第九百八十四話 二人の意味(一)
十二月も半ばに迫ろうとしている。
央都四市は、どこもかしこも冬の気配に染まっており、青ざめた空の透明さも、吹き抜ける風の冷たさも、雲の白さも、なにもかもが冷気を帯びているのではないかと思えるほどだった。
夏場は緑一色だという草原も、いまや枯れきって、色褪せてしまっている。
だだっ広い草原だ。これほど広大な敷地に人の手が入っていないのは、まだまだ央都全体の人口が少ないからだろう。
央都の人口が百万人を突破したのは、つい最近のことだ。
央都四市を埋め尽くすには、まだまだ数が足りない。
その上でさらに人類生存圏を拡大しようというのは、そうでもしなければ、央都市民がこの閉塞感に絶えきれないのではないかと考えられているから、らしい。
上の考えは、よくわからない。
「うーむ」
「どったの、真剣な顔してさ」
冬の寒さなどどこ吹く風とでもいわんばかりに薄着の兄を横目に見て、黒乃は問うた。黒乃はといえば、奏恵が用意してくれた冬服を身につけている。ふわふわでもこもこの服装は、動きやすくはないが、日常生活を過ごす上ではなんの問題もない。
むしろ、この分厚い上下から感じる温もりに奏恵の愛情すらも見出せそうで、それだけで黒乃は嬉しかった。
「寒い」
「あのね」
黒乃は、その場でこけかけるのをどうにか踏み止まると、魔法で呼び寄せた上着を兄の体に巻き付けた。強引に、力強く。
「冬なんだから、温かい格好しようよ。奏恵さんがわざわざぼくたちのために用意してくれたんだよ」
「それも……そうだな」
真白は観念したように、黒乃が巻き付けてきた上着をしっかりと着込み、その暖かさに表情を緩ませた。上着の暖かさに、ではない。奏恵の心遣いにこそ、真白は感動しているのだ。
この十二月、第七軍団は水穂市の防衛任務に当たることになった。
水穂市には幸多の実家があるとなれば、真星小隊の休養日を皆代家で過ごすことが決まるのは、当然の成り行きだった。
『なにが当然なんだか』
幸多は苦笑したが、悪い気はしなかったようだ。少なくとも拒否していないのだから、受け入れてくれてはいるのだろう。
そもそも、第七軍団が水穂市の防衛任務に着くと知って喜んだのは、奏恵も同じだった。いや、奏恵の喜びのほうが大きかったのではないか。
奏恵は、幸多たちがいつ皆代家に来ても良いようにと着々と準備を進めており、真白と黒乃の冬服もその一環だったらしい。
夏合宿中に聞いた九十九兄弟の境遇について、奏恵も思うところがあったのである。
義一は、伊佐那家の人間である。当然、冬服なども準備万端だろうし、それらが超高性能な超高級品だとしても不思議ではない。奏恵がわざわざ用意する必要もないだろう。
実際、義一の冬服は、伊佐那家印の特注品であり、高級品でもあった。
伊佐那家は、成金趣味など持ち合わせていないものの、必要とあらば大枚を叩くことに躊躇はない。
伊佐那家のような立場のものが、金を使うことによって経済が巡り、央都全体が潤うというのであれば、否やはない――とは、義一の言葉だが。
「しっかし、幸多のやつ、遅いな」
「そんなに心配なら、一緒に行けば良かったのに」
「心配なんかしてねーっての」
「ふうん」
黒乃は、その場に屈み込み、焚き火に手を翳した。奏恵が二人のために用意してくれたものだ。積み上げられた枯れ葉やら枯れ木やらが、奏恵の魔法によって燃え続けている。
完璧に制御された魔法の炎だ。燃え広がる心配はない。不思議な感覚だった。魔法を使えば容易く寒さを凌ぎ、体温を維持できる現代において、焚き火を行うものなどほとんどいないからだ。
黒乃も真白も、焚き火を実際に目の当たりにするのは、奏恵の世話になるようになってからだった。
奏恵は、まるで魔法社会から失われかけた景色を復活させる魔法使いのようで、黒乃も真白も、皆代家で過ごす時間が楽しくて仕方がなかったりする。
「義一の野郎もおせー」
「心配だったら――」
「心配なんざしてねーっつの」
「はや」
黒乃は、真白をからかうのが楽しくなってきて、笑みを零した。口ではそんな風にいいならがも、仲間のことが心配で仕方がないのが真白だ。
黒乃も、多少は心配だ。
とはいえ、幸多は定期検診で、義一は伊佐那家に用事だという話だったし、心配するようなことなどなにひとつないのだが。
それでも、帰ってくるのが遅いとなると、少しは考えてしまう。
あの二人を失ったら、自分たちの居場所も失うことになるのではないか。
九十九兄弟にとって、真星小隊ほど居心地の良い場所はないのだ。
第七軍団自体も、少しずつ自分たちの居場所になりつつある。
杖長・荒井瑠衣を始めとする上官たちが、九十九兄弟にも目をかけてくれるようになった。
第八軍団時代には考えられなかったことだが、その理由のひとつに、真白が多少なりとも丸くなったことがあるのは間違いないだろう。
そして、真白の性格上の棘が少なくなったのは、幸多との出逢いがあればこそだ、と、黒乃は確信している。
幸多と出逢ってからというもの、訓練や任務を通じて、触れ合い、話し合い、ぶつかり合い――互いのことを理解し合うようになった。何度となく死線を潜り抜けてきたのだ。まさに苦楽をともにした間柄といっていい。
故に黒乃は幸多に全幅の信頼を寄せているし、真白もそうだろう。
義一だって、きっとそうだ。
伊佐那義一の人生にとって、いまこの瞬間こそが重要なのではないか、と、思わずにはいられなかった。
ここは、伊佐那家本邸内道場。
道場とは通称だが、もはや道場としか呼ばれていないのだから、それでいい。。
そんな道場内に設けられた訓練室から幻想空間へと意識を転移させれば、そこにあるのは、無量無辺の情報の海である。
莫大な情報によって構築された幻想空間は、この天地魔界の全てを網羅しているかのような広大さを実感させた。
実際にはそのごくわずかばかりなのだとしても、地平の彼方に至るまで十全に構築されているのだから、凄まじい。
そんな魔界の片隅に降り立った義一を待ち受けているのは、伊佐那麒麟である。その凛とした佇まい一つ取っても、とても七十二歳という年齢には思えない。容姿そのものも、そうだ。
魔法が発達し、魔法医療、魔法美容が進歩すると、外見から実年齢を推し量ることが不可能に近くなったのは有名な話だ。魔法時代黎明期ですら、十歳以上、外見年齢が若返ったといわれているほどである。
現在においては、魔導強化法によって肉体の若さそのものが長く保たれるようになっていることもあり、旧時代、老齢と呼ばれた年代であっても、若々しく、健康そのものといっていい肉体を維持できているのだ。
つまり、たとえ七十代であっても、一線で活躍することも難しくないということだ。
もっとも、それはただの一般論であって、戦団においてはその限りではない。
魔導強化法は、世代を重ねた。世代を重ねるごとに能力の基礎、限界が高くなるというのであれば、新世代に未来を託そうというのは当然の考えだろう。
第一世代よりも第二世代、第二世代よりも第三世代のほうが、より優れた魔法士となり得るのだから。
「そして、あなたは、第三世代です」
麒麟の黄金色の瞳が、義一を見据えていた。淡い光を帯びた虹彩は、真眼がその異能を発揮していることを示している。
義一の魔素の動きをわずかたりとも見逃すまいといわんばかりの麒麟の様子に対し、彼もまた、真眼を発揮する。義一の黄金色の虹彩が光を帯び、通常時には目視することのできない魔素を視認し、網膜に投影していくのである。
幻想空間上に満ちた膨大な魔素が、大きく渦を巻き、麒麟を中心とした嵐が起こっている様子を目の当たりにすれば、圧倒されるほかなかった。
ああ、と、義一は思うのだ。
(麒麟様は……母上は、戦団の女神なんだ)
戦団の基礎を、人類生存圏の根幹を築き上げた地上奪還部隊の一員にして、霊石転換法を考案し、リリスの〈殻〉バビロンを崩壊せしめた英雄。
人は彼女を、戦団の女神と呼んだ。
義一にとってわかりきったことだ。
だが、こうして対峙すると、何度でも再認識するものである。
普段の麒麟の穏和さは、英雄としての凶暴性を完璧に覆い隠し尽くしていた。