第九百九十六話 熱(一)
『日岡博士……』
幻影の少年は、なにか思うところがあるような反応を見せたが、当然、その姿はイリアにも見えていなかった。故に、イリアは、険しい表情を幸多たちに向けるのだ。
「ここは、戦団が管理する研究施設よ。掲げられた看板を見ればわかると思うし、だからこそ侵入したんだろうけれど、でも、なぜ、どうして、あなたたちがここに潜入し、ここまで入り込めたのかしら?」
イリアにとって尽きない疑問を口早に問えば、真白たちは顔を見合わせ、幸多に視線を向ける。そして幸多は、虚空を見た。幸多の視線の先には、透明な存在を名乗る幻影の少年が、困り顔を浮かべている。
幸多たちのこの場所への侵入がイリアにとって予期せぬ出来事だったように、イリアのこの場所への出現が彼にも予期せぬ出来事だったようだ。
しかし、幸多たちにしてみれば、予想して然るべき事態ではあった。
イリアは、技術局第四開発室長というだけでなく、次期局長と目される人物だ。それだけの実力と多大な功績があるというだけでなく、魔法士としての技量も並外れたものがある。
たとえば突如としてこの場に現れたのだって、彼女が得意とする空間転移魔法をもってすれば容易いことだ。
空間から空間を結び、一瞬にして移動する空間転移魔法は、超高等魔法とも呼ばれる。空間転移魔法の使い手というだけで引く手数多であり、どのような職業であれ重用されること請け合いだった。
もちろん、戦団における空間転移魔法の使い手の重要性は極めて高い。転送士、転移士とも呼ばれる彼らは、最低でも輝光級三位以上に位置づけられ、戦団内でも特別な立ち位置を確保しているほどだ。
そんな転移士の中でも特に優れた空間手に魔法の使い手が、イリアなのだ。
イリアの空間転移魔法は、戦術に組み込まれるほどのものである。
だれにも気づかれることなく、幸多たちの背後を取ることくらい、お手の物なのだ。
「警備は厳重で、魔法で無力化できる類のものじゃない。警備員も多数手配されているはずだし、研究員だってまだまだ働いている時間帯よ。だれかの手引きもなく、この区画まで到達するなんて不可能に等しいわ」
イリアには、まるで理解ができない事態だった。
生命真理研究所各所に設置された監視カメラや警報装置の類が機能しているにも関わらず、幸多たちを認識することなく、侵入を許している。普通、あり得ることではない。
警備員たちは、なにをしていたのか。
いや、と、イリアは胸中、首を振る。
生命真理研究所全体に漂う空気感を思えば、そうなるのも当然の結果なのかもしれない。
残念ながら、人間とはそういう生き物だ。
研究員たちは、施設の生き残りを懸けて、新たな研究に一縷の希望を抱いているようだが、それ以外の職員や警備員たちは、閉鎖が決まったも同然の状況に対し、失意すら抱いているのではないか。
やる気もなく、ただ、惰性に生きている。
結果、カメラの角度が少しずれているという事実にも気づかなかった。あるいは、気づいていても、別段問題ないと判断したのではないか。
だとすれば、この施設を閉鎖する結果になるのは、当然というべきなのだが。
それは、それである。
「……どうやって、侵入したのか。全部説明してくれるかしら。事と次第によっては、護法院の査問を受けることになるし、降格処分を受ける可能性も高いわよ」
「こ、降格ぅっ!?」
「そんな……」
「当たり前でしょう。ここは戦団が所有する施設で、あなたたちは不法に侵入したのよ。水穂市の防衛を任されたあなたたち第七軍団は、当然、市内各所にある戦団関連施設を護るのも大事な役目。でも、ここは防衛対象じゃないでしょう? そして、真星小隊の今日の任務は、巡回任務で、それも終わったはず。たとえ巡回任務中に戦団の紋章を掲げた施設を見つけたからといって、侵入する必要もなければ、許されることではないわ」
理路整然としたイリアの言葉は、真白たちに反論の糸口すら掴ませなかった。当たり前だ。真白たちがこの研究所に侵入したのは事実であり、発覚すれば大問題に発展することくらい、わかりきっていたのだ。
そして、いままさにその瞬間が訪れている。
真白は、幸多を見た。
幸多はといえば、培養槽に視線を移していた。液体が満たされた生命維持装置の真ん中に浮かぶ、人間の脳。
「彼は、生きています」
「……知っているわよ。生命反応は常に確認しているもの。で、それがどうかしたの? 幸多くん。いくらわたしの大切なひとでも、許されないことはあるわ」
「神木神威複製体百二十三号」
幸多の要領を得ない返答に、イリアは、大きく息を吐いた。危うく幸多に失望するところだったが、しかし、彼がそれを知っているということは、だ。
「……やっぱり、あなたたちを手引きした奴がいるのね。それはいったいだれなの?」
「イリアさんにも、見えませんか」
「なに?」
幸多は、イリアを振り返り、横目に少年を見た。幻影の彼は、幸多の態度に困惑を隠せないといった反応を見せているが、関係がなかった。
イリアは、この事実を知っていたのだ。
彼の存在を知りながら、なにもしていないという事実が、幸多にはなんだか無性に哀しくて、腹立たしかった。
彼は、生きている。
全力で藻掻き、喘いでいる。
声を上げているのだ。
その声を拾い上げることができるのが、なぜ、幸多だけなのか。
幸多は、少年を見て、その淡く輝く体に手を伸ばした。
「ここにいるのに」
「きみは……なにをいっているの?」
イリアには、幸多の言動がまるで理解できなかった。幸多は、虚空を見ている。その先にはなにもなかった。だれもいないし、なにもない。まさに虚空だ。イリアが義一に目線で解説を求めるが、義一も頭を振るだけだ。
義一の真眼にも視えないなにかが、幸多には見えているとでもいうのだろうか。
そして、その幸多にしか見えないなにものかが、幸多たちをここに導いたというのか――そこまで考えれば、それが結論とならざるをえない。
幸多は、正直な人間だ。嘘をつくのが極めて下手で、隠し事をすることができない類の人間なのだ。彼がもし、だれかの手引きでここまで潜り込んできたというのであれば、そのような反応を見せるはずがなかった。
もっと動揺し、混乱さえしたのではないか。
手引きしたものを護るため、隠すため。
だが、いまの幸多は、むしろ堂々としていた。堂々と、見えないなにかに触れるような素振りを見せている。
「彼は、ずっと存在していた。誕生してからずっと、孤独だったんだ。ぼくに発見されるまで、ぼくが認識するまで、ずっと。ずっと」
それがどれほど苦しく、辛いものだったのか、幸多には想像もつかない。
幸多は、孤独とは無縁の人生を送ってきた。完全無能者ということで差別を受けることこそ多々あったものの、魔法が使えないことを気にしない友人には、恵まれていた。
子供の頃から、ずっとだ。
そしていまは、師匠がいて、上司がいて、同期がいて、部下がいて、友人たちがいる。
統魔も。
孤独を感じるということがなかった。
だから、幸多には彼の気持ちをわかってあげることができない。
幸多が彼のためにできることがあるとすれば、なにか。
幸多は、彼に手を差し出した。彼がきょとんとするので、目で手を追う。彼が恐る恐る、幸多の手に触れるようにした。決して接触することのない、存在しないはずの手。
だが。
幸多は、自分の手のひらの上に少年の手が重なっていることを認めると、意識を集中させた。全神経を研ぎ澄ませれば、熱を感じた。全身の熱が脈打つようにして腕を伝い、手のひらに収束していく。すると、手のひらから青白い燐光が立ち上った。
『それは……』
「情報子」
幸多は、静かに告げて、情報子の光で少年の手を包み込んだ。すると、幸多の手のひらがなにかを感じ取った。指先で触れ、掴む。
『えっ……?』
少年は、混乱した。
いままでにない感覚が、少年の意識を席巻したからだ。指先や手のひらから腕を伝い、やがて脳神経へと至ったのは、触覚だ。なにかに触れているという感覚は、急激に脳を活性化させ、彼の意識を拡大していくかのようだった。
熱を、感じた。