第九百六十七話 いつか聞いた声(一)
防壁拠点の各所に設けられた簡易治療所は、盛況を極めていた。
此度の戦いに際し、戦団本部から送り込まれた医務局員たちは、休む暇もないくらいに働き回っている。戦いの最中から、現在に至るまで、ずっとだ。つぎつぎと飛び込んでくる導士たちの対応に追われているのであり、これらが落ち着くまでしばらく時間がかかるだろう。
とはいえ、戦団本部からの医務局員の増援が到着するまでの辛抱である。
なにより、死線を潜り抜け、命からがら生き残ることができた戦闘部の導士たちに対し、疲れている顔を見せるわけにはいかない、というのが医務局員の矜持だ。
だから、医務局員の誰一人として泣き言一つ漏らさなかった。
戦闘部導士たちが戦い抜いてくれたからこそ、今がある。
だれもがその事実を噛みしめるようにして、理解しているのだ。
そんな治療所の一角にあって、静まり返っている空間があった。
そこだけは、戦後の騒がしさとは全く無縁なのではないかというほどに音がなく、どこか陰鬱な空気感にすら包まれている。
その場所に近づいた幸多が、思わず足を止めてしまったのもその空気の重さ故だ。
通路の奥に設けられた簡易治療所内に足を踏み入れれば、その一角が隔離された空間になっていることがわかる。特殊合成樹脂製の衝立で囲われているのだ。その技術局謹製の衝立が周囲の音を吸収し、隔離された空間内の静寂を維持している。
衝立の内側を覗き込めば、その中心に一つの寝台があり、幸多もよく知る人物が仰向けに眠っていた。
統魔である。
そして、その統魔の様子を心配そうに見つめているのは、本荘ルナであり、上庄字であり、皆代小隊の面々だった。
幸多がここを訪れたのは、統魔の容態を聞き知ったからであり、急いで駆けつけたのだ。そして、統魔の部下たちの様子を目の当たりにして、かけるべき言葉を探さなければならなくなってしまった。
重力すら感じるほどの静寂を破ってもいいのか、とも考えてしまう。
皆、統魔のことが心配でならないといった表情だった。特にルナは、統魔の手を握り締めて、彼の寝顔を覗き込んでいる。
そんな中、幸多の存在に気づき、声をかけたのは香織だった。
「弟くん、来てくれたんだね」
「は、はい」
普段賑やかすぎるほどに賑やかな香織が、いつもとは打って変わった様子で話しかけてきたものだから、幸多は、息を呑んだ。皆代小隊の隊員にとって、統魔がどれほど重要な存在なのか、そうした言動一つで理解できるというものだろう。
統魔は、きっと、彼らにとって心の支えといっても過言ではないのだ。
香織以外の隊員たちも幸多に目を向ける。
「統魔は……大丈夫なんですよね?」
幸多は、だれとはなしに質問しながら、統魔に歩み寄った。病衣に着替えさせられ、寝台に眠る統魔の姿など、幸多の記憶にはほとんどなかった。子供のころから怪我や病気とは一切無縁だったのが、統魔なのだ。
魔法の申し子であり、神童として名を馳せていた統魔にとって、多少の怪我などないも同然だったし、入院を必要とするほどの大怪我をすることもなかった。
戦団に入ってからはその限りではないはずだが、統魔が重傷を負ったという話を聞いたことはない。生まれながらの魔法の天才である統魔は、導士としてもその才能を大いに発揮し、戦い抜いてきたのである。
そんな統魔が、いま、安らかな表情で眠っている。
命に別状はないという話は、聞いている。それでも、まったく目覚める気配がないということを知れば、いても立ってもいられなくなるものだ。
家族として、兄弟として、心配せずにはいられなかった。
「検査の結果、なんの問題もないということだ」
「ここに運び込むまでに治療もしてたし、当然だけどね」
「万が一のこともある。医務局員に診てもらうのが正解だ」
「そりゃそうだ」
枝連と剣が小声で言い合うのを聞きつつ、幸多は、ルナと字が統魔から視線を逸らさない様を見た。心の底から統魔の身を案じているに違いない。
統魔は、小隊長として隊員たちからの信頼も厚ければ、頼られていることはいうまでもないことだ。昨年入団したばかりの新入りの若造ではあったが、既に星象現界を体得し、煌光級三位にまで上り詰めている。
数多の死線を潜り抜け、多大な戦果を上げてきた統魔の活躍をその側で見続けてきたのであろう隊員たちですら、統魔のこんな姿など、見たことがなかったのではないか。
幸多は、そんな風に受け取った。
「命に別状はないということだけどさ。全然目覚めなくて。だからといって強制的に覚醒させるのはどうなのか、って医務局員の間で議論になってるんだって」
「愛さん……医務局長には診て貰えたんですか?」
「ううん。めがみさまもここに戻られたばかりだし、なにより、めがみさま御自身の状態も心配だし」
「それもそうですね」
静かに頷いた幸多の脳裏を過ったのは、防壁拠点に辿り着いた直後の五星杖の姿である。
今作戦においてもっとも活躍した五人の星将たちは、死闘に次ぐ死闘を経た様子も窺わせなかった。だが、実際には、精も根も尽き果てていたとしてもおかしくはない。長時間に及ぶ鬼級幻魔との激戦は、星象現界を酷使しなければならなかっただろうし、星神力も魔素も消耗し尽くしたはずだ。
そうでもしなければ斃せないのが、鬼級幻魔なのだ。
星将たちが一人として欠けることなく勝利することができたという時点で上出来だったし、そのために力を惜しまず、全力を尽くした結果なのだから、いうことはない。
むしろ、星将たちにはしっかりと休んでもらいたいと思うのだった。
めがみさまこと妻鹿愛も、いまごろ疲労困憊で寝込んでしまったのだとしてもなにも不思議ではない。むしろ、そうしていてもらいたいとすら考えてしまう。
あの激戦を乗り越えて平然としているものがいるとすれば、それこそ、化け物ではないか。
統魔も、そうだ。
力を使い果たし、意識を失ったまま、ここに運び込まれたのだ。目を覚まさないのは、余程消耗しているからだろうし、それも当然のことだと幸多は想うのだ。
統魔は、規格外の星象現界の使い手だった。三種統合型とも呼ばれる星象現界は、統魔だけが使える代物であり、星将たちですら瞠目するほどの力だった。
武装顕現型、化身具象型、空間展開型という三つの型式に分類される星象現界だが、通常、そのうちの一種でも発現すれば、それがその魔法士の星象現界として固定されるというのが定説だった。
そして、発現する星象現界は、その魔法士の本質そのものであり、故に自分で選ぶこともできなければ、変更することもできないのだという。
もちろん、魔法の奥義にして極致たる星象現界は、どのようなものであれ、強力無比である。
星象現界を体得したというのであれば、どのような型式であろうとも問題はないのだ。星象現界が使えるというただそれだけで、圧倒的な戦力となりうる。
統魔のように三型式の星象現界を使い分けたり、併用することができるのであればそれに越したことはないのだろうが、その場合は、今回のような結果になる可能性もある。
統魔は、星象現界の酷使と、アーリマンとの戦いの果てに意識を失ってしまった。肉体的には完全に近く回復しているというのに、覚醒の兆しすら見せない。
それもこれも、星象現界の酷使による消耗の結果ではないか。
幸多は、統魔のことが心配だったものの、隊員たちに見守られ、穏やかな寝顔を浮かべている様子を見て、多少なりとも安堵した。
命に別状がないのであれば、そのうち目覚めるはずだ。
幸多だって何時間も、いや、何日間もの間、意識を取り戻さなかったことがある。
統魔が長時間眠り続けたとしても、心配はいらないはずだ。
彼は魔法の申し子であり、将来、戦団を背負って立つべき導士なのだ。
こんなところで永遠の眠りにつくわけがなかった。
(だよね? 統魔)
幸多は、統魔の顔を覗き込み、寝息の穏やかさに目を細めた。
夢を見ている。
おそらくは、そうだ。
これは夢。
夢に違いない。
確信はないが、そうであって欲しいと思った。
(どうして?)
疑問が沸いた。
どうして、夢であって欲しいと思うのか。
風が、頬を撫でた。夏草の匂いを運ぶ風の穏やかさは、頭上から降り注ぐ太陽の光の温かさとともに、身も心も柔らかく包み込んでいくかのようだった。
風の音は、草の音。
前方に緑の波が起こっている。
広大な草原を吹き抜ける風によって引き起こされる緑色の波。
「ああ……」
彼は、思わず声を漏らした。
ここは、想い出の場所だ。
そして、始まりの。
「やめてくれ」
だれとはなしに懇願する。
「やめてくれよ」
統魔の声は、草原を吹く風に流れ、だれにも届かない。
ここは夢の中。
夢の世界であり、脳が見せる想像の世界。
願望の行き着く果て。
「どうして?」
疑問の声が、頭の中に響いた。
「どうして、止めて欲しい?」
聞き覚えのある、けれども忘れてしまった声。
風が、始まりの音を連れてくる。