第九百九十一話 透明な存在(三)
水穂基地の兵舎を出ると、西の空が赤々と燃え上がっていた。
夕刻。
各軍団、各小隊に与えられる任務は、大抵の場合、八時間勤務の三交代制である。一日二十四時間、ほぼほぼ隙間なく、常に市内各所を監視したり見回ったりしているのが、戦団の導士なのだ。そうすることでしかいつ何時発生するかもわからない幻魔災害や魔法犯罪に対応することはできないし、そうすることによって、市民は安穏たる日々を送ることができるのだ。
万全にして絶対の平穏などとはいえないものの、戦団がこのような仕組みを作り、実行していなければ、央都四市の、人類生存圏の日常は、もっと悲惨なものになっていたかもしれない。
そんなことを冬の風を浴びながら、考える。
一日の任務が終われば、翌日の任務までは自由だ。
つぎの任務に支障をきたさないのであれば、なにをしたっていい。そして、大抵の場合は、任務の疲れを癒やすか、さらに訓練に励むことになるだろう。
きっと、義一や九十九兄弟は、しばらくもすれば訓練所に押し掛け、長時間に及ぶ訓練に勤しむに違いない。
そうでなければ、導士は務まらない。
幻魔災害は、そう頻繁に起きるものではないし、仮に発生したとしても、出現する幻魔というのは妖級未満がほとんどだ。仮に妖級幻魔が出現したとして、周辺の戦力が結集すればどうとでもなる。
妖級ともなれば、出現に伴う被害はとてつもないものとなるだろうが、央都の安寧を脅かすほどのものではない。
鬼級が出現する可能性は、極めて低い。
この半年、断続的に姿を現し、央都を混乱に包み込んだという事実から目を瞑れば、歴史上、鬼級が人類生存圏内を暴れ回ったという記録は皆無に等しかった。
記録されているのは、特別指定幻魔壱号ことサタンによるものばかりだ。
そして、サタンの出現は、幻魔の発生を伴うものであり、サタンそのものが幻魔災害を引き起こすということはなかった。
だからといって、サタンを許容する理由にはならないし、討滅するべき最大の敵である事実に変わりはないが。
ともかく、だ。
央都四市は、変わらず平和だということだ。
衛星拠点のみならず、境界防壁によって外周を護られるようになったという事実は、央都市民に多大な安心感を与えたようだった。
護法の長城とも呼ばれるそれらは、完成とともに各種報道機関によって連日連夜取り上げられ、喧伝された。
この央都を、人類生存圏を外敵から守護する堅牢強固な防壁がついに完成したのだ、と。
これにより、市民の日常生活の安全性はより高まり、平穏な日々が確約されたも同然である、などという過剰なまでの期待を込めた報道には、戦団広報の意思が関与しているのか、どうか。
護法の長城は、確かに機能した。
オロバス・エロス連合軍の侵攻を防ぎ切れたのは、長城の存在があればこそだ。
幻魔の軍勢は、正面に展開する戦団の戦力を撃滅するだけでなく、様々な方法で長城の突破を試みていたのだという。
幸多は、最前線で戦っていたから知らなかったものの、オロバス軍は、かつて光都を灼き尽くした幻魔戦艦を長城に激突させようとしていたという。
それを防いだのが第八軍団と第十軍団の副長であり、両副長の活躍が大々的に取り上げられているのも、長城の存在を宣伝するために違いなかった。
この水穂市の平穏そのものの夕暮れを眺め、息を吐く。
オロバス軍との戦いに勝利したからこその日常が、ここにあるのだ。
もし幸多たちが敗れ去っていれば、戦団は最終手段として神木神威を投入することになっていたという話を聞いた。
神威一人を戦場に投げ込むだけで、戦いは終わる。戦団の大勝利で、だ。ただし、その勝利は多大な犠牲を伴うものであり、余計な災厄を呼び込む可能性が極めて高いのだという。
竜級幻魔ブルードラゴン。
神威が力を解放することによってどこからともなく飛来するそれは、破滅そのものだ。具体的な滅びであるそれは、神威との戦闘の最中に破壊を撒き散らし、周囲一帯に混沌を生む。
そうなると、どうしようもない。
オロバス軍を撃滅した結果、境界防壁のみならず、大和市までもが壊滅的被害を受ける可能性を考えれば、神威の投入など考えられることではないのだ。
神威に頼らない戦術を。
戦団は、常にそのことを念頭に入れて、戦力の拡充に努めてきたのだ。
神威は、最終最後の手段だ。
できれば、使いたくなかったし、使うべきではない。
「市内?」
幸多は、だれとはなしに問うた。水穂基地から少し離れた御雷町の交差点。道行く人々の数は、それほど多くはない。
横幅が極めて広く取られた道路を横切る歩道を進みながら、通りすがる人々が幸多の正体に気づくことはほとんどなかった。闘衣でもなければ制服でもなく、普段着に着替えているからというのもあるだろう。
それも、幸多が好みで選んだ服装ではなく、圭悟たちに選んで貰ったものなのだ。よって、悪目立ちすることがない――とは、圭悟たちの意見であって、幸多はあまり納得していないのだが、しかし、事実として目立っていなかった。
『そう、市内』
幻影の少年が、どこか楽しそうに頷いた。なにが嬉しいのか、彼はずっとにこにこしていた。幸多に自分の存在が気づかれたことが理由なのは間違いないのだが。
「ずっと笑顔だね」
『気味悪い?』
「そういうわけじゃないけど」
『でも、たぶん、きみのほうが気味が悪いように見えてるんじゃないかな』
「……まあ、そうかもね」
そして、そのように注目を浴びれば、一瞬で皆代幸多と気づかれて、ちょっとした騒ぎになる可能性が脳裏を過った。口を噤み、幻影の少年を振り返った。
少年は、夕日に溶け込むほどに儚い存在だ。淡い緑色の光の粒子によって構成されたその体は、吹けば飛ぶのではないかと想える。だが、確かに存在している。
幻覚でも、幻聴でもない。
幸多は、確かに彼を視認し、彼の声を聞き、彼の意思を感じ取っている。
幻影の少年は、幸多の意図を察したのか、行き先を指で指し示した。
横断歩道を渡りきったさらに先へ進むらしい。
水穂市は、幸多が生まれ育った場所だ。
しかし、水穂市の全てを知っているわけではない。生まれてから一年間は赤羽医院の調整槽の中にいたし、調整槽から取り出されてからは、皆代家の敷地内で過ごすことが多かった。
皆代家という箱庭が、幸多にとって世界の全てだったのだ。
そして、それで良かった。
それだけで良かった。
けれども、人は成長するものだ。箱庭は狭くなり、壁は崩れ去る。己の意思や願望とは無関係に。
箱庭の、敷地の外へ出るようになり、保育園に通うようになったが、それは問題ではなかった。幼稚園もそうだ。なんの問題も起きなかった。
むしろ、そのころの幸多は、絶好調だったといっていい。
なんといっても、身体能力において幸多は、特別に優れていたのだ。
同年代の男児女児とは比較にならず、どんな競技でも、どんな遊びでも、勝負にならなかった。一方的な展開になるばかりで、だれもが幸多に羨望の眼差しを向けてきたものである。
というのも、まだまだだれもが幼く、魔法士としての訓練を受けてすらいなかったからだ。
小学校に入ると、状況は変わった。
少しずつ、魔法を使える子供が現れ始めた。一年も立てば、だれもが簡単な魔法を使うようになる。そうなると、魔法の使えない幸多は、肩身の狭い思いをすることになった。
魔法不能者差別は、ひょんなことで牙を剥く。
子供の純粋無垢な疑問が、鋭利な刃となって幸多の心を傷つけ、踏みにじり、血まみれにしていくのだ。
けれども、幸多には心強い味方がいた。
統魔だ。
既にそのころには皆代家の一員となり、幸多との間にあった蟠りも溶けて消えていた統魔は、魔法不能者差別に対し、義憤を燃やしていた。
幸多にとって統魔は正義の味方であり、スーパーヒーローだったのだ。
(なんで)
幸多は、ふと、足を止めた。前を進んでいた幻影の少年がきょとんとする。
(……思い出すんだろう)
いまになって、子供のころのことを思い出す理由は、まるで思い当たらなかった。