第九百八十五話 二人の意味(二)
幻想空間上に構築された広大な魔界の片隅で、義一は、戦団の女神と対峙しているという事実を今更のように実感していた。
幻創機によって完璧に再現された魔界の空気には、膨大な量の魔素が満ち溢れており、そこに麒麟の力が混じれば、巨大なうねりを生み、混沌の如く渦を巻くのは当然だった。
絶大な力が、螺旋を描くようにして君臨しているのだ。
それが麒麟の魔法技量であり、星神力である。
その力の渦の狭間に無数の星々が瞬き、煌めいている。
肌が、ひりつく。
神経という神経が刺激を感じ取り、あらゆる感覚が急速に鋭敏化していく。
中でも視覚だ。
真眼を発動していることによる影響だろう。この魔界全域を撹拌するかの如き星神力の奔流を目の当たりにし、両目が熱を帯び、痛みを訴えてきていた。眩むような輝きが、眼前にあるのだ。
思わず目を覆いたくなるほどだった。
けれども、義一は、目を逸らさない。逸らすわけにはいかない。
望んで、この場に立っているのだ。
戦団副総長という多忙極まりない立場である麒麟の、限られた時間の隙間を縫って、この機会を得た。
義一の休養日と、麒麟の空き時間が重なった奇跡の瞬間。
この瞬間を全力かつ最大限に活用しなければ、母に申し訳が立たない。
伊佐那麒麟の後継者として相応しい人間になるために、麒麟の力、その全てを受け止めるのだ。
「第三世代であるあなたは、第一世代のわたくしよりも余程、魔法士として優れた資質を持っているはずです。持っていなければ、おかしい。では、魔法士としての資質とは、なにか。いわずともわかりますね」
「はい」
「ひとつは、魔素の生産量です」
麒麟が、軽く右手を翳した。その全身に満ちる大量の星神力によって律像が形を成し、言葉が真言となって魔法を発現させる。
翡翠色の雷光が、麒麟の手の中に生じた。
「このエーテル宇宙に存在するあらゆる生物が生まれ持つとされる魔素生産力は、生物や個人によって差があるものです。蟻が人間と同等の魔素生産量を持つわけがないのは知ってのとおり。魔素生産量は、大抵の場合、その生物の質量に比例しています。人間ならば、体格が良ければ良いほど、魔素生産量も高いということですね」
わかりきったことだ。
いまさら説明されるまでもないことだが、義一は、疑問を差し挟まなかった。麒麟の周囲に浮かぶ律像が、複雑かつ無限に変形し、様々な紋様を構築していく様を見ているだけで、勉強になった。星々の輝きを帯びたそれは、星象現界ではないにせよ、それに等しい質量を持つ。
気圧されるのは、当然だった。
「魔導強化法は、いわば、魔素生産量を爆発的に増幅させるためのもの。それも、第三世代ともなれば、第一世代とは比較にならない量の魔素を生産できるのは、至極当然の結果なのです。つまり、わたくしとあなたが全力で戦えば、勝負になどならない――」
麒麟の姿が、わずかな電光を残して消えた。魔界の荒野を駆け抜けるのは一条の紫電であり、それは一瞬にして義一の背後を取る。義一が前方に飛ぼうとした瞬間には、手刀が胸を貫いている。
紫電を帯びた手刀。
魔法と体術を織り交ぜた、伊佐那流魔導戦技。
「――はずですが、もちろんのことながら、魔素生産量が勝敗を決めるわけではありません」
それもまた、わかりきったことだ。
義一は、幻想体が崩壊していく感覚の中で、麒麟の魔法士としての技量を全身で味わった。
義一の幻想体が再構築されるまで、時間はかからない。
つぎの瞬間には、麒麟と対峙しており、麒麟の魔力がさらに鋭く研ぎ澄まされているのを目の当たりにしているのである。
「魔素生産力は、その名の通り体内を循環する魔素を生み出す力に過ぎない。もちろん、生産力が強ければ強いに越したことはありません。魔素は、魔法を使う上で必要不可欠なもの。体外の魔素を制御することにすら、体内の魔素を必要とするのですから」
「体外の……魔素」
「まさに霊石転換法のことですよ、義一」
麒麟が、黄金色の目で義一を見据えた。
「あなたは、龍宮戦役においても、先の防衛戦においても、殻石破壊の大役を果たしました」
殻石を破壊するということは、即ち、勝利の立役者となるということにほかならない。
麒麟にとって喜ばしいことは、その上で義一たちが無事に生還したということだが。
また、そのために護法院は、破殻星章なる勲章を新たに定め、真星小隊に授与したことは、記憶に新しい。龍宮戦役直後には、どのように真星小隊の活躍を賞賛するべきか考え倦ねたものだが、さすがにあれから数ヶ月も経てば、考えつくものである。
破殻星章。
戦団が功労のあった導士に授ける勲章の一種であり、つい先日、ようやく形になったものだ。
その名の通り、殻石のみならず〈殻〉を破壊したという大業をこそ讃える勲章である。
現在、この勲章を持っているのは真星小隊の四人だけだ。
過去、麒麟は、殻石を霊石へと作り替えるという偉業を成し遂げているが、それらの事績に対する特別な勲章はなく、討鬼灯章が授与されている。殻石の霊石化は、鬼級幻魔の打破に等しいからだ。
殻石の破壊も同じなのだが、護法院は、真星小隊のために特別な勲章を設けた。
だれに、とはいわないが、箔を付けたかったのだろう。
麒麟も、そうした護法院の考えに異論はなかった。
結果、真星小隊は、戦団の新世代を代表する小隊の一つになった。
現在、数ある小隊の中でも特に知名度を誇るのは皆代小隊だったし、先の戦いにおける皆代小隊の活躍も素晴らしいとしか言いようのない物だったことは、いうまでもないことだが。
「しかし、あなたは、それでは満足できない。そうですね?」
「はい」
義一は、真っ直ぐに麒麟の目を見つめる。黄金色の光を帯びた虹彩は、義一と全く同じものだ。
同じ顔立ち、同じ眼差し、同じ表情、同じ異能。
義一は、伊佐那麒麟複製計画によって生み出された伊佐那麒麟の複製体なのだ。
性別こそ異なるが、それ以外のほとんど全てが完全に一致するはずだ。
魔法の得意属性もまた、一致した。
「殻石を破壊することによる勝利は、確かに素晴らしいものです。ですが、それによって得られる勝利が極めて一時的なものに過ぎないということもまた、否定しようのない事実です。最初に殻石を破壊したムスペルヘイムは、どうです。いまや数多の幻魔が領土争いを繰り返す混沌たる戦場と化していますね」
「はい」
義一は、麒麟の指摘を肯定するしかない。
龍宮戦役を大勝利に導いたムスペルヘイムの殻石破壊は、その結果、近隣の〈殻〉を大いに刺激し、その軍事行動を活発化させることとなった。
オトヒメの龍宮は、まさに〈殻〉に籠もり、静寂を保っているものの、ベリス、イシュタル、シヴァ、ハヌマーン、オーディン、ハルヴァラといった鬼級幻魔たちが、広大な空白地帯を巡り、日夜闘争を繰り返しているのだという。
それだけの軍勢が動きながら、龍宮が一切手出しされないのは、龍宮に竜級幻魔が眠っているという事実が知れ渡ったからだろう。
オロチは、抑止力となった。
そしてそれは、人類生存圏にも多大な影響を及ぼしているはずだ。
少なくとも龍宮以北の〈殻〉が央都方面に南進してくる可能性は、限りなく低くなったと見ていい。
そして、そういう意味では、ムスペルヘイムを空白地帯とし、混沌たる戦場へと作り替えたことそのものは間違いではない。
龍宮以北で相争うだけであれば、現状、戦団にとってはなんの問題もないのだ。
だが、義一は、考えなければならなかった。
オロバスの〈殻〉の跡地が、現在、安定しているのは天使の介入があったからだ。
天使型幻魔ウリエルが舞い降り、〈殻〉を構築したからこそ、央都西方が急速に落ち着いていったのだ。
もしそれがなければ、ムスペルヘイム跡地以上の混沌たる戦場が生まれていたのではないか。
なんといっても、オロバス領のみならず、エロス領までもがこの地上から消え去ったのだ。
広大な空白地帯が出現したとなれば、数多の鬼級幻魔が、それらを我が物にせんと動き出すのは当然の道理だった。
それこそが、この魔界の掟なのだから。