第九百九十七話 熱(二)
イリアは、確かに見ていた。
幸多が虚空に差し出した右手のひらが青白い燐光を発した瞬間を、ではない。
情報子と呼称される光が、なにかを包み込み、象っていく光景をだ。
それは、手だった。
幸多の右手に重ねられた、存在しないはずの人間の左手。指先から手のひら、手の甲、手首と徐々に形作られていくそれは、しかし、決して実体を持たないものではあった。だが、確かに存在する。存在を認識させていく。
「幻想体を……作ってる?」
イリアは、幸多を見た。幸多の褐色の瞳の奥で、青白い炎が渦巻いているようだった。それが情報子の煌めきなのだろうが、だとしても、幸多がなにかとんでもないことをしているのは語るまでもないことだ。
幸多は、情報子を制御することによって、幻想体を構築せしめたのだ。
イリアもよく知る少年の姿をした幻想体が完成するまで、大した時間はかからなかった。ほんの数十秒。幸多の想像力で生み出されたにしては、早すぎる。そして、幸多が十代後半の神木神威を想像し、その幻想体を創造する理由がなかった。
たとえ、この生命維持装置に浮かぶ脳が、神木神威の複製体だという事実を知っているのだとしても、だ。
「幻想体なら、だれの目にも見えるでしょ?」
幸多は、彼の手を握り締め、周囲を振り返った。
呆気に取られたような真白や黒乃、義一の顔を見て、イリアの歓喜に満ちた表情に度肝を抜かれる。イリアは、幻想体の少年よりも、幸多を見ていた。真っ直ぐな視線は、強烈な熱を帯びていて、幸多が思わず仰け反りかけるほどだったが、そうはならなかった。
彼が、反応したからだ。
『見える? ぼくが?』
「うん。見えるよ。ねえ?」
幸多が問えば、真白たちは、度肝を抜かれている場合ではなくなった。
「あ、ああ……見える、見えるけど、なんだって総長の若い頃の姿なんだ?」
「複製体だからじゃ?」
「なるほど?」
「ぼくも、麒麟様の若い頃にそっくりだそうだよ」
性別の差違こそあれど、と、付け足しながら、義一はいった。言外に、美零の場合は、麒麟そのものに等しいといっているのだが、どうでもいいことではあった。
義一は、幸多のすぐ隣に出現した少年を凝視する。いまのいままで存在しなかったはずの魔素質量が、突如として出現したのだ。
まるで魔法のように。
それを為したのは、幸多だ。
魔法を使えない完全無能者が、魔法使いにすら起こすことのできない奇跡を起こしてしまったのだから、驚嘆するしかない。
「……彼は、ずっと、そこにいたの?」
「はい。イリアさんが現れたときからここに」
『声は、聞こえるのかな?』
イリアは、恐る恐るといった様子の少年の声が、やはり、十代半ばの神木神威そのものだということに気づいたが、そのことには言及しなかった。
「聞こえるわよ。幻想体だもの」
その幻想体は、幸多が情報子によって構築した特別製だ。
幻想空間上、あるいは特別な設備がなければ存在できないのが幻想体なのだが、このなんの変哲もない現実世界に存在し続けることができるという時点で、極めて特別な存在であることは明らかだ。
幸多の能力が、それを為した。
情報子を制御する異能。
権能というべきか。
彼だけに許された力なのだ。
そして、それならば、存在しないはずのなにかを幻想体として具現することも不可能ではないかもしれない。
『そうか、これが幻想体……』
彼は、不思議な感覚の中にあった。幸多の手を握り締めているという感覚も、いままで感じたこともないものだった。
彼にいままであったのは、視覚と聴覚だけだった。目で見て、耳で聞くだけが全てだったのだ。言葉を発したつもりでも、相手に届いていなければ、なにも喋っていないのと同じだ。自分の脳内に響くそれが本当の声だと確信することは、不可能に近かった。
そこに幸多が現れた。
幸多は、彼の声を聞き、彼の存在を認識してくれた。
それによって、彼の世界は大きく変わった。
これまで色褪せていた世界に光が灯った――そんな感覚だった。
そして、いまは、どうか。
指先から伝わるのは、幸多の体温であり、命の脈動だ。
熱。
五感が、震えるようだった。全身に血が通っているような錯覚さえ抱く。幻想体。現実には存在しない、幻想の存在。そこに体温などあろうはずもなければ、神経が通っているはずもないのだが、しかし、そのような錯覚を抱くほどに、なにもかもが強烈で新鮮だったのだ。
怒濤のような情報量が、彼の意識を席巻し、脳を埋め尽くす。
『でも……どうして?』
どうして、幸多にこんなことができるのだろう。
彼の疑問は、尽きることがない。
幸多は、微笑した。
「ぼくは現状、幻想空間上での訓練もまともにできなくて、どうにかして幻想体を作れないものかと試行錯誤をしていたんだよね。本当に色々試して、それでようやく幻想空間上に幻想体を作ることはできた。まあ、それはそれで失敗に近いものだったんだけど」
新野辺九乃一とのせっかくの訓練が台無しになってしまったことを思い出して、苦笑する。
幻想空間に実体で突入してしまうという現象をどうにかしなければ、全力の訓練などできるわけがない。
真っ当な指摘だったが、だからこそ、幸多は思い悩んでいた。
情報子を制御すれば幻想体を構築できることは、わかっていた。
幻想体を構築した撹乱戦術は、幻想空間上ならば猛威を振るうだろうが、現実世界ならば、どうか。試したが、大した意味はなかった。なぜならば、情報子を制御して構築した幻想体に魔素はなく、幻魔の目には映らないということがわかったからだ。
情報子と魔素は密接な関係があるものの、それは魔素の根幹に情報子があるからだ。情報子だけでは、どれだけ超高密度に圧縮しても、魔素にはなり得ない。故に、幻魔にはなんの意味もないのだ。
そう、情報子の塊を幻魔に叩きつけても、効果がなかった。
アザゼルやマモンには痛撃を叩き込んだというのに、だ。
そのことから、情報子を利用した戦術の考案は、諦めることとなった。
とはいえ、使い道はあるはずだ。
そう考えていた矢先、幸多は、彼と出逢った。
神木神威複製体百二十三号。
存在しないはずの、けれども確かに存在する彼は、一体何者なのか。
真眼ですら視ることのできない彼は、魔素を持たない幽霊だ。だが、幸多には視え、その声も聞こえていた。それはつまり、どういうことなのか。
彼を構成する情報を認識したということなのではないか。
であれば、その情報に干渉することができるのではないか。そして、それによって、仮初にも幻想体を与えることが出来るのではないか。
幸多の想像は、実現した。
実際に彼は、幻想体としてこの世界に現出したのだ。
「情報子を制御するこの力なら、なにかできるかもしれない。そう思ったら、体が動いてた。意識がさ。で、この結果なんだ。それがきみにとって喜ばしいことかはわからないけれど……でも」
『なにをいってるんだ?』
彼は、幸多の複雑そうな表情が不思議でならなかった。彼の意識は、これまでにない情報の洪水に飲まれ、とてつもない興奮と昂揚感に包まれている。全身が騒いでいた。いまにもこの場から駆け出したい、飛び出したいという欲求すら沸き上がってくるほどだった。
喜びがある。
それは、限りない熱となって、彼の全身を灼いていて、いまにも燃え上がりそうだった。
ああ、と、彼は理解した。
『ぼくは、いま、ようやく誕生したんだ!』
彼は大声で叫び、幸多の両手を握り締めてその場で飛び跳ねた。そうした幻想体の動作一つ一つが彼にとっては新鮮そのものだったが、不思議と体に馴染んでいた。
まるで脳が体を動かすことを知り尽くしているかのような、そんな感覚。
実際、その通りなのだろう。
神木神威の体細胞から生まれた複製体なのだ。神木神威の戦いの記憶が、染みついている。
「誕生……」
「そうか。そうだね。きっと、そうなんだ」
義一は、他人事ながら、まるで自分のことように彼の歓喜を感じ取っていた。
美零が、義一の体を使って、二度目の産声を上げたときのことを思い出すのだ。そのときようやく、彼女は本当の意味で生を実感したのだ、という。
伊佐那麒麟複製体として期待されながら、しかし、生き抜くことのできなかった彼女は、いま、義一の体を共有するようにして生きている。
美零もまた、幻想体の少年が歓喜に打ち震える様を目の当たりにして、魂を震わせていた。
同じだ。
自分たちと同じ――いや、もっと過酷な境遇の少年がいたのだ。
彼への同情心は、きっと、ほかのだれよりも強い。
だから、素直に拍手するのだ。
彼の誕生を。
彼の産声を。
彼の、新たな人生の始まりを。




