第九百九十五話 透明な存在(七)
「神木神威複製体百二十三号……」
『その失敗作、といっていいよ』
(いわないよ)
幸多は、胸中で彼に言い返しつつ、部下たちが培養槽の中の脳に視線を集中させる様を見ていた。
皆が、神木神威複製計画の存在を知り、また、その成果物である少年の脳を目の当たりにして、衝撃を受けている。
義一ですら、だ。
「……可能性としては、考えられないことじゃなかったんだ。なんといっても、総長閣下は、戦団最強戦力だからね。仮にぼくのように複製できるというのなら、するべきだ」
「倫理や道徳を無視するなら、な」
「まあ、そうだね。でも、人類復興という大義名分の前には、どんな綺麗事も霞むものだよ」
「それは……そうだろうけどな」
「ぼくたち戦団が為すべきは、人類の復興とそのための幻魔の殲滅だ。そのためならばどんな手段だって用いるべきだ。たとえそれが後世の人々にとって汚点とされるようなことであっても、いままさに人類は存亡の危機に瀕しているのだから」
義一の言葉に熱が籠もるのは、実感があるからだ。
自分が倫理や道徳を踏み越えた先に誕生した存在であるという認識がある。故に、同じ理屈で生み出されたものへの同情を禁じ得なかったし、なんとかしてやりたいという気持ちばかりが膨れ上がっていく。
神木神威複製計画。
そんなものが現実に存在し、秘密裏に実行されていたことには、衝撃を受けこそすれ、理解できる範疇ではある。
央都の礎を築き上げた伊佐那麒麟すら研究対象とし、生命倫理など知ったことかといわんばかりに実験を繰り返してきたのが戦団なのだ。
死をも冒涜し、踏み越えた先に産声を上げたのが、義一だった。
産声を上げることすらできず、脳だけの存在となってしまったらしい百二十三号の存在を知れば、いても立ってもいられなくなる。
だからといって、いったい義一になにができるというのか。彼は、拳を握りしめる。
そんな義一の葛藤はつゆ知らず、黒乃が幸多に質問する。
「脳だけでも、本当に生きているんだよね……?」
「うん。この生命維持装置が、彼を生かしているんだって。だから、ぼくとこうして話し合うことができて、ぼくたちをここに招き入れた」
彼の存在は、幸多以外のだれにも認識できていない。そのため、幸多の言動が一人芝居と受け取られてもおかしくはなかった。だが、幸多がそんな馬鹿げた真似をするような人間だとは、この場にいるだれも思っていないし、幸多を信じない理由がなかった。
真眼にしか見えないものがあるのだから、幸多にしか見えないものがあったとしても、なんら不思議ではない。
幸多は、特異点だ。
情報子なる不思議を制御し得る唯一人の人間。
そんな幸多だからこそ、透明な存在となった彼を認識できたのではないか。
『……そうだね。ぼくは、生きている。生きているんだ』
感極まったような少年の声が、幸多の耳朶に染み入るようだった。
培養槽の中からこちらに向かって歩いてくる少年の姿は、記録映像に見る神木神威の少年時代にそっくりだ。
神木神威の少年時代。
ネノクニにおいて、異界環境適応処置の実験動物の如く扱われていた時代。それは同時に、神木神威がヴァルハラ・ゲームの主役の一人だった頃でもある。ネノクニでも有数の魔法士にして、有名だった彼の若い頃の記録映像は、現在もネット上に溢れ返っていて、だから幸多もよく知っているのだ。
そのような莫大な情報の中で、当時のネノクニ統治機構の悪辣さを喧伝するのは、戦団の正当性を主張する方法の一つであった。統治機構に地上の主権を明け渡していれば、地上もまた、ネノクニと同様の支配体制が敷かれただろう、と。
その支配体制の中で人権を踏みにじられたのが神木神威や朱雀院火流羅ら、地上奪還部隊の隊員たちであり、戦団の創設者たちである。
それは、ともかく。
若き日の神威そのままの少年が、強化硝子を通り抜け、幸多を抱擁して見せた。当然、実感はない。けれども、そうせずにはいられない衝動が、彼にはあった。
『ぼくはいま、初めて生の実感を得たんだよ』
「初めて?」
『考えてもみなよ』
彼は、幸多の顔を覗き込み、告げた。
『今日までぼくを認識してくれるひとは、どこにもいなかった。きみ以外のだれもが、ぼくの意識に触れることすらできなかったんだよ。この脳が生きていることはわかっていても、活動していることはわかっていても、なにを考え、なにを想い、なにを望み、なにを求めているのか、気にしてくれるひとなんてほとんどいなかった。
それも当然だよね。ぼくは、失敗作だ。どうにかして脳だけ取り出して生かすことに成功したけれど、これだけではなんの価値もない。なんといっても神木神威の複製体に求めていたのは、竜眼の力なんだから。脳だけのぼくに価値はない』
少年が、大きく息を吐いた。その仕草の一つとっても、生きている人間のそれにほかならず、故に幸多は、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。彼は、生きている。精一杯、生きようと藻掻いている。
なのに、だれにも彼の声が届いていなかったのだ。
『とはいえ、さ。再利用できるかもしれないだろう? 伊佐那義一みたいに』
「知っているの?」
『知らないことはないよ』
少年は、義一を一瞥した。伊佐那麒麟複製体という、自分と似て非なる立場の存在については、多少どころではない情報量でもって知っている。知りすぎているといっていい。
『ぼくは、この生命維持装置の中でずっと一人だった。この広い広い培養槽がぼくの世界で、天地の全てだった。研究員たちがぼくの様子を毎日見に来るけれど、話しかけてくれる人なんて一人もいなかったし、生きていること、成長していることを確認して、それでおしまいだったからね』
彼の脳内を過るのは、研究の日々だ。いまや遠い過去のものとなり始めた日常風景は、とっくに色褪せてしまっていて、元に戻ることはない。
目の前の色鮮やかな現在に比べれば、なんとつまらない日々だったか。
『でも、それは仕方のないことだ。なんといっても脳みそだけなんだ。言葉を話すこともできなければ、感情を表現する方法もない。魔力を練成することも、律像を形成することも、真言を唱えることも』
培養槽を振り返れば、ぽつりと浮かぶ脳がいままで以上に活動的に機能していることがわかる。いままさに彼が興奮しているからだ。
『脳だけのぼくは、標本そのものだったんだよ』
「それなのに、知っている」
『うん』
彼は、手近にあった機材に腰掛けるような姿勢を取って、幸多と向き合った。幸多の視線を向けた先に、真白たちも目を向ける。そこにあるのは、なにやら複雑そうな機材だけであり、幸多が見ているらしい少年の姿など影すら見当たらないのだが。
『気づいたら、視界が開いていたんだ。脳みそ以外のあらゆる器官を持たない、肉体を持たないぼくが、どうしてこうなったのかはわからない。わからないけれど、ぼくは、外に出ることができた。培養槽の外へ。研究所の外へ。水穂市の外へ。幽体離脱という言葉に思い至ったのは、随分後のことだけど、多分、それが相応しいんだと思う』
「幽体離脱……」
『まあ、この魔法社会において否定される現象ではあるけれど、ぼくの実体験からいわせれば、魔法科学で証明できないことだって起こり得るのがこの世界だ。きみがぼくを認識しているのも、そう。ぼくがこの双界に横たわる情報の海を泳ぎ、膨大な情報を得て、自分を確立していったのだって、きっとそういうことなんだと思う』
幸多は、少年の説明から、彼がこれまでどのように過ごしてきたのかを想像した。言葉通りならば、まさに情報の海――つまり、レイライン・ネットワークを泳ぎながら、大量の情報を浴び、それによって自分というものを作り上げていったのではないか。言葉を知り、世界を知り、情緒を、精神を、自己を構築していったのではないか。
だとしても、奇跡的だと思わずにはいられない。
レイライン・ネットワーク上に溢れかえった大量の情報を浴びるだけ浴びて、いまの彼が作り上げられていったというのは、どう考えても奇跡だ。
世には、情報が溢れすぎている。善も悪も、正も邪も、混沌の坩堝の如く入り乱れ、氾濫しているのだ。
生まれたての赤子が、物心ついたばかりの子供が、そうした膨大極まる情報の中から必要なものだけを選び取れるわけもないのだから。
『そしてぼくは、きみという他人に認識されて、ようやく思い知ったんだ。ぼくは、確かに存在するし、確かに生きているんだって、やっと理解できたんだ』
彼は、幸多を見つめた。褐色の瞳には、当然ながら彼の姿は映っていない。それなのに、どうして、幸多は彼を認識できるのか。彼には、その謎がまるで理解できないが、しかし、認識されているという事実は、否定しようもない。
なんといっても、幸多は、彼を信じ、ここまでついてきてくれたのだ。
それこそ、彼の存在を認識してくれていることの証明にほかならなかった。
『ありがとう』
「……感謝されるようなことはしていないよ」
『してるんだよ』
彼は、幸多の謙遜ぶりに、屈託なく笑った。
幸多が存在しているというだけで、彼にとってはこの上ない感動だったのだ。幸多が自分を見出してくれたという事実が、認識してくれたという現実が、彼をして己を肯定する大いなる力となった。
これまで外から流れ込んでくる情報によって成立していた自分という存在が、他者との接触、交流によって、いま、改めて洗練されていくような、そんな感覚。
世界が、光を帯びた。
「……これは、どういうことなのかしら」
不意に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だったが、同時に鋭く研ぎ澄まされた刃のような声音だった。
イリアだ。