第四章 : 影踏みの灯火
『青行燈』のいる場所は、意外なところだった。
「なあ、本当にこんな場所にいるんですか、その青行燈ってやつは」
俺は前を歩く百目の背中に向かって問いかけた。
青行燈――百物語を語り終えた時に現れるという謎めいた妖怪だ。人を狂気に追いやるだの、不吉な知らせを運んでくるだの、ろくでもない噂ばかり耳にする。
「勿論だとも。あいつはそう遠くへは行かないさ」
百目は平然と答え、ゆったりとした足取りで薄暗い路地を進んでいく。
この辺りは見知った街並みのはずだが、今はまるで異世界に踏み込んだかのようだった。いつの間にか周囲は異様な静寂に包まれ、人の気配すら消えている。
「本当に妙な空気だな……」
隣を歩く鎌鼬が不快そうに呟いた。普段のふざけた様子はなりを潜め、珍しく真面目な表情を浮かべていた。
ふと頭上を見上げると、いつの間にか灯ったガス灯が青白い光を放っている。昼間のはずなのに周囲は夜のような薄闇に沈み、湿り気を帯びた空気が肌をじっとりと濡らしていた。
「見えてきたぞ」
百目が低い声で告げる。視線を向けたその先には、普段子供たちの笑い声が響く小さな公園が、今はまるで息を潜めるように沈黙していた。
青白いガス灯の下、公園の中央にぼんやりと奇妙な影が浮かび上がっている。
――あれが、青行燈なのか。
影はゆらりゆらりと揺れ動き、長い髪を垂らした痩せ細った人影を形作っていた。その輪郭はぼやけて掴めず、けれど確実に俺たちの存在を認識しているのが感じられた。
「おや、残念――“唾付き”ですか」
突然、耳元で囁かれた。男女の声が重なり合ったような奇妙な音色に、ぞくりと背筋が凍る。反射的に振り返ったが、そこには誰もいない。
再び前を見ると、影は静かに揺れていた。まるで笑っているように、青白い灯火の中で影の口元がほんのわずかに歪んでいるように見えた。
「よう、青行燈。五十年ぶりか?」
「こんにちは、百目の旦那様。お呼びいただき光栄至極――それに、鎌鼬の旦那様も。お久しゅうございますれば」
青行燈はゆったりとした口調で応じた。丁寧な言葉遣いだが、その声にはどこか人を試すような、危うい響きがあった。
「あー、うん。久しぶり、青行燈。できれば会いたくなかったよ」
鎌鼬は珍しく嫌悪感を隠そうともせず、眉間に深い皺を寄せながら吐き捨てるように言った。
「おやおや。相変わらずご無体な仰せですねぇ」
青行燈は鎌鼬の言葉に対し、青白い燐光を強めた。伸びた影が、まるで笑っているかのようにゆらゆらと小刻みに揺れている。
「さて……私如きに何用でしょうか。百目の旦那様ともあろう御方が」
百目は顎に手を添え、少し間を置いてから答える。
「『かぐや姫』のことを聞きたい。……お前なら知っているだろう?」
その言葉に、影の輪郭がわずかに波打った。まるで喜びを噛みしめるかのように、灯火の揺らぎが濃くなる。
「あぁ、月の姫様のお噂ですか。懐かしいですねぇ。ええ、覚えていますとも……ですが――」
青行燈の影がふっと沈む。口をつぐんだように見えた。
しばらくして、影の肩口がゆっくりと動いた。ため息のように、風が一つ吹き抜ける。
「私でいいので? 私は“貴方様方の話を又聞き”したにすぎません。私よりも正確に覚えている“適任”がおりましょうや」
「いいんだよ。“アイツ”にゃ、絶対に聞きたくないのだ」
「回りくどい話はいいからさ、さっさと本題に入ってくれる?」
鎌鼬が苦々しく促すと、影の動きが微かに肩をすくめたように見えた。
アイツ、とは誰だろうか?
ちらりと百目を見上げる。一瞬目が合うが、すぐに気まずそうに逸らされてしまった。どうやら、教えるつもりはないらしい。
「……へえ。まあ、旦那様方が良いと仰るのなら、私は構いやせんがね。ええ、『かぐや姫』は……いえ、正しくは『かぐや姫と呼ばれた外星の化け物』ですね」
俺はその言葉に眉をひそめる。背筋に冷たいものが走った。
「外星って……まさか、宇宙人ってこと?」
俺の問いに、影がふっと揺れた。笑っているらしい。
「ええ、唾付きの坊ちゃん御察しの通り。遥か彼方の星から、この地へ流れ着いた者。人とは異なる力を宿し、故郷へ戻る術を探していた。けれど地上に降り立ったその瞬間、人々は彼女を『かぐや姫』と崇めたのですよ」
百目が静かに頷き、補足する。
「……月へ帰る方法がない以上、彼女は地球で生きるしかなかったというわけだな」
「左様にございます。そして問題の『火鼠の衣』ですが……」
青行燈の影が、青白い光の中で不気味に震えた。まるで、面白い話を思い出したかのように。
「月の姫に『火鼠の衣』を要求された阿部御主人は、本当に『火鼠の衣』を持っていたのです。実際に衣を授けたのは、多聞天様――いまや毘沙門天と名を変え、堂々と神として君臨しているあの御方です」
鎌鼬が忌々しげに舌打ちする。
「だが、地上の貴族と結婚したくない姫は、それをこっそり贋作とすり替えてしまった……そして『火鼠の衣』は燃えてしまったわけか」
俺は思わず声を上げる。
「じゃあ、燃えたのは贋作の方で、『本物』って奴が窮鼠のお嬢さんが探しているやつなのか?」
青行燈の影がゆっくりと揺れ、やんわりと首を横に振るような動きを見せた。
「いいえ。加護を失った今、本物の『火鼠の衣』もまた、燃えうる存在となりました。現に、今まさに“燃えつつある”と申しても過言ではありません」
「え……?」
その言葉に、全身の血が冷たくなるような感覚を覚えた。
「火鼠の衣が……燃えてる? 今……?」
「ええ、ゆっくりと。誰にも気づかれぬうちに、誰かの心に火を灯しているのです。気づけば、取り返しのつかないほどに燃え広がっているやもしれませんな」
俺はベンチに腰を下ろした。視界がゆらいでいる。隣で鎌鼬が、苛立ったように『光』に火をつけていた。
「説明御苦労だったね、青行燈。次はその衣と一緒に燃えている“火種”を教えてくれるかい」
「わかりません」
「はあ?」
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