立ち去っていく。


その背中は、聖マリアンヌ女学院の用務員、相沢祐樹によく似ていた。

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