第九百九十四話 透明な存在(六)
少年に導かれるまま部屋の奥に向かうと、強化硝子製と思しき壁が立ちはだかった。全面硝子張りの壁だ。そしてその強化硝子にはなにか仕掛けが施されていて、向こう側の様子は見えなかった。
まるで霧がかかったように、真っ白なのだ。
少年が、幸多たちを一瞥し、一人頷く。彼にはこの先になにがあるのかがわかっているからだ。
彼は、強化硝子に手を翳す。すると、強化硝子があっという間に透き通っていったのだが、幸多たちが驚いたのはそんなことにではなかった。
その程度の仕掛けは、旧時代からありふれているし、現代魔法社会ならば一般家庭にだって見受けられるだろう。
衝撃的なのは、強化硝子の向こう側の光景だ。
「これは……」
「な、なんなの……?」
「脳みそ……だよな?」
「そう……か」
四人が四人、驚きを隠せなかったし、頭の中が混乱するほどの衝撃を受けていた。
強化硝子製の壁の向こう側は、それそのものが培養槽のようであり、なんらかの液体が満たされているらしかった。そして、その液体の中心には、真白がいったように剥き出しの脳みそが浮かんでいるのだ。
培養槽の大きさと比較すると、あまりにも小さな、人間の脳だ。
脳以外の器官は見当たらず、標本のようですらある。だとすれば、あまりにも大掛かりな設備としか言いようがないが。
『あれがぼくだよ』
「あれが……?」
幸多は、愕然としながらも少年を見た。彼は、半透明の少年は、培養槽の中に浮かぶ脳をただ真っ直ぐに見ている。
脳は、生きている。
少年がこの脳の作り出した幻ならば、そうとしか言い様がない。
いや、生かされているというべきなのか。
この研究所によって。
「きみは、いったい……」
『彼と、似たようなものかな』
そういって、少年が視線を送ったのは、義一だ。義一は、培養槽に浮かぶ脳を見て、なにか思い当たることでもあるような表情をしていた。
「義一と?」
「ぼく? その少年が、ぼくと似たような境遇だとでもいったんです?」
「うん」
「詳しく聞かせてください」
「だって」
幸多は、義一に促されるまま、少年に説明を求めた。培養槽の中の脳が自分と似たようなものだといわれれば、気にならないわけがないだろう。幸多は義一の心情を察しつつも、彼自身も少年の正体について想像を巡らせていた。
ここは、戦団の関連施設である。重要防衛施設に認定されていないということは、おそらく、表立って行うことのできない研究や実験をするための設備なのではないか。
伊佐那麒麟複製計画のような――。
『神木神威複製体百二十三号。それがぼくだ』
「……え?」
幸多は、少年の回答に衝撃を受けすぎて、一瞬、頭の中が真っ白になった。
想定していたよりも余程衝撃的な内容だったということもあれば、少年の姿にどこか見覚えがある気がしたのは、そういう理由からだったのではないか、と思い至ったのだ。
『戦団は、かつて、人類復興と幻魔殲滅においてもっとも貴重な存在である伊佐那麒麟を複製することを考えた。伊佐那家に受け継がれる第三因子・真眼の使い手は、〈殻〉攻略に必要不可欠だものね』
「そう……なんだろうね」
第三因子は、遺伝され、受け継がれていく。だが、その血を引いていれば、遺伝していれば、確実に覚醒するというわけではない。そのため、仮に伊佐那麒麟が多くの子を設けたとしても、一人として覚醒しない可能性も大いに考えられた。
事実、真眼に覚醒した伊佐那家の人間は、歴史上数えるほどしかいないのだ。
だからこその複製計画なのだろう、ということは、義一から散々に聞かされている。
既に第三因子を覚醒させ、真眼の力を存分に発揮している麒麟を複製することができれば、真眼の使い手に困ることはない。しかも、麒麟は、魔法士としても最高峰の逸材だ。複製となれば、魔法技量も同等以上になるはずであり、大量生産できれば、戦団の戦力を増大させることになる。
故に、伊佐那麒麟複製計画は進められ、そして、伊佐那義一が誕生した。
『でも、それだけじゃ物足りないと考えた連中がいた。彼らが白羽の矢を立てたのが、神木神威。戦団総長だよ。なぜかは、いわなくてもわかるよね。神木神威が竜眼の持ち主だからだ。竜眼の持ち主にして、竜級幻魔と同等の力を発揮しうる神木神威を複製することができたならば、人類復興も幻魔殲滅も容易い――研究者たちの安易な結論に疑問はいらないだろう』
呆れ果てたような少年の言葉には、幸多は、呆然とするほかなかった。
そういわれれば、そうとしか言いようがない。
かつて、伊佐那麒麟複製計画の存在を知り、義一と美零という当事者と知り合い、深く関われば関わるほど、その存在意義については疑問を感じなくなっていた。
真眼の価値をもっとも実感しているのが、幸多たち真星小隊なのだ。
真眼の力がなければ、殻石の位置を把握することなどできず、当然、殻石破壊作戦など決行できるわけもない。
幸多たちが英雄の如く賞賛されるのは、真眼の恩恵という以外にはなかった。
つまりは、伊佐那麒麟複製計画の恩恵である。
そして、だ。
伊佐那麒麟複製計画が必要不可欠だと思うのであれば、竜級幻魔に対抗できる唯一の存在である神木神威を複製しようとするものが現れても不思議ではない、というのは、考えてみれば当たり前の話かもしれなかった。
合点が行く。
幸多の脳裏には、龍宮の奥底から浮上した竜級幻魔オロチの姿が浮かんだ。龍宮のみならず、その周囲一帯、戦場全域をも圧するほどの力が、オロチから発せられていたのだ。そのオロチを一撃の元に伸したのが、竜眼を解放した神木神威であり、その力は、竜級幻魔に匹敵するものだった。
それほどの力だ。
複製し、大量生産することができたとすれば、確かに、人類復興も幻魔殲滅も容易くなるだろう。
『まあ、でも、結果はご覧の通りなんだけどね』
「どういう……」
『いっただろう。ぼくは、百二十三号だって。百二十三番目の複製体なんだよ。そこまでして、ようやく人の形を成したのが、ぼくだった。竜眼の力も、多少なりとも発現したらしい。けれども、ぼくの目が世界を見ることはなかった』
「え?」
『ぼくは、たぶん、産声を上げることすらできなかったんだと思う』
少年は、強化硝子に触れるように手を伸ばし、そのまま通り抜けていく。実体を持たない幻影の体にとって、障害物などありはしないのだ。
生命維持装置に満たされた液体も、液体に満ちる魔素も、この透明な体を透き通っていく。
完全に透き通った透明な存在。
それが、彼だ。
『ぼくは、死んだ。生まれてすぐに、死んでしまった。でも、やっとの想いで人の形を成したから、研究者たちはどうにかして蘇生しようとした。力の限りを尽くしたんだ。本当に、やれるだけのことはやったようだよ』
苦笑とともに、少年の想いが伝わってくるようだった。
この世には、不文律がある。
死者は蘇生しない。
死んだものは、決して生き返ることはない。
魔法が発明され、研究が進み、発展し、進歩し、多種多様な魔法が開発されていっても、死者を蘇生する魔法が誕生することはなかった。
死体を自由自在に操ることはできても、ある程度自律的に行動させるような魔法を使うことはできても、それらは、死者の蘇生と呼べるほど上等な代物ではなかった。
心臓が再び脈打ち始めても、呼吸を再開しても、脳が機能しても――不完全極まりないそれを見て、完璧に復活したと喜ぶものはいなかった。
では、彼は、どうなのか。
『その結果、ぼくは、脳だけになって、生き長らえている。この部屋は、ぼくの脳を生かすためだけの生命維持装置なんだよ』
幻影の少年は、己の脳に触れるようにして、しかし、その指先が脳の中に沈んでいく様に苦笑すらして見せた。
幸多には、その光景がなんとも奇妙で、それでいて幻想的なものに見えた。
「えーと……なんだって?」
「ぼくたちにも説明して欲しい、かな」
「そうだよ。隊長だけ理解していないでさ」
「あ、あー、そうだね。そうだったね。わかった。説明するよ」
『大変だね、きみは』
幻影の少年は、幸多の置かれている立場、状況が自分の存在のせいだということは棚に上げ、彼を同情した。
こうなってしまったのも、彼のせいだ。
彼が、自分を認識してしまったのだから、致し方がない。
彼をここに導いたのだって、そうだった。
孤独が、わずかに紛れていく。