第一章 : 目覚めの声
喉が、焼けつくように乾いていた。
目蓋の裏が妙に明るい。けれど、それを開けるには、あまりにも身体が重すぎた。
腕を動かそうとしてみる。指の先すら言うことをきかない。
ぬるりとした汗が、額から頬へと伝い、服の襟を濡らす。
ここはどこだ。寝ていていい場所か?それとも──
目を開けた。
天井が、見えた。
否、天井に、見られている――?
古びた木目と、見ていると飲み込まれそうな墨色の梁。
風が通る音がしない。けれど、室内は妙に涼しくて、けれど暖かい。
不思議な感覚だ。暑くもなく、寒くもない。“俺に適した温度”がこの場所には流れていた。
あちこちに薬草の香りが漂っていて、それが鼻腔の奥を優しくくすぐる。
──病院ではない。
何故かそう確信してから、ようやく俺は自分がどこか知らない場所にいることを認めた。
起き上がろうとする。が、腰が軋んだ。まるで、力の入れ方を忘れてしまったかのようだった。
畳の上に敷かれた分厚い布団は、妙に上等だ。柔らかくて、背中を離すのが惜しいほど。
誰が用意したものだろう。俺がこれまでに触れたことのない匂いが、枕にまで染みている。
とん、と障子の向こうで何かが跳ねる音がした。
小さな足音。いや、足音というにはあまりにも軽い。
耳を澄ませば、ほんのわずかに人の声が混じる。女の子のような、小さく転がる声と、それに応える落ち着いた男の声。どちらも、ぼやけて聞こえた。
「──たいせつな、だいじなものなのです」
「……失せ物、ですか」
失せ物。誰かが何かを失くして、それを探している?
訳がわからないまま、俺はようやく身を起こした。
着ている服は、確かに今朝家を飛び出した時のものと同じだった。だが、襟も袖口も誰かの手で整えられている。
指先に残る感触が、妙にやさしい。まるで、幼い頃に母に着替えを手伝ってもらった時のような安心感が、それにはあった。
……誰が?
記憶を辿ろうとする……が、脳に靄がかかったように思い出せない。
強いて言うなら、祖父の顔。祖父の声。──そうだ、祖父が、俺に何かを言い残して……。
「……百目探偵事務所……」
ぽつりと口をついて出たその言葉に、自分で驚いた。まるで、誰かに教えられたように自然に。
部屋の外は、静かだった。会話は途切れ、また違う音が聞こえてくる。
湯を注ぐ音。木の戸が軋む音。そして──
「……火鼠の衣、というのです」
ドアノブにかけた指が、止まる。
ピクリと、心臓が跳ねた。
その名は、流石に俺でも知っている。
昔話のなかでしか語られない、存在しないはずのもの。
月に帰る姫が“燃えない”衣として語り、燃えてしまった『偽物』の、あの──
「……それは……本当に……?」
返事は聞き取れなかった。
けれど、落ち着きながらも、酷く動揺しているような声だった。そのあとに続いたのは、ひどく静かな沈黙。
俺は立ち上がった。足はまだ少しふらついたが、歩けないほどではない。
扉を開けて廊下に出る。足元に触れる床板が、微かに冷たい。
風がないのに、どこかから香が流れてきて、髪を撫でるようにすり抜けていく。
──何かが、おかしい。
それは明確な違和感ではなく、世界のピントが少しだけずれたような感覚だった。照明の色も、廊下の長さも、音の反響も、どれもほんの少しだけ“現実”とずれている。
けれど、まるで夢の続きのように、俺の足は自然に進んでいた。
そして──
「……まったく、やれやれ。困ったもんです。まさか、その名を聞く日がまた来るとは、思いもよらなんだ」
ふと、男の声が漏れ聞こえた。涼やかで、どこか他人事のような調子。
けれど、その声の奥には、確かに、張り詰めたものが宿っていた。
「――ちょいと失敬、お嬢さん。どうやら、“もう一人のお客人”が、目覚めたようで」
「あらっ!」
俺がもう一つの扉を開ける前に、それは開かれた。
目に飛び込んできた光景に、俺は思わず呼吸を忘れる。
「おう、ちゃんと“思い出した”みたいだな。足がある。
君、腰から下は全て消えていたんだぜ?感謝した給へよ? そこのお嬢さんとウチの従業員たちが見つけていなかったら、今頃どうなっていたことやら」
透き通るような白い髪。金の眼鏡に縁取られた、切長の血のような赤目。身の丈は六尺を超えるだろう。
普通に生きているだけじゃ、まずお目にかかれないような美丈夫の大男が、そこに立って俺を見下ろしていた。
「あ、あの……俺は――」
「まあまあ! あなた! ちゃんとお目覚めになられたのね? よかったわ。わたくし、てっきりもう頭の先まで“スッキリ”してしまったのかと!」
――誰か、いる?
声は、先程までこの男と話していた、嫋やかな女の声だった。だが、姿は見えない。近くにいる気配はあるのだが――
「その声、どこから……?」
俺が問うた瞬間、男は肩にそっと手を添えた。
その仕草はまるで、羽虫でも扱うかのように慎重で、優雅だ。
次の瞬間、彼の手のひらに、すとん、と影が降り立つ。
「こちらが、お前さんの命の恩人──窮鼠のお嬢さんだ」
男がそのまま、手を差し出す。掌の上には、手のひらほどの小さな尼僧姿の鼠が、ちょこんと正座していた。
……ちいさっ⁉︎
思わず叫びそうになる声を呑み込んで、俺は目を瞬かせた。
それは、違うことなく鼠だった。ぴこぴこ動く丸い耳。紅を引いたような頬。艶やかな黒い毛並みと、品のある佇まいが、なんとも不思議で可愛らしい。
「あなた、尻尾の先まで“うっすら”していましたのよ?わたくし、もう心配で心配で! 嗚呼――百目様? どうしましょ、この方、尻尾が御座いませんわ!」
「はっはっは! 落ち着きなさい、お嬢さん。こいつにゃ、元々尻尾は御座ぇません。人間ですからね」
「まあまあ! そうでした、そうでした! 人間ですもの、尻尾なんて御座いませんわね! あらやだ、わたくしったら!」
お嬢さんは、ぱたぱたと前足を合わせながら、心底ほっとしたような笑みを見せた。
その横で、白髪の大男が、面白そうに目を細める。
「さて……随分と百面相をしているようだが、坊や。見たところまだ頭の端が白く霞んでいるのではないかね。大丈夫かい?」
そう言って、彼は懐から煙草を取り出した――敷島だ。手馴れた動きで火をつけると、紫煙が一筋、静かに天井へ登っていった。
「私は“百目百之助”。この探偵事務所の所長にして、店子、賄い、用心棒、そして雑用係──まあ、色々と請け負っているのさ」
さらりと名乗ったくせに、口調はのんびりしている。どこか芝居がかった仕草で一礼する彼を見て、俺は言葉を失ったままだった。
「……所長?いや、どう見ても……人じゃないでしょ、あなた」
「人間だなんて一言も言っていないぜ、坊や。一本どうかね? 気分が晴れるぜ」
「いえ、結構。俺はまだ十九なんで」
百目は「そうかい」とにやりと笑って、くゆらせた煙を細く吐き出す。酷く強い匂いだ。
いつの間にか鉄鼠のお嬢さんは彼の手から足の甲へ移っている。
小さい体は煙の影響を受けにくくて羨ましい。
「“人でなし”が探偵をしていては、そんなに不都合かい?」
「いや……別に……」
不都合かどうかなんて、そんなの答えようがない。
ただ、現実感が追いついていないだけだった。会話が成立しているのに、この世界はあまりに非現実的だ。
「ふふっ。びっくりしてらっしゃるのねえ」
お嬢さんがちょこんと頭を下げる。くりくりとした目がこちらを見上げていた。
「けれど、お目覚めになられてよかった。──さて、百目様。わたくしのお話、続けてよろしいかしら?」
「嗚呼、勿論だとも、お嬢さん。さっきの話の続きですね。その前に立ち話も何だ、少し座ろうか。それに、いつまでもうら若き乙女を剥き出しの足の上に乗せているほど、私は若くないからな」
軽く頷く百目は、いつのまにかソファに座り、お嬢さんはテーブルの上にちょこんと座っていた。
――家具が、“移動”してきた?
お嬢さんは小さく咳払いをした。その仕草が、驚くほど人間らしくて、なんだか妙に胸がざわつく。
──どうやら、本格的に“話”が始まるらしい。
ようやく俺は、自分が椅子にも床にも座っていないことに気づき、ふらりと一歩下がって、そっと正座を崩すようにして座った。
「では、まずは確認から始めましょうか――お嬢さん。貴女の失せ物は、本当にあの“火鼠の衣”で間違いないのですね?」
「ええ、ええ! そうですとも。あの“火鼠の衣”で間違い御座いません!」
ぱたぱたと前足を合わせて、窮鼠のお嬢さんは力強く頷く。鼻先を少し上げて、どこか誇らしげにすら見えた。
「ふっ!」
思わず、堪えきれなかった空気が口から漏れる。
二人の視線が、俺に向くのを感じて、慌てて咳払いをして取り繕う。
「あっ、すんません。えっと――つい、可笑しかったものですから」
「ほう? 何が可笑しいんだい?」
「だって、“火鼠の衣”でしょ? 竹取物語の」
「ええ、ええ! そうですわ。その衣です」
「なら話は簡単だ! そんなもの“初めからなかった”で話は付きますよ!」
純壱の言葉に、お嬢さんはぽかんと口を開けたまま、ぱちぱちと瞬きをする。
「まあまあ、そんな……!」
前足で頬を押さえて震えるお嬢さんをよそに、百目が小さく笑った。
「……たしかに、坊やの言うとおりだ。“火鼠の衣”なんてものは、物語の中の作り話でしかない」
「ですよね! だって燃えない布なんて──」
「だがね、坊や」
声色が、ほんの僅かに低くなる。
「お前さんら人間が“物語だ”と笑って捨てたものの中に、我々の世界の“現実”が紛れていることもあるんだ」
煙草の先が赤く灯り、紫煙がゆっくりと揺れる。
「“火鼠の衣”は、確かに存在した。いや……」
百目の視線が、お嬢さんの小さな姿を一瞥する。
「……存在“してしまった”んだ。忌むべきことにね」
静かな声が落ちた瞬間、事務所の空気がきしりと軋むように感じた。
「ま、待ってください。それって、本物だったってことですか?」
思わず立ち上がる俺に、百目は眉をひとつ上げた。
「その判断を下すのは、我々の仕事さ。……調べる価値は、ある」
百目は大きな体を折りたたんでお嬢さんの丸い耳へ何かを耳打ちすると、ゆっくりと立ち上がる。
そして衣紋掛けに掛けてあった薄鼠色の羽織を手に取ると、俺を見た。
「お前さんも来なさい、坊や。我々の世界を見せてやろう――お前さんの“依頼”も、まだ聞いていなかったしな」