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擬態の綻び

 相沢祐樹の完璧に計算され尽くした日常は、ノアというイレギュラーの登場によって良くも悪くも変質し始めていた。


 彼の一日は、まずノアに表社会の常識を教えることから始まる。


「いいか、ノア。これは『歯ブラシ』だ。食べるな」

「でもミナ、これミントの味して美味しい」

「磨くものだ。それと、牛乳はパックから直接飲むな。コップを使え」

「アビスでは早い者勝ちだった」

「ここはアビスじゃない」


 そんなやり取りが、毎朝の日課となった。


 祐樹は、ノアを一人で部屋に残しておくわけにもいかず、日中は行動を共にすることが増えた。


 大学の講義には連れていけないため、大学近くの公園や図書館で待たせ、終わるとすぐに合流する。


 その日、祐樹は聖マリアンヌ女学院での仕事を終えた後、ノアを連れて駅前の商店街に来ていた。

 彼女の服や、最低限の日用品を揃えるためだ。


 ノアは、生まれて初めて見る世界の彩りに、目を輝かせていた。


 ショーウィンドウに飾られた綺麗なワンピース。

 クレープ屋から漂う甘い香り。

 ペットショップでじゃれ合う子犬たち。


 その一つ一つに、ノアは子供のようにはしゃいだ。


「ミナ、あれ! あのふわふわのやつ、食べたい!」


 ノアが指差したのは、綿あめの屋台だった。


 祐樹は小さくため息をつきながらも、財布から小銭を取り出す。


「……一つだけだぞ」

「うん!」


 初めて口にする綿あめの、雲のような食感と砂糖の甘さに、ノアは感動で目を丸くしていた。


 その無邪気な横顔を見ていると、祐樹の口元にも、ごく自然な擬態ではない笑みが浮かんでいた。


 彼が「相沢祐樹」ではなく、「ミナト」に戻れる、束の間の時間だった。


 だが、そんな平穏は、常に薄氷の上にある。


 商店街を抜け、学園へと続く高級住宅街の通りに出た時だった。


 道の向こうから、見慣れたシルエットが歩いてくるのが見えた。


 西園寺麗奈だ。


 彼女は、数人の友人と談笑しながら、こちらへ向かってきている。距離は約百メートル。


「……!」


 祐樹は、咄嗟にノアの腕を引き、近くの路地裏へと身を隠した。


「ど、どうしたのミナ?」

「静かにしろ」


 祐樹は、壁の角から慎重に様子を窺う。


 麗奈たちは、祐樹たちが消えた路地裏には気づかず、楽しげに会話を続けながら通り過ぎていく。

 その背中が見えなくなるまで、祐樹は息を潜めていた。


「……もういいぞ」

「……今の、だれ?」

「俺の“仕事”に関係する人間だ」


 祐樹は、それ以上は説明しなかった。

 だが、彼の心には冷ややかな汗が一筋流れていた。


 危なかった。

 もし、麗奈にノアと一緒にいるところを見られていたら、面倒なことになっていた。

 冴えない用務員が、なぜ身元不明の少女と一緒にいるのか。

 説明のしようがない。


 ノアの存在は、彼の完璧な擬態に僅かな綻びを生み出しかねない危険な要素だった。


 その夜。

 アパートに戻った祐樹のスマートフォンが、特殊な通知音を鳴らした。


 カラスからの連絡だ。


 CROW: 『お前の“忘れ物”の身分証、手配が済んだ。明日にはデータを送る。名前、経歴、全て完璧だ。さすがの俺も骨が折れたぜ』

 YUKI: 『助かる』

 CROW: 『だが、礼を言うのはまだ早い。厄介な情報が入った。どうやら、西園寺のお嬢様を狙う“本物”が動き出したらしい』

 祐樹の指が、スマートフォンの画面の上で止まった。

 YUKI: 『本物?』

 CROW: 『ああ。チンピラや逆恨みの不良とはワケが違う。海外のPMC(民間軍事会社)に所属していた、筋金入りのプロだ。経歴を洗ったが、幾つもの紛争地域を渡り歩いてきた、正真正銘の戦争屋だよ』

 YUKI: 『目的は』

 CROW: 『分からん。誘拐か、暗殺か。いずれにせよ、西園寺グループが、どこかでとんでもない恨みを買ったとみえる。依頼主にも警告はしておいたが、お前も気を引き締めろ』

 CROW: 『今度の相手は、お前の正体に気づくかもしれんぞ? 同類の“匂い”でな』


 メッセージは、そこで途切れた。


 祐樹は、部屋の窓から、煌めく東京の夜景を見下ろした。


 プロの暗殺者。


 その言葉に、恐怖は感じなかった。

 アビスでは、そんな肩書きを持つ者など、掃いて捨てるほど殺してきた。


 だが、面倒だ、とは思った。


 獣の流儀が通用しない、訓練された兵士。

 それは、アビスの強者とはまた質の違う、厄介な敵だった。


 翌日。

 祐樹は、いつも以上に注意深く、聖マリアンヌ女学院の警備にあたっていた。


 田中と名乗る施設管理の主任と校内の見回りをする傍ら、彼の五感は全ての情報を拾い上げようと限界まで拡張されていた。


 生徒たちの会話。

 教師たちの動き。

 学園に出入りする業者。

 その全てに不審な点はないか。


 だが、その日は何事もなく平穏な時間が過ぎていった。


 仕事を終え、祐樹はノアと合流し帰路についていた。


 夕暮れのターミナル駅。

 家路を急ぐ人々の雑踏。


 祐樹は、ノアとはぐれないように、しっかりと彼女の手を握っていた。


 その時だった。


 ――フッ、と。


 祐樹の首筋を、剃刀で撫でられたかのような、鋭い感覚が走り抜けた。


 それは、殺気。


 だが、これまで感じてきたものとは全く質が違った。


 アビスの住人たちが放つ、剥き出しの獣性やどす黒い憎悪ではない。


 もっと冷たく、無機質で、統率された、機械のような殺意。

 目的を達成するためだけに最適化された、一切の無駄がない、純粋な殺意のベクトル。


 祐樹は、足を止めた。


「ミナ?」


 ノアが、不思議そうに彼の顔を見上げる。


 祐樹の顔からは、表情が消えていた。


 穏やかな大学生でも、ノアに見せる兄の顔でもない。

 ただ、絶対的な脅威を前にした、アビスの亡霊の顔がそこにあった。


 彼の視線が、雑踏の中の一点を捉える。


 人波の向こう側、駅の柱の影に、一瞬だけ見えた男のシルエット。

 長身で、姿勢が良く、その立ち姿には一切の隙がなかった。


 男は、祐樹に気づいたわけではない。


 その視線は、駅の電子掲示板に映し出された、西園寺グループの広告――そこに映る、西園寺麗奈の写真――に向けられていた。


 目が合ったわけではない。

 だが、祐樹は確信した。


 あれが、カラスの言っていた“本物”だと。


 男は、すぐに人混みの中へ紛れ、その気配も掻き消えた。


 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。


「……ミナ、どうしたの? 怖い顔してる」


 ノアが、不安そうに祐樹の服の袖を掴む。


 祐樹は、我に返ると、ゆっくりとノアの頭に手を置いた。


「……いや。何でもない」


 その声は、自分に言い聞かせるようでもあった。


「帰るぞ、ノア」

「うん……」


 祐樹は、再び歩き出した。


 だが、彼の意識はもはや日常にはなかった。

 平穏な日常のすぐ隣に、死の匂いがする。


 静かなるチェス盤は、今、新たなプレイヤーの登場によって完全に覆されようとしていた。

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