第九百八十一話 新野辺九乃一(三)
頭上には、雲ひとつ見当たらない青空が広がっている。
吹き抜ける風は穏やかで、冬の気配すら感じさせない。
十二月も半ばを迎えようというのにだ。
眼前に広がるのは、見慣れた風景。
葦原市中津区本部町を縦断するようにして流れる、未来河の川沿いから見る景色。
よく幻想訓練の戦場として選ばれるのは、やはり、葦原市内での戦闘を想定した訓練の必要性が高いからだ。
幻魔災害はいつ何時、どんな状況であっても起こり得る。
突如として目の前の一般市民が死に、幻魔の発生源になることもあれば、どこからともなく幻魔が出現する事態だってあり得たし、実際に何度となく起こっていた。
葦原市は央都四市の中心に位置するだけあって、近隣の〈殻〉から侵攻される可能性は限りなく低い。大和市や出雲市が防波堤の役割を果たしてくれているのだ。
また、葦原市の南側は海に面しており、地球全土を見渡せば、海上や海中にも数多の〈殻〉があるはずなのだが、幸いなことに葦原市近海には〈殻〉がなかった。至近距離には、だが。
それは、大和市や水穂市にもいえることではあるのだが、両市は、地上の〈殻〉に隣接しているため、葦原市以上に独特な緊張感に包まれている。
とはいえ。
「緊張感がないというのは、言い過ぎだけれど」
ぼそり、と、九乃一はつぶやき、己の脳内を巡る思考に釘を刺した。
央都四市のいずれもが常に必要なだけの緊張感に包まれているという事実を考えれば、いまの浅はかな考えは否定しておくべきだろう。それがたとえわずかに脳裏を過った愚かな想像なのだとしても。
「はい?」
当然、対面の相手は、困惑するしかないといった反応だ。
それまで黙して対峙していた相手が突然わけのわからないことをいいだしたのだから、当たり前だろう。
「ごめんごめん、こっちのことだよ。本当に、なんでもないんだ」
九乃一は、相手に謝ると、彼を見た。
場所は、未来河の河川敷である。
未来河は、葦原市の象徴ともいうべき大河だ。北東から南西へとゆるりと蛇行するようにして流れる大河は、葦原市を北部と南部に分断している。もちろん、現代魔法社会において、川による分断など大した意味はない。そもそも川にはたくさんの橋がかかっているのだが、誰もが飛行魔法を使える以上、橋があろうとなかろうと行き来は自由だ。さらにいえば地下道もあるし、地下鉄道もある。
故に、大河は、悠然と、その雄大さを見せつけることができるのであり、人が余計な手を入れる必要性もないのである。
万が一にも水害が起きないように対処しておく必要は、あるのだろうが。
それは、ともかく。
相手である。
九乃一は、いつも通り、導衣を着込んでいた。魔女を連想させる導衣は、女性用のものというよりは、彼専用の導衣である。彼が専属のデザイナーに提案し、発注し、完成した導衣は、この一着だけではない。
状況に応じて導衣を着替えるのは導士の基本戦術だが、九乃一の場合は、気分によって導衣を着替えることが少なくなかった。
それが、重要なのだ。
気分は、戦闘力を上下させうる。
その一時の感情が魔素を増幅し、あるいは減衰するという研究結果は、彼にとっては実感として理解できるものだった。
男性用の導衣を身につけて戦うたびになにかが違うのだ。気分が乗らず、魔力が滾らず、放つ魔法は精彩を欠いた。
自分に合った導衣を身につけるようにすると、今度は打って変わって、精神が昂揚し、魔力が満ち溢れ、魔法はより破壊的に、より高精度となったのである。
そうした実体験を経れば経るほどに、彼は、導衣の意匠に凝るようになっていった。そしてそれに対し、意見を述べるものなどいなかった。
魔法社会は、実力社会だ。
優れた魔法技量の持ち主の考えを否定したいのであれば、それ相応の魔法技量を示す必要がある。
導士として、星将として、数多の成果を上げ、戦績を積み上げてきた九乃一に意見できる人間など、戦団内でもそうはいないのだ。
では、目の前の彼は、どうか。
手持ち無沙汰といった様子で河川敷に立ち尽くすのは、皆代幸多である。
天流と命名されているらしい闘衣を身につけた彼は、やはり想像上の魔法使いというよりは伝説に登場する戦士のようだ。歴戦の猛者の風格を漂わせていることも、そうした感想を抱かせる理由になっている。
それは、そうだろう。
九乃一は、彼のことを多少、羨ましく想わざるを得ない。
幸多は、入団以来、幻魔災害や魔法犯罪に巻き込まれること数え切れなかった。そしてそれらを生き抜いてきたことが、膨大な戦闘経験が、彼自身の血となり肉となっているのである。
軍団長でも、幸多のような死線の連続を経験したものはいないのではないか、と想うほどだ。
そして、幸多の目は、変わった。相変わらずどこか幼さを帯びた褐色の目は、しかし、戦士としての光を宿していたし、強く、猛々しくもあった。
いまから四ヶ月前の八月中に行われた新人強化合宿で彼の面倒を見たときとは、全く違うまなざし。
その光こそ、彼が幾多の死線を潜り抜けてきた証であろう。
九乃一は、そんな彼だからこそ、幻想訓練に誘ったのだ。
無論、情報官たちとの食事会を強引に終わらせたりなどはしていない。
〈鉄の杖〉を敵に回すような事態は、たとえ星将であっても避けるべきだ。
〈鉄の杖〉は、戦団で働く魔法不能者たちのネットワークであり、仮に不能者差別を行う導士が現れれば、即座に情報が共有されるのである。その結果、なんらかの不運がその導士を襲うことは想像に難くない。
無論、戦場で必要な情報を流さない、などという生死に関わることはしないだろうが。
〈鉄の杖〉の情報官たちは、不能者差別を断じて許さないが、だからといって差別者を理不尽な目に遭わせるような人間ではない。そもそも、そのような人間は、戦団にはいられないはずだ。
だからといって彼女たちの機嫌を損ねるのは、九乃一としても避けたかったから、幸多との食事会が終わるまでは、金田姉妹の訓練をしていたのである。
金田姉妹は、ついでとはいえ、軍団長直々に訓練してもらえるということで、幸多に感謝すらしていた。
幸多は、きょとんとしていたが。
幸多には、なにがなんだかわからない。
幸多は、今日、休養日だった。精密検査を受けるようにいわれていたということもあって本部を訪れると、〈鉄の杖〉の面々との食事会になり、さらに九乃一に訓練の誘いを受けたのだ。
なんだか今日は、休養日とは思えない忙しさだった。
葦原市内を模した幻想空間上で、幸多は、九乃一と対峙していた。創作物における魔女を連想させる導衣を身につけた九乃一の周囲には、既に無数の律像が浮かんでいる。複雑な図形が絡み合い、魔法の設計図を虚空に描き出している。急速に、超高密度で。
「あれからおよそ四ヶ月……いや、三ヶ月強、かな」
「はい?」
「合宿最終日から、だよ」
「ああ……」
九乃一の言に納得し、幸多は、静かに頷いた。
およそ一ヶ月の間行われた夏合宿は、幸多にとって忘れがたい日々だった。幸多、義一、真白、黒乃、金田姉妹、菖蒲坂隆司の七名の新人導士を徹底的に鍛え上げるべく、戦団の導士が入れ替わり立ち替わり指導してくれたのだ。毎日が地獄のような鍛錬の日々だったが、そのおかげで今があるということは、全員が理解している。
九乃一が教官として扱いてくれたことも、何度もあった。何度も、何度も、幸多たちを徹底的に指導してくれたのだ。
その経験が、幸多の中に息づいている。
「きみは、変わった。合宿中のきみからは想像もつかないほどにね。それだけ死闘の連続だったということなんだろう」
九乃一は、幸多が律像を見ていることに気づき、すぐさま律像を変化させた。想像を巡らせ、魔法の設計図を再構築する。
完全無能者の幸多が律像を視認できるのは、闘衣のおかげなのだろうし、ノルン・システムの支援を受けることができるということを踏まえれば、律像を読み解き、つぎに来る魔法を把握することも不可能ではないのではないか。
「実戦は、人を成長させる。生き延びられれば、の話だけれど」
その言葉を、真言とした。
直後、九乃一の影から無数の手裏剣が飛び出し、幸多に殺到した。