第三章 : 煙の向こうに
外に出た瞬間、ふと空の色に違和感を覚えた。
日が高いはずの時間帯だというのに、どこかくすんだような光。
ビルとビルの間を抜けてきた風は、どこか焦げた匂いを含んでいて、鼻の奥がじんとした。
「……空気、変わってきたな」
ぽつりと呟いたのは、波山だった。扉の向こう、純喫茶ナミヤマのカウンター越しに、彼はぼんやりと空を見上げている。
「どこぞで火事でもあったのかしら」
鎌鼬が俺の後ろで呟いた。
食後のタバコ――“光”だ。なるべく近くで吸うのはごめんいただきたい――を吹かす彼は、会計をしている百目を振り返る。
「早く来いよ、百目! いつまでそうしてんのさ」
「八百六十円……おお、私の八百六十円……」
百目はすっかり“頼りなくなった”財布を握りしめながら、やっとナミヤマから出てくる。
「給金日前だというのに……妖怪とて懐は厳しいものさ」
「それは君が金銭管理を怠ったからだろ? 飲みすぎだよ、百目」
鎌鼬が呆れたように肩を竦める。どうやら、百目には飲酒癖があるらしい。
「なんだとこの野郎! 大体、貴様の代金も私が肩代わりしたのだがね! なんだ、小判って! 鎌鼬、貴様は今の元号を知らんのか!?」
「はいはい。そんなの人間が悪いのさ。コロコロ金を変えやがって」
二人がギャーギャー騒ぐのを見ながら、俺はふと空を仰いだ。
やっぱり、なにかがおかしい。
さっきまで感じていた焦げ臭さは消えてしまったが、そのかわりに、空気全体が妙に重く湿り気を帯びていた。
――雨でも降るのだろうか。
その違和感を抱えたまま、俺は二人の後を追って事務所へと戻った。
事務所へ戻ると、百目はふいに俺の肩をがしりと掴んだ。
「……うわっ!? な、なんですか」
「坊や、ちょいと大人しくしなさい」
「百目の言うとおりにしておいたほうが身のためだよ」
いつの間にか背後に回った鎌鼬も、俺の腕を拘束するように掴んでいる。どうにも逃げられない。
「な、なんです!? 何をするつもりで――」
じゅるり。
百目が顔を近づけ、口元に大量の唾液を溜め始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 本当に何を……!」
反射的に逃げようとしたが、背後の鎌鼬が笑いながら俺をがっちり掴んで離さない。
「心配しなくても大丈夫。ちょっと“唾をつけて”おくだけだよ」
「いやいやいや! 意味わからないですって!普通に汚いですから!」
「百目の唾なら多少の魔除けになるからね。これからちょっと“危ないところ”に行くんだし、用心用心」
「いやだから――!」
抵抗虚しく、百目は容赦なく俺の額へ舌を這わせ、べたりと唾を塗りつける。その生暖かい感触に全身が総毛立った。
「うぇぇぇぇぇえっ……! 汚ねえっ!」
「よしよし。汚ねえとは心外な。我慢し給へ。これから全身に塗りたくるぞ」
「いやいやいや! 無理! 本っ当に無理!」
「じゃあ次は僕の唾も付けておくよ」
「ちょっと! 本当にやめてくださ――うわっ!?」
鎌鼬もまた遠慮なく、俺の頬にべたりと舌を這わせる。
「ははっ、これでどんな妖怪も寄り付かないよ」
「寄り付かないのは妖怪だけじゃないですって! まじで汚い!」
叫びながら手の甲で必死に頬を擦るが、二人は何が面白いのか腹を抱えて大笑いしている。
この時俺は初めて、自分が常識という名の境界線を完全に踏み越えてしまったことを実感したのだった。
「お……俺のペイズリーのシャツが……千五百円もしたのに……っ!」
二人の唾液でべっちょべちょになったオレンジのペイズリーを見下ろす。触るのかすかに滑りがあって、ぐ、と口角が下がる。
「そんなに嫌がるなよ、悲しくなるだろう?」
「嫌に決まってんだろ……っ! 大体、なんで頭から唾液ぶっかけられなきゃならんのですか!?」
そう。あの後俺は二人に頭から大量の唾液を一気にぶっかけられたのだ。それはもう、『だばっ』と。
いっそ清々しい程――どこにそんな大量の唾液が溜まっていたのか不思議なほど、ぶっかけられたのだ。
「何故って……そんなもの、純壱ちゃんを妖怪の魔の手から守るために決まっているだろう」
百目は然も当然と言い張る。
「そうだよ。昔から人間は妖怪に騙されないように眉に唾をつけてきたじゃないか。それと同じさ」
「眉だけでいいでしょうが! なんで頭から被らなきゃいけないんです!」
「眉だけじゃ足りないからだよ」
鎌鼬は涼しい顔で答えるが、まるで説得力がない。
「実際問題、眉毛にちょっと唾つけたくらいで、妖怪が騙すのを諦めるわけがなかろう? せめて全身に塗りたくれよ」
「それに、僕たちの唾だと、妖怪たちはこいつは百目と鎌鼬の唾つきだとわかるからね。そりゃもう強力な妖怪避けになるってわけさ」
なんて乱暴な理屈だ。確かに効果はあるのかもしれないが、人間社会に戻った時の俺の社会的ダメージを考えて欲しい。
俺は、どうにかしてこのぬるついた感触を拭おうと懐からハンカチを取り出し、頭から服まで必死に拭き取る。
「本当にもう、最悪ですよ……」
「はは、そう拗ねるな坊や。お前さんを守るためなんだ」
「そうさ、可愛いお孫ちゃんが怪我でもしたら、あの世で縁に会わせる顔がないからね」
百目と鎌鼬がニヤニヤと笑いながら肩を組み合う。
まったく、こいつらは何を考えているんだ。初めて出会った時の威厳はどこへやら。
そんな俺の気持ちを無視して、百目はひらりと羽織を肩に掛け、ふいに真剣な表情に戻った。
「――さて、そろそろ行こうか」
空気が急に重くなった。
「……どこへ?」
「もちろん、あの『青行燈』に会いにだ。あいつならきっと、何か知っているだろう」
百目が告げたその名前に、鎌鼬が珍しく嫌そうな顔をした。
「ああ、嫌だ嫌だ。よりによってあいつか。あいつは本当に、気味が悪い」
「お前がそんなに怖がるとは、珍しいな」
「怖いわけじゃない。ただ、僕は影を切れないんだよ」
鎌鼬はぼそりとそう言って『光』の煙を吐き出した。その声に冗談めいた響きはなく、本気で嫌がっているようだった。
俺はさっきよりも一層の不安を胸に抱きつつ、百目の後ろをついて外へ出た。
――空は、さっきよりさらに濃い灰色に染まっていた。
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