第九百九十話 透明な存在(二)
たとえばこの世に運命というものがあるのだとすれば、それがきっと、運命と呼ぶに相応しい出来事だったのだろう。
たとえばこの世に奇跡というものがあるのだとすれば、それがきっと、奇跡と呼ぶに相応しい出来事だったのだろう。
たとえば。
たとえば。
(――なんだろうな)
彼は、考える。
自分の語彙力のなさを不甲斐ないと想うよりも、この出逢いについて考え込まざるを得ない。
これまであり得なかったことが起きてしまった。
あり得べかざることが起きて、動転してしまったほどだ。動揺もあれば、混乱もあった。衝撃的すぎて、なにが起きたのかと慌てふためいた。
冷静になったいまでも、信じられなかった。
自分を認識してくれるひとが現れたのだ。
(なんだろう)
彼のことは、よく知っている。
知らないわけがない。
『皆代幸多』
「うん?」
『きみの名前』
「そうだけど……なに?」
彼は、困ったような顔をした。
戦団戦務局戦闘部第七軍団に所属する真星小隊は、水穂市御影町内の巡回任務を行っている最中だった。
その真っ只中、彼は、彼らの活躍ぶりを目の当たりにしたのである。
さすがは戦団上層部が新世代の英雄として祭り上げようとしている小隊だけあって、見事な手腕だった。たった六体の下位獣級幻魔とはいえ、被害を拡大することなく、一瞬のうちに撃滅して見せたのだ。
星将たちの戦闘を見飽きるほどに見てきた彼だが、だからこそ、真星小隊に可能性を感じるのだ。
もちろん、皆代小隊とは比較するべきではないという前提で、だが。
皆代小隊こそ、次世代の、いや現世代においても最高峰の小隊といっていい。隊長の皆代統魔からして、図抜けている。三種統合型星象現界の使い手という、この上なく強力な魔法士なのだ。また、本荘ルナの特異性も、皆代小隊を強力無比な存在へと押し上げるのに一役も二役も買っているだろう。
そんな皆代小隊と比べれば、他の小隊が霞むのも無理のないことだが、真星小隊は、戦団史に残る大活躍をしてきたという事実がある。
彼らの闘衣、導衣の胸元に輝く破殻星章が、その活躍を示している。
彼らが街を歩けば、市民の声援が飛び交い、携帯端末の閃光が嵐のように吹き荒れた。真星小隊の隊員たちが、市民からの応援の声に手を振らなくなったのは、あまりにも多すぎるからに違いなかった。
「ずっとついてきてるのか? その幽霊」
「ゆ、幽霊?」
真白の言葉にびくりとしたのが黒乃だ。彼は、普段ならば幸多の背中にくっつくのに、今回ばかりは兄の背後に隠れた。真白が、そんな弟の反応に憮然とする。
「幽霊だろ。実体もなけりゃ、魔素も持たない存在なんて、幽霊以外にありえねえ」
「ううん。魔素を持たないということは、幽霊でもないということだよ」
「はあ?」
「旧時代、幽霊と呼ばれるもののほとんどは、ただの勘違いや妄想、幻聴や幻覚の類だった。本当に存在したのだとして、それを証明する手立てもなかったから、そのように処理されて然るべきものだった。霊は実在すると訴えるものも履いて捨てるほどいたけれど、科学的に証明されたことはなかった」
「始まったよ」
「始まったね……」
九十九兄弟が観念したように義一を横目に見たのは、彼の長い講釈が真星小隊にとって恒例の出来事だったからだ。
こうなると、義一の言葉は止まらない。付け入る隙を与えたものが悪いという結論に落ち着くので、この場合、真白に視線が集中した。
「しかし、魔法が発明され、普及し、魔法時代が訪れると、幽霊と呼ばれるものが確かに存在することが判明したんだよ。そしてその大半は、残留魔素だった。魔法の存在しなかった時代でも、魔素は厳然として存在していた。それも当たり前だよね。この魔素宇宙において、魔素を宿していない存在なんて、いま目の前にいる一人をおいていないんだから」
義一が、幸多を見る。真眼を通して視る幸多の姿は、少し、異様だ。幸多が身に纏う闘衣だけが魔素を内包していて、幸多自身の体からは一切の魔素を確認できないのだ。幸多が完全無能者と呼ばれる所以が、そこにある。
そんな幸多は、義一の講釈に苦笑しながら、巡回任務の順路を歩いている。
「幻魔が発生するのは、死者の絶望があらん限りの魔素を魔力へと練成させた結果だといわれていることは、知ってのとおり。死者の嘆きが、哀しみが、怒りが、痛みが、通常以上に純度の高い魔力を生み出し、幻魔の苗床になってしまったんだ。でもそれは、人類が魔法を手にしてからのこと。魔力を練成する方法がありふれた技術となり、だれもが魔法を当然のように扱えるようになってからのこと。それ以前は、どうだったのか」
義一の講釈は、終わりが見えなかった。普段、それほど口数の多いわけではない彼が、特定の知識を披露するときに限って饒舌になるのは、幸多たちにとって慣れたことではあった。
眉目秀麗、戦績優秀、血筋も将来性も抜群な義一の数少ない欠点だという声もあれば、そこが可愛いのだというものもいる。
幸多たちにそういってのけたのは、彼の半身である美零なのだが。
「魔法が発明されるまで、魔素は、だれもがただ体内に持ち続けているだけのものだった。ただ体内を循環し、不要となれば排出されるだけのもの。けれども、皆も知ってのとおり、魔素は感情に呼応する。激しい怒りや深い悲しみが魔素を増幅させ、魔力の練成を加速させるように。それは、魔法を体得する以前の人間の中でも起きていた現象なんだよ。そして、死者の絶望が大量の魔素に影響を与え、その場に残留し、幽霊の如く誤認されるほどのものとなった可能性は、大いにありうる話なんだ」
義一は、そこまでいって、自分が小隊から大きく遅れていることに気づいた。駆け足で隊列に戻った。
「だから、まあ、隊長が認識している少年は幽霊じゃないんだよ」
「相変わらずの講釈魔め」
「耳が疲れたよ……」
「酷いな、ひとが親切に説明してやったってのに」
「説明求めてねー」
「ありがたいけど……」
「こういうときは、本音を言えよ。ありがたくもなんともねーってな!」
真白が睨みつけると、義一が軽く肩を竦めた。まったく懲りている素振りがないことに真白が拳を握りしめるも、黒乃に止められる。
そんな小隊のやり取りを見て、透明な少年が口を開いた。
『相変わらず、仲がいいね、きみたちは』
「随分と知っているいみたいだ」
『知らないわけがないだろう。戦団で一、二を争う有名小隊だ』
「若手の中では、ね」
『そうでもないよ。最近の活躍は、戦団の歴史に燦然と輝くものじゃないか。それはきみ自身が一番理解していることだと想ったけど』
「それは……」
「隊長、本当に大丈夫か? 悪霊に取り憑かれてたりしないだろうな?」
「悪霊なら、旧式の導衣を着ているとは想えないけど」
「それが怪しいんだろ」
「旧式の導衣……戦団の作戦に恨みを持った導士の悪霊……!?」
「あのね」
悪霊談義で勝手に盛り上がる九十九兄弟に対し、幸多は、なんともいえない顔になった。
この幻影のような少年の正体についてはなにもわからないままだったし、ずっとついてきている上、度々話しかけてくるのも、多少、面倒なのだが、気にならないわけではなかった。
少年は、幸多のことが気になって気になって仕方がないという風なのだ。
幸多も、彼に興味を持ってしまった。
しかし、彼のことを調べるにしても、まずは任務を完遂することにこそ、全力を上げなければならず、集中力を削がれるような状況は避けたかった。
もっとも、巡回任務中に幻魔災害に遭遇することなど、滅多にあることではないのだが。
そして先ほど、その滅多な出来事が起きたばかりだ。
事実、それから巡回任務を終えるまで、幻魔と遭遇することはなく、市民の声援への対応に明け暮れた。
巡回任務を終え、水穂基地へと帰投した真星小隊一行は、兵舎内の自分たちに宛がわれた一室に入った。浴室で汚れを洗い落とし、服を着替え、それぞれにくつろぎ始める。
報告書の作成は、義一の役目である。義一は、伊佐那麒麟の後継者として相応しい導士となるべく、そのために必要であろうことは率先して行うようにしていた。
幸多の負担を少しでも減らしたいという意図もある。
真星小隊の主戦力は、黒乃と幸多の二枚看板だ。義一は補手であり、攻撃に参加することもあるが、補助や支援を主な役割とする。
これまでの戦闘を踏まえれば、兵装の使い分けによってあらゆる状況に対応可能な幸多こそ、もっとも忙しい立場にあるのではないか、というのが義一の見立てだったし、間違いではあるまい。
だからこそ、幸多には、任務外では自由にしてもらいたいのだ。
そう、自由に。
「少し、出かけてくるよ」
幸多が部屋の玄関から声をかけてきたものだから、九十九兄弟が椅子から転げ落ちた。いつものように、幸多を枕に眠ろうとしていた矢先だったのかもしれない。
「うん?」
「どこに?」
「さあ、どこだろう?」
幸多は、少し困ったような顔をして、だれかにせっつかれるようにして部屋を後にした。
きっと、義一にも姿の見えない少年に誘われたのだ。