第九百七十九話 魔暦二百二十二年十二月(四)
十二月上旬。
西方境界防壁防衛戦から二十日が過ぎた。
あの日以来、央都を取り巻く情勢に変化らしい変化は起きていない。
旧オロバス領、旧エロス領が、天使型幻魔の〈殻〉となったが、それはむしろ、戦団にとって、人類にとって好都合としか言い様のない出来事だった。
天使型幻魔は、人類の守護者と名乗り、戦団に味方した。
それがただの言葉ではなく、実を伴うものだということは、天使たちの戦いぶりからも明らかだったが、〈殻〉を形成してからというもの、さらに確かなものとなっている。
天使たちは、率先して周辺の〈殻〉を牽制し続けており、幻魔の動きを抑制しているというのである。
「天使たちのおかげで、央都西側の護りはより堅牢になった――といってもいいくらいよ」
「そこまで……なんですか」
幸多は、イリアの話を聞きながら、自分の手を見ていた。
戦団本部中枢深層区画。
通称、アスガルド。
その奥深くに位置する半球形の空間は、天井から降り注ぐ青白い光に照らされていた。その光の中、様々な機材が稼働し、無数の幻板が様々な情報や映像を映しだしている様は、すでに見慣れた光景といっていい。
幸多は、闘衣を身につけた状態で、調整台と呼ばれる寝台のような機材の上に仰臥し、検査が終わるのを待っているのだ。
あの戦いからというもの、定期的に精密検査を受けている。
そもそも、幸多の特異体質に対する懸念から、定期検診を受けることにはなっていたのだ。それも戦団本部の設備を用いた検診でなければならず、衛星任務中であっても、月に一度は戦団本部に戻らなければならなかった。
戦団本部の設備を用いなければならないからだ。
幸多の体質には、重大な問題がある。
完全無能者として生まれ落ちた幸多は、本来ならばこの膨大な魔素に満ちた世界では肉体を数秒たりとも維持できないはずなのだ。
この宇宙において、ありとあらゆる生物・非生物が、内外の魔素の均衡を維持することによってその存在を保っている。
かつて、ネノクニから地上に上がろうとした調査部隊が、大昇降機の上昇中に全滅したという大事件がある。
それは、旧世代の人間の体では、地上の魔素濃度に耐えきれなかったからだ。魔素の圧力により、自壊していったのだという。
そのような地上の現状に対応するべく研究され、誕生したのが異界環境適応処置――通称、魔導強化法である。
元より体内に魔素を生まれ持つ生物ですら魔導強化法を施術されることによって、ようやく、この地上環境に順応し、生きていけるようになったのだ。
そして魔導強化法は、魔素の生産量を爆発的に増幅するための改造手術だ。
つまり、完全無能者たる、魔素を生産する機能を持たない、不完全極まる生物たる幸多には意味のない手術だということだ。
故に、幸多を母胎から取り出すはめになった医師・赤羽亮二は、大いに苦悩したはずだ。だが、赤羽亮二の超天才的な頭脳と技術力は、幸多を生かすことに成功した。
赤羽亮二が独自に発明した超分子機械が、それだ。
幸多の体内に宿る莫大な数の超分子機械群が、この肉体が魔素圧によって崩壊するより早く体細胞を生成し続けており、それによって生きていられるようになったのだ。
それだけの超技術を赤羽亮二という個人が持ちうるのか、という点には疑問が残るところであり、戦団も目下、全力で調査中らしい。
幸多も、戦団が赤羽医院を差し押さえ、赤羽亮二の研究資料を押収したという話までは耳にしているが、そこから先、どれほどの情報が得られたのかについてはわかっていない。
赤羽亮二の技術力がどう考えても異様なのは、幸多にだって理解できることだ。
しかし、幸多は、赤羽亮二を疑いたくなかった。赤羽亮二のおかげで幸多が生きていられるというのもそうだが、赤羽亮二は統魔の実の父親である。その上、幸多の母・奏恵にとって赤羽医院は心の支えでもあったのだ。
皆代家全員が世話になっているといっても過言ではなかった。
幸多が赤羽医院の調査の進捗を知らないのは、知ろうともしていないから、ということもあるのだ。
そもそも、戦団技術局を陵駕する超技術を持っているからなんだというのか。
そんなことは、大した問題ではないのではないか――と、口に出していえるはずもなく、幸多は、精密検査の結果を待った。
「オロバス領跡地に〈殻〉を築き上げたのは、熾天使ウリエル。きみたちを窮地から救ってくれた天使よ。覚えているでしょう?」
「はい。それはもう、とても助かりましたから」
エロスの分身たちによって壊滅的な状況に陥った幸多たちは、ウリエルの介入によって苦境を脱することができた。そして、殻石の安置所へと直行し、殻石の破壊へと繋がるのだから、ウリエルこそ命の恩人、勝利の立役者といっても過言ではあるまい。
「ウリエルの〈殻〉は、セベクやルサールカの〈殻〉に対する防波堤として機能しているわ。天使たちが本当にわたしたちの、人類の敵ではないというのなら、そのままで在り続けていて欲しいくらいよ」
「防波堤……」
「まあ、長らくオロバス領も防波堤だったんだけれどね」
だから、天使たちに期待してはいけないし、警戒し続けなければならないのだ、と、暗にイリアはいった。いいつつ、指先で眼の前の幻板を弾く。
幸多の眼の前に移動してきた幻板には、なにやら異形の神殿めいたものが映し出されていた。遥か高空から撮影されたのであろう、ウリエルの〈殻〉だということは幸多にもすぐに理解できた。
かつてのオロバスの〈殻〉は、先の戦いで壊滅的な打撃を受けた。それこそ、致命的といってもいいほどの被害があったはずだ。地形そのものが激変するほどの死闘は、星将と鬼級の衝突ならば当然のものといえる。
その戦いの末に変わり果てた地形は、ウリエル率いる天使型幻魔の手によって、根本的に作り変えられているのだ。
荘厳な神殿を中心とする、天使たちの楽園へ。
「相変わらず、身体的にはなんの問題もなさそうだ。いや、むしろ元気百倍なんじゃないかい?」
などと軽口を叩いてきたのは、イリアとは離れた場所で端末を操作している妻鹿愛である。
日岡イリアと妻鹿愛。
戦団が擁する天才技術者と医務局の女神が、幸多の精密検査のためだけに時間を取ってくれているのだ。幸多は、二人が自分のために時間をかけてくれているという事実に感謝してもしきれなかったし、戦団がそうまでしてくれていることにも、感激してばかりだった。
戦団が、幸多を生かしてくれている。
幸多は、無謀な挑戦者だ。
本来ならば戦闘部に所属することすら許されない身の上でありながら、窮極幻想計画があってのこととはいえ、許可し、支援してくれている。それも全力で、だ。
その想いに応えなければならない、と、幸多は心に誓う。
「は、はい。なんだか最近は、以前よりも体が軽いような気がします」
「気のせい……でもなさそうね」
「はい」
イリアの目を見つめながら、幸多は、確信を以て頷いた。
防衛戦を経てからというもの、幸多の体の調子が良いのは確かなのだ。ただ体の調子が良い、というのとはわけが違う。体のキレが増し、五感が冴え渡っているような感じがある。
小隊で訓練をすると、よくわかる。
以前ならばありえなかった反応で黒乃や義一を打ちのめしていることが、多々あった。真白が、訓練なんだから手加減しろ、と、彼らしからぬ苦言を呈してくるほどだ。
それほどまでに体が動いた。
想像通り、いや、想定以上の力が発揮できる。
「幸多くんの中の分子機械がより活発に稼働していることが原因なのかしら」
「かもしれないね。あの日以来、超分子機械くんは全力で活動中だ。まるでそうでもしないと幸多くんの体を維持できないとでもいわんばかりにね」
「それは……」
「……情報子とやらが関係している気がしてならないよ」
「情報子……」
幸多は、目の前に右手を持ってきて、手のひらを開いた。意識すると、手のひらに青白い燐光が浮かび上がり、消える。
超分子機械と大気中の魔素との摩擦によって生じる光は、熾天使メタトロンによって情報子という呼称を持つことを教えられた。
万物に宿る魔素、その根幹と言っても過言ではない代物だという。
あらゆる生物、あらゆる物質、あらゆる存在の根源にも等しいもの――天使の言を信じるならば、そういうことになる。
だが、そんなものがどうして幸多に制御できるのか、というのは大問題だった。超分子機械によって制御できているのか。それとも、なにかほかに理由があるのか。
なにかしら、特別な力があるとでもいうのか。
異能が。
「悪魔を滅ぼす力か」
イリアは、幸多の手がわずかに光を帯びた瞬間を見逃さなかった。青白い燐光。この世のものとは思えないほどに美しく、破滅的な光。それは一瞬だけ幸多の顔を照らし、消えた。それだけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない。
幸多の肉体に起きた変化については、既に確認済みである。
幸多の記憶から、幸多の身に起きたことは全て把握できている。
あのとき、アザゼルの急襲に遭い、メタトロンに救助された幸多は、情報子と呼ばれる光を放ち、悪魔を撃退したのだ。
悪魔には、通常の魔法は通用しなかった。星象現界すら効果的ではなさそうなほどに強大無比な力を持っているのが、悪魔であり、天使なのだ。
あれらを滅ぼすには、情報子を直接叩き込むしかないとでもいうのか。
だとすれば、幸多の存在は、戦団にとって、人類にとって極めて重要なものにならざるを得ない。
いまや幸多の名は、双界に知れ渡っている。
二度に渡る殻石破壊を成し遂げた真星小隊の隊長である。鬼級幻魔の消滅を促し、〈殻〉を崩壊させるという英雄的活躍を果たしたのだ。
破殻星章なる新たな勲章を授与された幸多は、新世代の英雄として、超新星として、正に爆発的な光を放ち始めていた。