第二章 : 在ってはならぬもの
扉を開けた瞬間、カランと鳴る小さなベルが耳に心地よく響いた。
そこは、どこか時代に取り残されたような空間だった。
ステンドグラスの小窓から洩れる色ガラスの光。磨き上げられた木のカウンター。
レースのカーテン越しに、街の音がほのかに届く。
「邪魔するぞ、波山」
百目がそう言って草履をコンクリートの床に擦りながら店に入ると、カウンターの奥から低い声が返ってきた。
「……いらっしゃい。今日はまた、“マヨイガ”が騒いでいたけど……何かあったのかい?」
波山だって?
波山というのは、確か火を吹く鳥の妖怪だったはず。
この純喫茶ナミヤマのマスター……目の下に隈を作ったまま、コーヒーを丁寧に淹れている中年の男が、その波山だというのか。
「まあな。この坊やが、依頼人にマヨイガの領域へ連れてこられたようでね。それにしても、よくわかったな?」
「そりゃあね。“人間”達には見えなかったかもしれないが……外の様子がわからないくらい“霧”が漏れていたから」
百目はにやりと笑って、振り向きざま、俺の胸元を指でつついた。
「──で、坊や。その柄はなんだい?」
「え?」
「その服さ。目がチカチカして、たまったもんじゃない。“俺を見ろ”って主張が凄まじい。なんだい、蛾にでもなりたいのか? そもそも、襟はちゃんと閉じなさいよ、みっともない」
「ち、違いますよ! 普通に気に入ってるだけで……」
「あはは……百目、それは“ペイズリー”だよ。若者の間で流行している柄さ。襟も開襟シャツといって――まあ、つまりはそういう“お洒落”なんだよ」
波山さんは困ったように笑いながら、俺に「ごめんね」と一言謝って、綺麗に磨かれたテーブルにお冷やとおしぼりを置いてくれた。
なるほど。人は見た目で判断できないというが、それは妖怪にも当てはまるらしい。
対する百目は、勝手知ったるといった体でカウンターに置いてある灰皿を取ってくると、俺に断りも入れずに紙タバコを吹かしている。
「その“ぺい……”なんたらは知らん。私は横文字は好かんのでね」
百目が肩をすくめるようにして煙草をくゆらせた。紫煙が静かに揺れて、ナミヤマの空気に淡く溶けていく。
「さて──」
彼が話題を切り替えようとした、その矢先だった。
「あれぇ、やっぱり“縁”じゃないか」
ぞくり、と俺の背筋が凍る。
真横――否、真後ろから聞こえたその声は、無邪気な子供のような明るさを帯びているくせに、冬の寒空のように底冷えしていた。
柔らかく響くのに、なぜか胸の奥に氷の欠片を落とされたような感覚が残る。
「どうしたの、縁。僕を忘れちまったってのかい?薄情だなぁ――斬っていい?」
「やめろ、“鎌鼬”。残念ながら、“坊や”は縁じゃない。その“孫”の純壱だ」
百目が、のんびりお冷やを飲みながら言う。その言葉の直後、喉の奥に硬い塊がせり上がってきた。
そして――俺はようやく気づく。自分の首筋に、冷たい金属が当たっていることに。
「なんだ、残念。二重の意味でね」
するりと刃が遠ざかっていく。
視線を横に流すと、それは“バターナイフ”だった。銀色の、よく磨かれた、しかし鋭さなどないはずのカトラリー。
なのに、あの瞬間のそれは“本物の刃”にしか感じられなかった。
「坊ちゃん! 大丈夫だったかい? ……百目、なんで止めなかったんだ!」
「おいおい、言いがかりはやめてくれ給へよ。私はちゃんと止めたぜ?」
「鎌鼬! 二度と僕の店の備品を客に突きつけないでくれ!」
「はぁい」
いつの間にか、百目の隣に座る男がいた。
白い学ラン――否、軍服姿の童顔の男は、全身がまるで漂白されたように白尽くめだった。布地の質感すら、どこか現実から浮いているように見える。
髪は耳の上で切り揃えられ、前髪は整然と右に流れている。顔つきは年若く、ほがらかにすら見えるというのに、黒い瞳だけが異様だった。まるで濡れた石をはめ込んだような双眸は、光をまったく映さない。
笑っているのに、目が笑っていない。いや、そもそも“視ている”のかすら怪しい。
「紹介しよう。こいつは鎌鼬だ。聞いたことくらいあるだろう?」
「初めまして、お孫さん。僕は鎌鼬、好きなことは斬り捨てること。嫌いなものは気に食わない奴。よろしくね」
笑顔のまま、さらりととんでもないことを言うこの男を、なんと形容すればいいのか。
言葉のひとつひとつが無邪気で、なのに剃刀のように鋭い。まるで「悪意なき殺意」が人の形を取っているようだった。
なんて物騒な男なんだろう。
「はあ……いや、待ってくださいよ。百目さん、俺のこと知ってたんですか」
「まあね」
「なんで……」
「あれ、言ってなかったのかい? 縁は百目憑きだったんだよ」
「百目憑き?」
俺は困り果てて、カウンターから俺たちを見守る波山さんへ視線を送った。
波山さんは困ったように笑って、百目を指差すだけだ。
「簡単に言うとね、こいつは君の爺さんに取り憑いてたんだよ」
「え⁉︎」
「縁は百目の相棒だったもんねぇ……ね? 百目?」
「大正の頃の話だ。縁が嫁をもらってからは、契約解消したさ」
「ありゃ、そうなの?」
「それに、百目憑きといっても……私は“目を貸した”だけにすぎない。四六時中共にいた訳じゃないしな」
俺はふと、百目の反応を見て感じた。
――もしかして、祖父の話を避けている?
「あの――」
「――さて、話を元に戻そう。今の問題は、ひとまず“火鼠の衣”だ」
「……へえ?」
俺が口を開くより早く、百目が話を変える。鎌鼬が興味深そうに呟くのを聞くと、俺はもう祖父の話を出すことが出来なくなってしまった。
「もう一回聞くけど、“火鼠の衣”だって? 本当に?」
「そうだとも……いやはや、私もまさか、昭和になってまでこの名を聞くことになるとは思わなんださ」
「あー、と……その“火鼠の衣”が“本物”って話。それ、妖怪の間じゃ常識なんですか?」
俺は諦めて、二人の話に乗っかる事にする。
その通りだと、隣にいる波山さんが頷くのだろうなと思いながら聞けば、波山さんはぽかんとして、不思議そうにこう答えた。
「――いや、少なくとも俺は今、初めて聞いたよ」
「えっ」
思わず飛び上がりそうになった。
俺はてっきり、“火鼠の衣”が本物であるというのは、妖怪界では常識のようなものだと思い込んでいた。
それが、波山さんの口からあっさりと「知らない」と返されたことで、頭が追いつかなくなる。
波山さんは眉間に皺を寄せたまま、百目と鎌鼬に問いかける。
「“妖怪の”ではなく、“竹取物語のやつ”だろう? 本物なんて、聞いたことがないぞ」
「ははは! 冗談キツいや、波山。妖怪“火鼠”の衣が、竹取物語のそれと同じだなんてさ! あいつら、ただの“燃える毛皮”だろ? 最初から燃えてたら、“決して燃えない衣”になんてならないさ!」
鎌鼬の冗談めいた言い方に、頭がさらに混乱する。
落ちかけた思考を引き戻すように、俺は必死に整理を始めた。
一、火鼠の衣とは、いわゆる“妖怪・火鼠”の皮ではない。
二、妖怪たちの間でも、“本物”の火鼠の衣の存在は知られていない?
三、では何故、あのお嬢さんの家に、それがあるのか?
四、……いや、本当に“それ”は本物なのか?
「……駄目だ、訳がわからない!」
頭を抱える俺に、鎌鼬が軽く肩を叩きながら言う。
「俺にも詳しく教えてくれ、二人とも。俺は“新しい妖怪”だが、お前たちのような“古い妖怪”は、皆知っているのかい?」
「いや、限られたものしか知らんだろうな」
「まあ、知られて困ることではないけど、逆もまた然りってやつさ」
「……つまり、知っていても知らなくても、結果は同じってことですか?」
ぱん!と乾いた音が響く。鎌鼬が手を叩いたのだ。
彼は感情のわからない顔でにこにこと笑いながら、百目を横目に、まるで役者かのように大仰に語り始める。
「その通り。キミ、本当に縁の孫かい? 彼より賢いね。祖母の血が濃いのかな? 見た目はそっくりなのに。人間ってやつは不思議だね」
「まあ、そうだな」
百目はどこか居心地が悪そうに返すと、メニュー表を手に取る。そして俺の方へ差し出すと、こなれた様子で波山さんに注文をする。
「“三途の川”と“目玉”を」
「お、いいね。じゃあ僕は“血の池地獄”と“いちご”ね。ぱちぱちの方、氷菓は乳のやつで」
「――!?!?」
ばっ!とメニューを開く。なんて物騒で……しかし興味が湧く語順なんだろうか!
しかし、いくらメニューとにらめっこをしていても、三途の川だの目玉だのという名前は見当たらない。
くすくすと隣から笑う声がして、見てみれば波山さんが困ったように笑っていた。
「いや、ごめんね。百目達が注文したのは、妖怪限定の裏メニューなんだよ」
「裏メニュー?」
「人間も食べれないことはないし、味の保証はするけど……命の保証はしてあげられないから、君はそのメニュー表から選んでね」
「……じゃあ、焼き飯で」
かあっと顔が熱くなる。なんだ、そうか……しかしだんだんと涼しくもなってくる。命の保証はしない?
……それは一体、どんな味なのだろうか。
――焼き飯はすぐにやってきた。
鉄の丸皿に盛られたそれは、焦げ目のついた米に卵が絡まり、ところどころに赤いナルトと角切りチャーシューが顔を覗かせている。
見た目は素朴そのものだが、湯気とともに立ち昇る香りが腹の虫を刺激した。
スプーンを手に取り、ひと口すくう。炒めたネギの香ばしさと、油のコク。ぱらつきすぎない、しっとりとした食感。
懐かしいようで、食べたことのない味だった。
――思わず、頬が緩む。
前を見ると、鎌鼬の前には鉄板の上でジュウジュウ音を立てるナポリタン。
しかも、赤く光る液体──タバスコをこれでもかというほどかけまくっている。もはやソースの色より辛そうだ。
「ふふふ……喉が焼ける……これぞ、正義の味さ……っ!」
彼は白い顔を赤く染めながら、恍惚とも言える笑みを浮かべて、フォークをくるくる回しながら言うが、俺の隣で波山さんが完全にドン引きしていた。
「……だからそれ、ナポリタンって言うんだよ? なんでそう……かけるかなぁ……こっちが目にしみるんだってば」
「これが! 正義!」
対する百目はというと、艶消しの黒いグラスを片手に、ゆっくりと液体を口に含んでいた。透き通るような琥珀色のそれは、梅のリキュールらしい。
「……今日の“三途の川”、いつにも増して沁みるな。いい梅を使ったな?」
「いい仕入れ先が見つかってね。三途の川のリキュールは、普通はアプリコットなんだけど……梅は百目だけかな。“百目の川”って改名してもいいかい?」
波山さんが溜め息まじりに返すと、百目はくすりと笑った。
「やめておき給へよ。縁起でもない」
そんな会話の横で、俺は焼き飯をもう一口運んだ。味は変わらないのに、どこか違って感じるのは、たぶん隣の席が賑やかすぎるせいだ。
――けれど、悪くない。
もう一口、焼き飯を口に運ぶ。温かさと旨味が、今だけは世界の輪郭を柔らかくしてくれている気がした。
けれど、ふと、さっきの会話が胸の奥に引っかかる。
火鼠の衣は、本当に“存在してはならないもの”なのか。
それとも、ただ“知られていないだけのもの”なのか。
わからない。けれど、訊かなければ。
「……あの、“火鼠の衣”って、本当に“物語の中だけのもの”じゃないんですか?」
俺の声に、ナミヤマの空気がぴたりと静まった。
百目がゆっくりとグラスを置く。鎌鼬も、くるくると回していたフォークを止めた。
いつの間にか、波山さんまでが真面目な顔で、こちらを見ている。
「ずっと考えてたんです。竹取物語の“火鼠の衣”と、妖怪の“火鼠”が別物なら……じゃあ、俺たちが追ってるのは一体、何なんですか?」
言葉にしながら、自分でも混乱しているのがわかる。
だけど、誰かに教えてもらわなければ、きっとこの先には進めない。
百目が紫煙を吐きながら、ひとつ、低く笑った。
「……そうだな、“それ”は確かに、物語と同じ名を持ちながら──あのどれとも違う、何かだ」
その声に、焼き飯の温もりが、急に遠くなった気がした。
「まず、皆が知っているように“竹取物語”とは、竹から生まれた姫が、自身に求婚してくる男を振るために無理難題を押し付けるって話なんだが――」
百目は言葉の合間に紫煙をくゆらせる。教室で語る講師のような口調なのに、どこか他人事のような響きだった。
「その中のひとつが、“火鼠の衣”。唐土に住む火鼠という獣の毛皮で仕立てられた、決して燃えない衣だ」
鎌鼬がくるくるとフォークを回しながら補足するように言う。
「でも、それは燃えたんだよね。だから“偽物”だって笑われた」
「……表向きはな」
百目の目が細くなる。
「だが、もしも──“あれ”が本物だったとしたら?」
全員の動きが止まった。
波山も手を止め、スプーンの音が途切れる。
「求めた男は、本当に“燃えない衣”を手に入れて戻ったのさ。だが、燃えた。その事実だけが残った。……“燃えてしまった”という、結果だけがな」
「……じゃあ、それって──」
俺の声に、百目が静かに答える。
「誰もその衣が“本物”とは、言っていない。“偽物だった”と決めつけられただけさ。……月の姫が、“そう”言ったからな」
「そう、誰も“嘘”はついてないんだよ。それが今回の“厄介”なところさ」
――つまり、どういうことだ?
かぐや姫から“火鼠の衣”を求められた男は、本物の“燃えない衣”を手に入れて戻ってきた。
けれど、“燃えてしまった”。かぐや姫は“偽物だった”と――
「あっ」
俺は思わず、焼き飯を掬っていたスプーンを落とす。百目と鎌鼬の“遠回しな”言動の意図に、やっと気が付いたのだ。
「火鼠の衣は――“二つあった”のか!」
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