第九百九十二話 透明な存在(四)
『ここだよ』
「ここ……」
その施設は、水穂市の南西部に位置していた。
御名方山から水穂市内へと流れ、市内を大きく弧を描く大河、青龍河の終端にほど近く、市街地からは遠く離れた場所だ。
水穂市を囲う境界防壁がその存在感を主張するかのように聳え立っていて、その影が幸多の全身を飲み込んでいる。先導する幻影の少年の全身も隠れてしまいそうだったが、幸多の目は、彼の霊体のような姿を見逃すことはなかった。
夕闇が、影をより深く、濃いものにしている。
気温も下がり、風に混じった冷気が肌に刺さるようだ。
彼の忠告通り、着込んでおいたのは大正解だった。
それでも寒さを感じるのは、昼間との寒暖差のせいもあるだろう。
「ここって……」
幸多は、境界防壁の影に飲まれた建物を見ていた。小さな施設だった。生命真理研究所と記された銘板が、正門に掲げられている。外周を囲う塀は高く、ちょっとやそっとのことでは覗き込めそうにはなかった。
そして、この研究所が戦団関連施設であることは、銘板に刻まれた紋章からも明らかだ。
星を象るその紋章を掲げると言うことは、この施設が戦団に属するものであることを表明しているようなものだ。当然ながら関係者以外が勝手に立ち入ることは許されない。
戦団関連施設だ。厳重な警備網が敷かれているだろうし、導士が警備についている可能性も考えられた。
しかし、幸多は、同時に疑問に想うのだ。
いま目の前に存在する研究所は、幸多の記憶の中に存在しない。
水穂市に限った話ではなく、央都四市のいずれの市内にも、戦団関連の施設はいくつも存在する。なんらかの研究所もあれば、導衣や法機、魔具を生産する工場などもある。もちろん、幸多の装備も、そうした工場で生産されているのであり、銃を撃ちまくることができるのだって、兵器工場で弾丸を大量生産しているからだ。
そして、そういう戦団関連施設というのは、各市の防衛任務についた場合には重要防衛施設として周知徹底されるものだった。
戦団本部のように常に戦力が有り余っている施設ならばともかく、多くの施設がそうではない。
戦団の戦力から各施設に防衛戦力を割り当てることができれば一番なのだが、しかし、現状、戦団にそのような戦力的余裕はない。重要防衛施設と認定することによって、通常任務の際、重点的に警戒することで対応しているのである。
そんな重要防衛施設とは無縁の戦団関連施設というのも、決して珍しいものではないのだが。
「生命真理研究所……」
『仰々しい名前だよね』
「うん……でも、それなのに重要防衛拠点じゃないのは、どういうことなんだろう」
『戦団としても、隠しておきたい施設なんだと想う』
「隠しておきたい?」
その割には、堂々と戦団の紋章が掲げられているのは、どういうことなのかと幸多は首を傾げた。どうにもちぐはぐな感じがするのだ。
『こっちだよ』
「入っていいの?」
『一先ず、防犯装置の類は停止しているから、大丈夫。余程大声でも出さない限り、見つかったりしないよ』
「停止? そんなことして、大丈夫?」
まず問うべきは、彼にそんなことができる権限、あるいは能力があるか、ということだったのかもしれないが、幸多は、彼や施設の安全のほうが心配になった。
『大丈夫だよ。だれもこんな閉鎖寸前の施設に侵入したりしないだろうし……侵入したとして、なにが見つかるわけでもないからね』
幻影の少年は、自嘲するかのように微笑し、幸多の前を歩いて門内へと足を踏み入れた。それまで閉ざされていた門が、彼の歩調に合わせて勝手に開き、幸多をも招き入れるかのようだった。
幸多は、仕方なく彼に続いた。
それでも、門は閉まらない。
『彼らも、呼ぶといい』
「え?」
『まさか、気づいてなかった?』
彼は、苦笑混じりに幸多の後方に目線をやった。幸多が彼の視線を追うと、慌てて門扉に隠れる少年たちの姿が見えた。
真白たちだ。
『彼ら、きみの後をずっとつけてきてたよ。結構距離を離してたから、気づかないのも無理はないかもしれないけどさ』
「そう……だったんだ」
幸多は、自分がどれだけ彼に意識を集中していたのかを思い知った。本来の幸多ならば、多少の距離が離れていても、自分を尾行している人間に気づかないはずがなかった。それくらいの訓練は受けているし、なにより、幸多の五感は常人離れしている。
もちろん、真白たちが魔法を使って己の姿を隠していれば、完璧には見抜けないだろうが、そこまでして尾行してくるとは考えにくい。
そもそも、完璧に尾行するというのであれば、門前まで詰め寄ってはこないだろう。
幸多は、真白たちが門扉の影に隠れたままなのを見つめて、肩を竦めた。三人を心配させたのは、自分の不徳だ。
幸多にしか見えないものに連れられて、夜が迫る街へと出ていったのだ。目的も意図もなにもかもが不明であり、心配するのも無理からぬことだろう。
幸多は、門前まで歩み寄り、門の外側を覗き込んだ。すると、少年の言うとおり、真白、黒乃、義一の三人が身を寄せ合って、門塀の影に隠れていた。冬服の三人が折り重なっている様は、どうにも間の抜けたものだ。
「ばればれの尾行、御苦労さん」
「げっ」
「げ、じゃないよ」
「お、おれが追跡しようって言い出したわけじゃねえからな!」
「しっ」
幸多は、口元に人差し指を当てた。
「静かに。これから忍び込むんだから、大声を出さない」
「わ、わかった……へ?」
「って、忍び込む?」
「どういうこと?」
きょとんとする三人に対し、幸多も要領を得ないという反応をするほかなかった。
「さあ?」
幸多は、三人がそれぞれに立ち上がるのを待ちながら、幻影の少年を振り返った。研究所の敷地内に佇む少年は、こちらではなく、研究施設を見遣っている。
その後ろ姿は、いまにも消え入りそうなほどに儚く、幻想的だ。
「幻覚でも幻聴でもないことは、確かなようだね」
「なんでそう言い切れるんだよ」
「まず第一に、こんな戦団関連施設は、ぼくでも知らなかった」
義一は、幸多の後に続きながら、真白の疑問に答える。幸多はといえば、おそらく幻影の少年の後を追いかけており、三人は彼を頼りに進んでいる。
この生命真理研究所という名の研究施設に、門前に掲げられた紋章から戦団が深く関与していることに疑問を持たない。だが、だからこそ、疑問が沸く。義一ほどの立場の人間になれば、戦団関連施設のほとんど全てを網羅しているといっても過言ではない。
戦団が秘匿している施設の大半すらも、だ。
そんな義一ですら知らなかったのが、この生命真理研究所だ。
ここでどのような研究が行われ、どのような実験が繰り返されてきたのか、想像もつかなければ、考えたくもなかった。
「そんな場所に隊長が思いつきで辿り着くわけがないよね?」
「まあ、そうだな」
「でも、隊長の出身地だよ」
「そうだけど、出身地だからって市内の全部を把握していると思う? たとえばふたりは大和市で育ったわけだけど、大和市のことを完璧に理解しているかい?」
「おれらの境遇をわかってるくせに、よく聞けたもんだな」
「……そういうことだよ」
「どういうことだよ」
「兄さん」
常ならざる剣呑さを見せる真白に対し、黒乃がどうにかして落ち着かせようとする様を見て、義一は、小さく息を吐いた。
「人間、知れることには限度があるということ。そして、これがもっともわかりやすいことなんだけど、隊長がこの施設の所在地を知っていたとして、防犯設備を無視して侵入することなんてできるわけがない」
「……そりゃあ、そうだ」
「そうだね。ここが戦団の施設なら、警備もとんでもなく厳重なはずだもんね」
黒乃は、夕闇に覆われた頭上を仰ぎ見て、地上へと視線を移した。
研究所の敷地内の各所に設置された照明灯が、つぎつぎと光を放ち始めているのだが、幸多について行っている限り、その光に触れることがなかった。
常に影に隠れていて、遠目からではこの四人の姿を確認することも難しいのではないか。
幸多が、そんなことをできるとは思えなかった。
なにかが、幸多を導いている。
透明な存在を名乗る少年が、確かに存在するのだと認めるしかなかった。