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檻の中の日常

「ミナ」


 その懐かしい響きに、祐樹の記憶の扉が軋む音を立てた。


 ミナト。

 それが、相沢祐樹が捨てたはずの本当の名前だった。

 アビスの子供たちが、舌足らずに彼を呼んだ愛称が「ミナ」だった。


「……ノア」


 祐樹は感情を押し殺した声で彼女の名を呼ぶと、素早く周囲に視線を走らせた。

 幸い、こんな薄汚れた路地裏に注目する者などいない。


「立てるか?」

「……うん」


 ノアは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま頷くと、ふらつきながら祐樹の胸に飛び込んできた。

 華奢な体からは、アビスの土と、飢えた獣の匂いがした。


「会いたかった……! ミナに、会いたかったんだ!」

「……ああ」


 祐樹は、その小さな体を一瞬だけ強く抱きしめると、すぐに引き離した。

 感傷に浸っている場合ではない。


「ここを出るぞ。話は後だ」

「うん!」


 祐樹はノアのフードを深く被せ直すと、その手を引き、闇から闇へと渡るように人目を避けて路地裏を抜けていった。


 祐樹が借りているアパートは、新宿から電車で三十分ほど離れたごく普通の住宅街にある。

 何の変哲もない鉄骨二階建ての建物だ。


 部屋に入るなり、ノアは全てが目新しいといった様子で、きょろきょろと室内を見回した。


「すげえ……壁が綺麗だ。ベッドがある。これが……テレビ?」

「ああ。今は黙って座ってろ」


 祐樹はノアを座らせると、救急箱から消毒液とガーゼを取り出し、彼女の腕にあった擦り傷の手当てを始めた。


「……痛っ」

「我慢しろ。どうやってここに来た? アビスから、どうやって出た」

「西の壁。昔、ミナが見つけた抜け道、まだ生きてたから」

「あのネズミの穴か……。一人で来たのか?」

「うん。ミナがいなくなって、つまんなくなったから。みんな、ミナが死んだって言ってたけど、あたしは信じなかった。ミナは、絶対死なないもん」


 ノアは、誇らしげに胸を張った。


 その言葉に祐樹の胸がチクリと痛む。


 彼はノアの傷の手当てを終えると、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。


「ノア。お前、今日新宿で何をした?」

「!」


 ノアの肩が、ビクリと震えた。


「……男たちが、しつこかったから。ちょっと、黙らせただけ」

「“ちょっと”だと?」


 祐樹の声のトーンが、一段階低くなる。

 それは、アビスで彼が本気で怒る時の声だった。


「あの映像を見た。あれは表のやり方じゃない。アビスのやり方だ。なぜ力を使った? ここでは、力は隠すものだと、俺が教えていたはずだぞ」

「だって、あいつらが……!」

「言い訳は聞かん!」


 祐樹の叱責に、ノアは唇を噛み、俯いてしまった。

 大きな瞳から、再び涙がこぼれ落ちる。


「……ごめんなさい」


 その姿を見て、祐樹は深くため息をついた。

 これ以上、彼女を責めても仕方がない。

 常識が違うのだ。


「いいか、ノア。よく聞け。ここはアビスじゃない。ここで目立てば、俺もお前も、ここにいられなくなる。最悪、政府の犬共に捕まって、解剖台の上だ。もう二度と、人前で力を使うな。絶対にだ」

「……うん。わかった」


 祐樹は、ノアの頭を優しく撫でた。


「腹、減ってるんだろ。何か作ってやる。その前に、風呂に入れ。お前、獣臭いぞ」

「ふろ……?」

「体を洗う場所だ」


 そこから、奇妙な共同生活が始まった。


 ノアは、風呂の使い方が分からず、シャワーの水を部屋中に撒き散らした。


 祐樹が作った生姜焼きを、アビスの習慣で手掴みで食べようとした。


 テレビに映るアニメに夢中になり、夜更かしをしようとしては祐樹に叱られた。


 全てが、祐樹にとって頭の痛い問題だった。

 だが同時に、彼の心が、凍てついていた何かが、少しずつ溶けていくような感覚もあった。


 それは、彼がアビスにいた頃、孤児たちと暮らしていた日々の再現のようでもあった。


 その夜、ノアが子供のように寝息を立てるのを隣の部屋で聞きながら、祐樹は一人、深く考え込んでいた。


 彼女をどうするべきか。


 アビスに帰すのが、最も安全で、正しい選択だろう。


 彼女の存在は、祐樹の計画――アビスの子供たちを解放するという大目標にとって、あまりに大きすぎるリスクだ。


 だが、一度この平穏を知ってしまった彼女を、再びあの地獄へ送り返すことができるのか?

 それは、祐樹自身にも分からなかった。


(……選択肢は、ないか)


 祐樹はスマートフォンを取り出すと、暗号化アプリを起動した。


 相手は、もちろん『カラス』だ。


 YUKI: 『いるか』

 CROW: 『奇遇だな。俺も、お前に聞きたいことがあったところだ。新宿でのあのお祭り騒ぎ、お前の仕業じゃないだろうな?』

 YUKI: 『俺じゃない。だが、俺の“忘れ物”だ』

 CROW: 『……ほう?』

 カラスの返信に、興味をそそられた気配が滲む。

 YUKI: 『厄介事を拾った。戸籍が一つ、必要になった。完璧なやつをだ』

 CROW: 『……はっは。面白いことを言う。お前が、自分のため以外にそんなものを欲しがるとはな。随分と高くつくぞ、今回の“忘れ物”は』

 YUKI: 『金は払う。前金で、昨日の報酬の三割をくれてやる』

 CROW: 『……正気か? よほど可愛い忘れ物らしいな。いいだろう、その話、乗った』


 交渉は、成立した。


 祐樹は、チャットを閉じると静かに天井を見上げた。


 リスクは承知の上だ。

 この選択が、自分の首を絞めることになるかもしれない。


 だが、彼は決めたのだ。

 この偽りの日常という檻の中で、もうしばらくこの野生の獣を飼い馴らしてみようと。

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