第九百七十六話 魔暦二百二十二年十二月(一)
魔暦二百二十二年十二月。
先の十一月下旬に勃発した西方境界防壁防衛戦は、戦団側の大勝利に終わった。
それが、戦団の公式見解であり、双界の住人たちにとってはそれが真実だっただろう。ほかに情報源があるのであればともかく、そんなことがあるはずもなければ、現状、双界全土が安定しているというのであれば、疑う理屈もなかった。
また、西方境界防壁防衛戦は、戦団史上最大規模の戦いだった。
動員された導士は、二千八百名。第七軍団を中心とし第九、第十軍団が合流することで、その規模の大軍団を形成した
さらに戦団が企業と協力して開発、完成に漕ぎ着けた次世代兵器、汎用人型戦術機クニツイクサが実戦投入されている。
高天技術開発に所属する機動戦闘大隊クニツカミは、百機ものクニツイクサを駆り、露払いとして十二分以上の働きをして見せている。
つまり、クニツイクサの有用性を世に示したのだ。
戦後、高天技術開発の評判は上々であり、天燎財団の評価も上がる一方だった。もちろん、境界防壁の建設に関わった企業連全体の評価も、上がっている。
さて。
二千八百名の導士と、百機のクニツイクサ――合計二千九百の戦団側戦力に対し、敵戦力は、三百万から四百万を優に超える幻魔であった。
大半が霊級、獣級であるとはいえ、二重殻印が刻まれ、大幅に強化された個体が大半であったことを踏まえれば、彼我の戦力差は圧倒的としか言いようのないものだっただろう。
それでも、勝機がないわけではなかった。
勝機がない戦いなど、余程のことでもなければするわけがない。
いや、そもそも、オロバス軍の動きは、央都方面への侵攻を企図したものなのだから、なんとしてでも食い止めなければならず、打ち勝たなければならなかったのだが。
だとしても、勝ち目のない戦いをするわけもない。
もちろん、各方面の護りを手薄にすることなどできるわけもなく、動員できる戦力には限りがあり、それがその二千八百名と百機のクニツイクサなのだ。
戦団側の勝利条件は、ただ一つ、
オロバスの撃破である。
それによってオロバス軍が侵攻を中止、撤退することこそが戦団側の目論見だったのだ。
もちろん、オロバスの背後にエロスが存在し、エロスの意向によってこの度の侵攻作戦が企てられた可能性も考慮していた。
だからこそ、三人の星将に加え、二人の星将を投入する準備をしていたのだ。
そして、戦場にエロスが出現するという想定通りの事態になった。
鬼級幻魔バルバトスの参戦という想定外の事態もあったが、しかし、オロバスとエロスさえ撃退すれば、侵攻を食い止めることは可能だと戦団側は判断し、バルバトスの相手は杖長たちに一任した。
バルバトスは、斃す必要はない。
オロバス、エロスを撃退するまでの時間稼ぎができればそれで良かった。
そしてそのために杖長たちが全力を駆使し、また、星将たちも、死力を尽くした。
戦場のあらゆる場所で熾烈な戦いが繰り広げられ、数多の命が失われた。
戦団側は、大勝利を宣言した。
オロバス、エロスを撃滅し、二つの〈殻〉が地上から消滅したのだ。
戦団史上最大の勝利といっても過言ではなかったのではないか。
戦いの最中、三百五名の導士が戦死したが、それは前進のための必要な犠牲、払うべき対価であり、だれもが胸を張って死んでいき、英霊となったのだ――と、合同葬儀の場で、戦団総長・神木神威が熱弁を振るった。
大規模な戦いが起きるたびに、戦死者が出る。戦死者が出る度に、英霊が増える。英霊は、これから先、人類が完全に復興するまで増え続けるのだろうし、そればかりはどうしようもないことなのだろう、と、だれもが理解し、納得している。しなければならない。
どのような想いが溢れそうになろうとも、飲みくださなければならないのだ。
それがこの魔界で生きていくための掟だ。
力こそが全て。
故に、人類は、この地上に自分たちの寄る辺を手に入れた。
力によって。
多くの犠牲を、対価を払い、どうにかして拡大し、維持し続けている。
戦団の戦いを批判する声も、ないではない。だが、そうした声を上げるものたちが、具体的かつ革新的な対案を掲げることはしない。
戦団への非難は、感情論が大半だ。
多大な犠牲を払ってまで、人類生存圏を、央都を拡大する必要はあるのか。央都四市とネノクニを、双界を維持するだけで十分ではないのか。これ以上、なにを求めるというのか――。
反戦団活動家たちの上げる声に同調する市民もいないわけではないが、決して多くはない。
それは、そうだろう。
戦団こそが、この央都の要だ。いや、双界の根幹といっても過言ではない。
戦団が、人類を守護し、この世を支えているからこそ、人々の日常は成り立っている。
多くの市民は、その事実を理解しているからこそ、戦団の活動方針を支持しているのであり、導士たちの死を貴い犠牲として受け入れ、哀悼の意を表するのである。
「仕方がないだろ」
統魔は、憮然とした表情で、ぼやいた。
病室の片隅に設置された強化樹脂製の時計は、午前零時を示している。真夜中も真夜中だ。本来ならば皆代小隊の隊員たちは、任地である第三、第四衛星拠点にいるべきであろう。
だが、心配性の部下たちは、上司である杖長・味泥朝彦に頼み込み、時間を捻出しているのだという。
一秒でも長く統魔の看病をするために、だ。
戦いの終盤から意識を失い続け、いつ目覚めるかもわからない隊長のことが心配で心配で堪らなかったのだろう。
そんな話を聞けば、統魔は、部下たちのことを心底愛おしく想うしかない。ルナが人間とは比較にならない力で抱きしめてくるのも、受け入れざるを得なかった。彼女の頬を伝う涙を拭ってやれるだけの甲斐性は、ないのだが。
「それが戦うってことだ」
「それは……市民の皆様も理解しておられるはずですが」
「中には、そういう不粋な連中もいるということだな。それにだ。央都市民全員が全く同じ価値観に支配されていないというのは、むしろ良いことだとおれは思う」
「そうだよねー。自由ってことだもん」
「自由……か。そうだな」
統魔は、枝連と香織の発言に頷き、ルナを見た。彼女は、ずっとこちらに笑顔を向けている。満面の笑顔だ。この世の幸福を全てそこに集めたかのように、光を帯びている。
眩しいくらいだった。
おそらく、彼女にとってこの二十日間ほど辛く苦しいものはなかったのではないか。だから、統魔もそんな彼女の暴走にも似た全力の抱擁を黙って受け止めるのである。
「戦団は、なにかを強要することはない。導士になることも、止めることも、戦うことも、死ぬことも。なにひとつ強制していない。導士のだれひとりとして、死ぬために戦ってなんていないんだ」
統魔は、戦場の光景を脳裏に思い浮かべながら、告げた。
あの戦場において、統魔は、思う存分に戦った。持てる限りの力を使い、消耗し尽くしてもなお、戦い抜いた。それは、戦団に命令されたからではない。軍団長に、杖長に、あるいは作戦司令部に指示されたからなどではないのだ。
指示や命令はあれど、戦ったのは、己の意志だ。
己の意志こそが全てであり、それだけが統魔を戦場に駆り立て、奮起させるのである。
燃え盛る怒りも、煮えたぎる憎悪も、吹き荒ぶ嵐のような激情も、全て、統魔の内にある。
それらが魔力となり、星神力となって荒れ狂った結果が、このザマなのだが。
「それでも、人は死ぬ。幻魔と戦っているんだ。いつどこでだれが死んでも、おかしくなんてない」
ついこの間――いや、もう既に二ヶ月近く前になるが、軍団長が死んだ。
第五軍団長・城ノ宮日流子の戦死ほど、衝撃的な報せはなかった。
戦団最高戦力の一角であり、最高峰の魔法士である星将が死んだのだ。
鬼級幻魔と一対一の戦いとなれば、星将とて命を落とす可能性は十二分以上にある。
そんなわかりきったことをいまさら確認するまでもないのだが、しかし。
日流子の死は、統魔にも、幻魔との戦いの恐ろしさを再確認させた。
自分は、どうだったか。
他者よりも優れた魔法の才能に恵まれて生まれ落ちた自分は、戦場で死を感じたことがあっただろうか。
死に臨んでいるという感覚を抱いていただろうか。
調子に乗ってはいなかったか。
幻魔など敵にもならないと、心の何処かで思ってはいなかったか。
首に触れる。
アーリマンに握り締められ、潰されそうになった首には、もはや傷痕一つ残っていない。黒く侵蝕されていたという痕跡すらもだ。
生きている。
生き残っている。
その実感を確かに認めて、統魔は、ルナの頭を撫でた。
いつの間にか、彼女が寝息を立てていたからだ。