第九百六十三話 戦いの終わり方(二)
『総員、撤収準備を急いでください! 繰り返します! この戦域に多方面から幻魔の軍勢が集結しつつあります! 総員、撤収準備を急いでください!』
作戦司令部から轟くのは、情報官の必死の叫び声だ。
それは、この長きに渡る西方境界防壁防衛戦が戦団側の勝利に終わったことを告げる報せであり、同時に絶望的な事態が急速に近づいてきているという現実を知らしめるものだった。
西方境界防壁周辺一帯、そしてオロバス領を含めた広大な戦域から、オロバス・エロス連合軍の幻魔が去った。
幻魔たちの王であったオロバス、エロスという二体の鬼級が斃れたからだ。
支配から解き放たれた幻魔たちは、眼前の敵に徹底抗戦するのではなく、脇目も振らずに逃散していった。
疲弊しきった戦団の導士たちに襲いかかることによって、天使の軍勢との戦闘が生じる可能性を嗅ぎ取った幻魔の本能が導き出した結論なのか、どうか。
なんにせよ、戦場に幻魔はいなくなった。
オロバス・エロス連合軍の幻魔も、悪魔も天使も、なにもかも。
そして、なんの力もない完全なる空白地帯が誕生したのである。
となれば、オロバス領を取り囲む複数の〈殻〉、その殻主たちが己が領土拡大のために尖兵を送り込んでくるのは時間の問題であり、自明の理だ。
〈殻〉をそっくりそのまま人類の領土として確保するには、殻石の霊石化が必要不可欠であり、殻石を破壊した以上はどうしようもないことだった。
「今度こそはと想ったんだけど」
義一が少しばかり悔しそうにつぶやいたのは、西方境界防壁へと帰投している最中のことだった。
真星小隊と城ノ宮明臣は、全員、無事に生還することができそうだった。
アザゼルの急襲という、予期せぬ、そして最悪の事態は、メタトロンの介入によって事無きを得た。メタトロンの守護と、幸多の異能によって撃退することに成功したのだ。
幸多にとって、その一連の出来事は現実感がなかった。夢を見ていたのではないかと思ってしまうくらい、なにもかもが現実離れしているような気がした。しかし、実際に起きたことだ。メタトロンの声が脳裏を過り、アザゼルの嘲笑が耳朶を掠める。
メタトロンは、アザゼルが去った後、義一たちの傷を癒やし、天へと帰っていった。その際、幸多にこう言い残している。
『きみは、将来、悪魔と戦う宿命にある。そのことだけは、覚えておきたまえ』
『ぼくの宿命……』
幸多の頭の中で疑問が膨れ上がるばかりだったが、意識を取り戻した部下や明臣に対応しなければならず、考え事に没頭している暇はなかった。
それから、第九、第十軍団の副長と合流した。八咫鏡子と平塚光作である。今度は、間違いなく偽物ではなかった。義一が入念に確認したが、その必要もなかっただろう。
そして、副長二人に護られながら空白地帯を横断、導士たちが撤収準備に急いでいる最前線へと辿り着いたのだ。
「霊石化のことかな?」
明臣が、義一を横目に見た。義一の黄金色の虹彩は、わずかに光を帯びているように見える。見るからに神秘的であり、幻想的だ。この世のものとは思えないほどに美しく、強い力も感じられる。
その力があればこそ殻石を発見し、破壊することができたのであり、勝利に繋がったのはいうまでもない。
そして、その力の真価こそが霊石化なのだ。
「はい。前回、ムスペルヘイムでも失敗したんです。本当は、殻石を霊石に作り替えたかったのに、それができなかった。破壊するしかなくなってしまった……」
殻石を霊石に転じる技術は、同じく真眼の持ち主である伊佐那麒麟が編み出したものだ。麒麟は独自に編み出したその技術によって、央都四市の土台を手に入れて見せたのである。
麒麟が央都の母のように謳われるのは、そうした事実に基づいている。
まさに麒麟は、大いなる地母神の如き存在なのだ。
そんな麒麟の後継者に恥じぬよう、義一も成し遂げたかった。麒麟に伝授されたこの技術で、殻石を霊石へと転化し、人類復興の力になりたかったのだ。これまで幻想空間上の訓練では、何度となく成功させてきた。後は、現実で成功させるだけだった。
しかし、現実では二度も機会があったのに、一度も成功しなかった。
もちろん、二度目は試すこともできなかったのだが。
状況が、殻石の破壊を優先した。
もっと時間があれば、もっと余裕があれば、霊石転換法を試すこともできたのだろうが。
オロバスが殻石に敵が接近していることを察知する可能性も鑑みれば、殻石に接近でき次第、瞬時に破壊するべきだったのはいうまでもないことだ。
ムスペルヘイムの前例がある。
あのときは、危うく全滅するところだった。
そう考えれば、即座に破壊したのは間違いではなかったのだろう。
「気に病むことはないよ。確かに殻石を霊石することによって、人類はその領土を広げてきた。人類生存圏、央都四市のいずれもがそうであるようにね。しかし、衛星拠点や境界防壁を見たまえ。衛星拠点は、擬似霊石によって成り立っている。擬似霊石の霊場結界が、霊石結界に等しく機能していることは、きみもよく知っているだろう」
明臣は、義一の心情をよく理解していた。彼がこの上なく責任感の強い人間だということは、戦団上層部の人間ならばだれもが知っていることなのだ。だからこそ、明臣は義一の想いをくみ取り、言葉を紡ぐのだ。
「そして、亜霊石だ。擬似霊石の量産はその性質上極めて困難だが、亜霊石ならば、時間さえかければいくらでも生産可能だそうだ」
故にこそ、境界防壁が成立したのである。
央都の、人類生存圏の外周を囲うように聳え立つ護法の長城、その各所に配置された亜霊石が、それぞれに強固な霊場結界を発生させている。それら無数の霊場結界が幾重にも重なり合うことによって、央都最終防衛線を構築しているのだ。
亜霊石の発明なくしては、境界防壁は誕生し得なかっただろう。
「霊石化に拘る必要はない、と?」
「そこに拘り、きみたちが命を落とすような事態になるよりは遥かに良い。きみたちだけではない。あのとき、わたしたちが殻石に接近できたのは、星将たちがオロバスを引きつけてくれていたからだ。そのことは、きみ自身も理解しているはずだ」
「……はい」
義一は、静かに頷いた。
あのとき、明臣が殻石を破壊するように言ったが、そのことに口を挟まなかったのは、状況が切迫しているという事実を理解していたからだ。霊石転換法を試す絶好の機会は、しかし、絶体絶命の窮地でもあった。
星将たちの、導士たちの。
故に、速やかに殻石を破壊するべきだという明臣の判断は間違っていなかった、と、義一も理解している。
理解しつつも、霊石転換法が脳裏を過るのは、麒麟の後継者であることの自負や責任感があるからだ。使命感といってもいい。
自分が生まれ落ち、今日まで生きてきたことの意味がそこにあるのだ、と、確信しているからだ。
もちろん、そこに拘った挙げ句、全てを失うことの馬鹿馬鹿しさもわかっている。
状況次第では霊石転換法よりも殻石の破壊を優先するべきだということは、麒麟からも強くいわれていることでもあった。
それは、重々承知している。
「また、つぎの機会に試せば良いだろ」
「そうだよ。義一くんはやるべきことをやったんだから」
仲良く同じ法機を駆りながら、九十九兄弟が義一にいった。真白も黒乃も義一が責任感の塊だということを把握しているからこそ、励ますのだ。
「やるべきこと……」
「殻石の正確な位置の把握は、きみにしかできないことだもんね」
幸多は、義一の駆る法機に腰を下ろし、戦場を見渡していた。
完全なる空白地帯と化したかつてのオロバス領には、もはや一体たりとも幻魔の姿は見当たらなくなっている。最前線周辺には、消耗し尽くした導士たちの姿があり、這々《ほうほう》の体で撤収準備をしているようだった。
オロバス領の跡地は、広範囲に渡って壊滅状態であり、原型を留めている箇所が見当たらなかった。あれほどの戦闘が長時間に渡って繰り広げられたのだから、当然としか言いようがない。
戦場を渦巻く膨大な熱気は、星将と鬼級がぶつけ合った星神力の残滓なのかもしれない。
「ぼくにしか……か」
義一は、法機を握る手に力を込めた。第九軍団副長・八咫鏡子の先導に従い、高度を落としていく。
「おかげで真星小隊は大活躍だよ。きみを迎え入れて良かったと心底想うな」
「そこで?」
「駄目?」
「駄目じゃないけどさ」
幸多が茶目っ気たっぷりにいってくるものだから、義一は、どのような反応をするべきなのか考えなければならなかった。
義一こそ、心底想うのだ。幸多のような隊長を持てて良かった、と。幸多についてきたのは間違いではなかった、と。
思い悩むのは、後で良い。
いまは、この勝利を喜ぶべきだ。
空を行く真星小隊に手を振ってくれる導士たちが数多くいた。
真星小隊が殻石を破壊したという事実は、今回の作戦に参加した全導士が把握しているはずだ。
それがどれほど困難な任務なのかについても、理解できないわけがない。
それを成し遂げ、勝利に大きく貢献したのだから、だれもが真星小隊の帰還に歓声を上げるのも、当然の結果といえた。
「胸を張ろう」
義一は、幸多の声に頷き、導士たちの歓声に応えて、手を振った。