門番
よろしくお願いします
東京都、新宿区。
かつて未来都市として大規模な再開発が進められたその一角は、計画の頓挫と共にゴーストタウンと化し、やがて法も秩序も届かない欲望の無法地帯となった。
国内外の犯罪者、戸籍のない者、そして表社会のルールから弾き出された全ての人間が集う現代の魔窟。
政府はその存在を隠蔽し、見て見ぬふりを続けるため、その周囲を高さ30メートルの巨大な壁で完全に隔離した。
その名は、無法特区――<アビス>。
十万を超える魂がその中で今も蠢いている。
そこでは力が全て。
暴力が唯一の法。
そして、住人たちは壁の外の世界をこう呼ぶ。
理解不能な「法」で縛られ、捕まれば二度と戻れない危険な異世界――「表」と。
彼らは、表社会を忌み嫌い恐れている。
アビスこそが彼らの世界の全てなのだ。
その最果てに、その「門」はあった。
表社会へと繋がる、唯一の通用口。
だが、それは希望の扉ではない。
絶望の象徴だ。
門は、“門番”と呼ばれる一人の巨漢によって完全に支配されていた。
「――ひぃ! お、お願いだ! 通してくれ!表で女房と子供が待っているんだ」
痩せこけた男がなけなしの食料を門番の足元に差し出す。
「……ハッ! こんなもんじゃ、鼻クソもほじれねえな」
門番――“剛山”は、その食料を足で踏み潰すと、巨大な鉄筋の棍棒を無慈悲に男の頭へと振り下ろした。
鈍い音と共に、一つの命がゴミのように消える。
ゴウザンの部下たちの下品な笑い声が響いた。
この門を通りたいのならゴウザンを満足させるだけの「価値」を差し出すか、あるいはこの“怪物”を力でねじ伏せるしかない。
その時だった。
一人の男が路地裏の闇の中からその門へと向かってまっすぐに歩いてきた。
フードを目深に被り、その顔はひび割れた無機質な仮面で覆われている。
背中には大きく膨らんだバックパック。
ゴウザンの視線が、その男――祐樹の姿を捉えた。
「……なんだ、てめえは。死にてえのか?」
祐樹は何も答えない。
ただ、その歩みを止めることなく門へと進んでいく。
そのあまりにも不遜な態度にゴウザンの顔が怒りに歪んだ。
「やっちまえ! そいつを肉片に変えて門の飾りにしろ!」
五人の部下が雄叫びを上げ、祐樹へと同時に襲いかかった。
だが、それはもはや戦闘ではなかった。
祐樹は迫りくる暴力の渦の中をまるで散歩でもするようにゆっくりと歩いて通り抜けた。
彼が五人の男たちの中心を通り過ぎた後。
そこには地獄が生まれていた。
襲いかかったはずの男たちは、誰一人、彼に触れることすらできず、全員が腕や足の関節をあり得ない方向に曲げられ声にならない悲鳴を上げながら地面に転がっていた。
祐樹は一度も振り返らない。
彼の目の前には、ただ一人呆然と立ち尽くすリーダーのゴウザンだけが残されていた。
「……な……な……」
ゴウザンは目の前で起きたことが信じられず恐怖に震えている。
「う、うおおおおおおおっ!」
彼は恐怖を振り払うように絶叫すると、持っていた巨大な鉄筋の棍棒を祐樹めがけて渾身の力で振り下ろした。
彼は振り下ろされる棍棒の軌道に合わせ、自ら一歩踏み込むと、開いた掌底でその側面を滑らせるようにいなした。
轟音と共に棍棒は祐樹のすぐ隣のアスファルトを粉砕する。
ゴウザンの巨体は勢いを殺しきれず僅かに体勢を崩した。
そして、棍棒が地面に激突したその衝撃が消え失せるコンマ一秒の隙。
祐樹の寸鉄のような手刀がしなりきった鉄筋のその一点に叩き込まれた。
パキン!という乾いた音と共に、極太の鉄筋は半ばから呆気なく折れ飛んだ。
そして、最後に。
祐樹はゴウザンの分厚い胸にそっと掌を当てる。
衝撃はない。
だが、ゴウザンの巨体は数秒間白目を剥いて痙攣した後、まるで糸の切れた人形のようにゆっくりとその場に崩れ落ち意識を失った。
祐樹は倒れたゴウザンには目もくれず、その懐から古びた認証キーを奪い取った。
そして、彼らが守っていた巨大な錆びついた鉄の門へと歩み寄ると、そのキーを制御盤に差し込んだ。
ゴゴゴゴゴ……という、地響きのような音と共に重い鉄の扉が数年ぶりにゆっくりと開き始める。
扉の向こうから「外の世界」の光と湿った風が流れ込んできた。
祐樹はアビスの闇を一度だけ振り返る。
脳裏に浮かぶのは彼が守ると誓った子供たちの顔。
彼は彼らの未来のために、これから光の世界の亡霊となるのだ。
彼は一切の迷いなくその光の中へと、一歩足を踏み出した。
アビスの物語はここで終わる。
ここからは表社会の物語が始まろうとしている。
――そして、物語は平穏な大学の講義室の場面から始まる




