第九百八十三話 新野辺九乃一(五)
訓練は、九乃一の判断によって終了することとなった。
幸多が全力を発揮する機会を得られなかったということもあり、多少、不満を覚えなくもない。しかも、この訓練は九乃一が持ちかけてきたものなのだ。そして、相手は星将である。星将との一対一の訓練など、願ってもないことだったし、徹底的に扱き抜き、鍛え上げて貰いたいというのは、幸多の本音だったのだ。
しかし、九乃一がそのような判断を下した理由を知れば、反論を述べるべくもない。
理由は、簡単。
「幻想体でもないきみとは、本気でやり合うわけにはいかないからね」
現実空間に戻った九乃一は、頭に付けていた神経接続器を外しながら、寝台に座り直した。その挙措動作のどれひとつとっても優雅に洗練されているのは、さすがは星将というべきか。
「それは……そうですね」
幸多も寝台に座るようにして、九乃一と向き合った。九乃一の意見は、もっともだ。
幸多は、幻想空間に干渉し、介入する異能を手に入れてしまった。しかも、幸多が意識して行っていることではなく、無意識的に発動してしまう能力であり、故に幸多の幻想空間を用いた訓練の効率は急激に落ちていた。
幻想訓練は、どれだけ負傷しても、どれほど破壊されても、すぐさま復元し、何度となく再戦可能な幻想体を用いるからこそ、効率的といえるのだ。致命的な損傷も、限りない消耗も、現実で起きているわけではないのだから、瞬時に回復できてしまう。
それが幻想訓練最大の利点だ。
しかし、幸多の異能は、幻想訓練のそうした利点を尽く殺してしまっており、真星小隊ですら、幸多を交えた幻想訓練をまともに行えなくなっていた。
本来、幻想空間で受けた傷は、幻想体という情報に加えられた変化に過ぎない。
だが、幸多の場合は、そうではない。どれだけ軽い傷でも現実に持ち帰ってしまう。致命傷など、与えられるわけもない。
故に、九乃一は、訓練を取り止めざるを得なくなったのだ。
本当ならば、時間の許す限り、幸多を扱き上げようと想っていたのだが、どうやらそういうわけにはいかなくなってしまった。残念なことだが、致し方のないことでもある。
また、幸多のその特異性が制御不能であるという事実を前もって把握していれば、訓練に誘うこともなかっただろう。
「まあ……きみはまず、幻想訓練を正常に行えるようになるべきだね。さっき、きみは幻想体を制御して見せただろう? 分身のようにさ。自分の体をここにおいて、幻想体だけで幻想空間に行くことはできないのかな?」
「あれは……」
幸多は、どう返答するべきか考え込んだ。九乃一の虚を突くため繰り出した幻想体の突撃は、無意識的に行ったものだった。本人の体とは別に幻想体を具現することができるというのも、今回、初めて試して見たことなのだ。
この能力には、謎が多い。
なぜ、幻想空間という情報だけの領域に干渉し、現実世界と同じように実感することができるのか。そのときの幸多にとって幻想空間は、仮想上の、情報だけの空間などではないのだ。
全て、現実と同じような感覚があった。
情報に触れることができている。
「……試したことはない、か。だとしても、幻想体を構築することができるということはわかったんだ。これからはその能力を使って、どうにかして幻想空間に入り込む方法を模索するべきだ。でないと、せっかくの星将との訓練も時間の無駄になってしまう」
「時間の無駄……」
「そうだろう? ぼくときみが本気で殺り合うことができなかったのは、とんでもない損失だ。星将だって暇じゃない。きみと訓練できる機会がいつあるのかもわからないんだ」
九乃一の伽羅色の瞳が、幸多を見つめていた。その瞳の奥には、強い意志の光が宿っている。射抜くような眼差し。
「今日が今生の別れになったのだとしても、おかしくはないからね」
「それは……」
幸多は、なにをいうべきかわからず、九乃一の目を見つめ返すことしかできなかった。
「そういうものさ。特に最近は、そうだね。星将も、いつ死んでもおかしくないような戦いが続いてる。だれだって死にたくはないし、死ぬために戦っているわけじゃない。けれども、死に直面してもなお、最後まで戦い続けるのがぼくたち導士というものだ」
九乃一は、その場から立ち上がり、大きく伸びをした。それから、天井照明の柔らかな光に目を細め、幸多に視線を戻す。幸多は、反応に困っているような表情をしていた。
彼もまた、数多の死線を潜り抜けてきた猛者だ。だから、かける言葉などではないのは百も承知なのだが、九乃一は、告げた。
「逃げてもいい。いや、きみたちは逃げろ。死ぬまで戦い続けるのは、ぼくたち星将に任せればいいんだ」
九乃一は、そういうと、訓練室を後にした。
幸多は、九乃一の後ろ姿を目で追い、扉が閉じるまで見つめ続けていた。
訓練室を出て、通路を進む。
戦団本部の総合訓練所、その出入り口に併設された休憩所兼待合所は、一種の憩いの場となっている。いくつもの長椅子が並び、無数の幻板が壁際に展開されているのだ。
それら幻板に表示されているのは、現在行われている幻想訓練の内、公開設定がされているものの中から無作為に選出されたものだ。
訓練を終えた導士たちや、休憩中の導士たち、あるいは待ち合わせ中の導士が、自分より優秀な導士の訓練風景からなにか学び取ろうとしているのである。
「軍団長!」
「お疲れ様です!」
すると、物凄い勢いで駆け寄ってきたのは、金田朝子と友美の姉妹だ。皆代幸多と同期入団の二人は、九乃一の第六軍団に所属しており、最近ではめきめきと頭角を現しているという評判だった。
あの夏合宿に選抜され、一ヶ月間、徹底的に扱き上げられた人材なのだ。
そもそも才能を見込まれたからこその選出であり、合宿期間中、音を上げることなく成し遂げたのだから、それ相応の結果を出すことはわかりきっていたことだから、九乃一は別段、称賛しない。当たり前のことを当たり前にしているだけのことなのだ。
一方の姉妹は、九乃一に心酔しているといわんばかりの表情だ。
「疲れてはいないよ。きみたちも見てただろう。不完全燃焼とすらいえるほどのものじゃなかった」
「それはそうですけど」
「なんで途中で止めたんです? 皆がっかりしてましたよ?」
「皆?」
「はい」
頷いて、朝子が休憩所を見遣る。休憩所に屯する導士たちが、こちらの様子を窺っていた。当然だろう。なんといっても新野辺九乃一がいるのだ。注目せずにはいられないはずだ。
九乃一が彼らの立場ならば、質問すら投げかけたかもしれない。
「皆代幸多がボコボコにされるのを期待して?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
「入団当初ならともかく」
「入団当初ならあったというわけだ」
「ありましたよ、そりゃあ。ねえ?」
「あったあった! 本当、幸多くんへの風当たりの強さったらなかったんだから」
「……まあ、そりゃあそうか」
九乃一は、金田姉妹が幸多を語る際の表情に目を細めた。
対抗戦決勝大会を戦い、同期入団した間柄でもあれば、夏合宿で苦楽を供にした関係なのだ。二人からしてみれば、幸多は仲間に等しい存在なのかもしれない。
そして、幸多は、魔法不能者だ。
作戦部の情報官たちが寄り集まって幸多を賞賛するためだけの食事会を開催するほどには、魔法不能者なのだ。
魔法が使えない人間になにができるというのか、という想いが、魔法士たちにはある。
魔法社会の根底に息づく価値観であり、考え方は、戦団の導士のだれもが意識の奥底に持っていたとしてもおかしくはない。
九乃一だって、そうだった。
魔法不能者にして完全無能者たる彼に一体なにができるのか。戦闘部に入るなど、死にに来るようなものではないか。初任務すらも成し遂げられず、命を落とすのが関の山なのではないか。
そのように、幸多の戦闘部入りを反対する意見も少なくなかった。
だが、幸多は、今日まで数多の戦果を上げ、実績を積み上げてきた。
いまや彼の実力を疑うものはいまい。
故に、彼と九乃一の訓練が注目を浴びたのだとしても、なんら不思議ではなかったが。
「少し……残念だったな」
「はい?」
「いや、こちらの話だよ」
「なんなんです?」
金田姉妹に両側から挟まれて、九乃一は、軽く肩を竦めた。
姉妹の馴れ馴れしさにではなく、皆代幸多と全力で戦えなかった事実に、だ。