第九百六十二話 戦いの終わり方(一)
戦いが終わろうとしている。
旧オロバス領を中心とする広範囲に集まっていた大量の幻魔たちは、オロバスとエロスの死によって軍隊としての統制力を失い、瓦解し、散り散りになっていった。
残されたのは、天使たちと悪魔たちである。
〈七悪〉の内の二体が、この戦場に姿を現していた。〈憤怒〉のアーリマンと〈嫉妬〉のアザゼル。
アザゼルは、真星小隊を襲撃するも、メタトロンに阻まれ、姿を消したという。
アーリマンだけが、この戦場に残っている。
朝彦たちは、息を呑み、ただ状況を見守ることしかできなかった。ルシフェルとアーリマンの対峙に手を出すことなど、消耗しきった杖長たちにできるわけもない。
アーリマンがバルバトスの星象現界・星を射落とすものを手にし、銃口をルシフェルに向けたまま、どれくらいの時間が経ったのか。
その間にアザゼルの固有波形が確認され、新たな天使型が降りてきて、アザゼルが姿を消した。アザゼルの急襲を受けたという皆代幸多らの無事は確認されているが、そんなことに構っていられる状況ではなかった。
ルシフェルとアーリマンの戦闘次第では、朝彦たちがどうなるかわかったものではないからだ。
いますぐこの場から逃げ去ることなどできるわけもない。
アーリマンは鬼級幻魔だ。目を離すわけにはいかないし、放置することなどありえない。
鬼級である以上、星将たちに任せたいところだが、その星将たちは、二体の鬼級との死闘を終えたばかりだ。消耗し、疲弊しきっていると見るべきだった。
(消耗してるんはこっちも大概やけどな)
胸中ぼやいたのも、視界が霞んだからだ。星象現界を維持し続けている。結果、力を浪費しているのだが、こればかりは致し方がない。
鬼級を眼前にして星象現界を発動しないのは、殺されるのを待っているようなものだ。
バルバトスにせよ、アーリマンにせよ、交戦し、辛くも生き残ることができたのは、星象現界のおかげなのだ。
秘剣陽炎の能力というよりは、星象現界の発動による魔法士としての全能力の飛躍的な向上にこそ、生存の秘訣があるのだが。
つまりは、星象現界ならばなんでもいいということだ。
少なくとも、アーリマンは星象現界の能力次第で出し抜けるような相手ではなさそうだ。六人の杖長だけでは、覆しようのない力の差があるのを認めるしかない。
「一つ、言っておく」
アーリマンが、唐突に口を開いた。
「サジタリウスは、〈星〉を撃ち落とす」
告げるなり、悪魔は引き金を引いた。猟銃の銃口から閃光が生じ、発砲音が鳴り響いたのは一瞬。つぎの瞬間には、全てが消えて失せていた。
全て。
そう、全てだ。
アーリマンも、猟銃も、銃弾も、なにもかもが朝彦たちの目の前から消失していた。なにも起きなかったのではないか思うほどであり、誰もが呆然とした。
ルシフェルが、しばらくしてこちらに振り返った。
「アーリマンは、在るべき場所へと帰ったよ。これで、この戦いは終わり。あなたたちがわたしたちを戦いたいというのであれば話は別だが……」
「……そんなこと、あるわけないやろ」
朝彦は、ルシフェルの青白く輝く眼を見つめながら、渋い顔をした。
「あんたらは一体なんやねん。幻魔やろが。なんでおれらに加勢すんねん?」
「わたしたちは、人類の守護者だよ。まあ、信じられないだろうし、信じる必要もないけれど、それがわたしたちが誕生した理由であり、存在する意義なのだから仕方がないんだ」
「だったら、どうして龍宮戦役には参戦してくれなかったのかねえ」
「こちらにも色々と事情があるんだよ、荒井瑠衣」
「わたしの名を?」
「知らないことはないさ。なんといっても、人類の守護者だからね。いつだって、きみたちのことを見守っているんだ。だからこうして、きみたちを窮地から救うことができたわけだ。とはいえ……」
ルシフェルは、杖長たちの胡乱げな眼差しから逃れるように周囲を見回した。彼らにはなにをどのように説明したところで、信用を勝ち取ることはできまい。戦団の導士たちにとって、いや、人類にとって、幻魔は天敵でしかない。
熾天使の目には、戦場の有り様がありありと映っている。幻魔の死骸が大量に転がっている一方、導士の亡骸も多数、確認できるのだ。
数多の死が、この地に満ちている。
死によって生じる魔力が戦場上空に渦巻いていて、それらが幻魔を形作るのも時間の問題だった。
いや、既に戦場の各地に誕生したばかりの幻魔が産声を上げ始めているようだ。
それらの苗床となったのは、導士である。
幻魔の死は、新たな幻魔の誕生には繋がらない。
人間が、人間の死だけが、幻魔発生の原因になり得る。全人類が魔法士になった以上、こればかりは避けられるものではない。
だれもが幻魔の苗床になりうる。
そして、優秀な魔法士の集団である戦団の導士ならば、なおさらだ。
死によって生じる膨大な魔力が、幻魔の心臓たる魔晶核を形成し、魔晶核が肉体を構築し、幻魔の誕生を祝福する。
人類にとっての呪いは、幻魔にとっての祝福なのだ。
生まれたばかりの幻魔たちの咆哮が響き渡るも、それらは天使たちの攻撃によって速やかに一掃されていった。
あっという間に、綺麗さっぱり、消えてなくなったのだ。
そして、戦いは、終わった。
新たな幻魔がこの終戦直後の静寂を乱すのは、許されることではない。
「そういえば、名乗っていなかったね。わたしはルシフェル。天軍の、天使たちの長を務めているものだ。ほかには、ウリエルとガブリエル、メタトロンが今回の戦いに参加していたけれど、彼らの紹介はつぎの機会にしよう」
「つぎの機会?」
「ああ。それが明日になるか、百年後になるかはわからないが」
「はあ? なにいうてんねん?」
朝彦の疑問には、ルシフェルは答えなかった。
天使長は、天を仰ぎ、六枚の翼を最大限に広げると、光を放った。神々しくも美しい黄金色の光が、朝彦たちの視界を塗り潰す。
つぎの瞬間には、黄金の光が天地を支える柱の如く聳え立っており、それがルシフェルの飛翔だということは考えずともわかった。
ルシフェルが天に昇れば、それに続くようにして、天使たちも地上を去って行く。
残されるのは、戦団の導士ばかりだ。
その導士のほとんどもすでに引き上げ準備を始めており、朝彦は、杖長たちを顔を見合わせ、首を横に振った。
「……なんやようわからんけど、まあ、終わったんやったら……ええんかな」
「いいんじゃないですか」
「本当に、綱渡りの連続だったけどね」
「こちとら瀕死なんだが?」
「その減らず口で?」
「酷いな」
杖長たちがなにやら言い合っている近くで、ルナは、頭上を仰ぎ見ていた。
天使たちの光によって白く染め上げられていた空が、青さを取り戻しつつある。魔界の空だ。なにやら滲み、歪んでいるかのような青さであり、禍々しいといっても構わないほどだが、それがこの魔界の空の正しい姿なのだろう。
太陽は傾き始めていたし、大量の雲が物凄い勢いで流れている。地上とは違い、高空を流れる風が強いらしい。
それから、統魔に視線を戻す。未だ意識の戻らない統魔ではあったが、命に別状はないということだった。統魔の着込んでいる導衣が、彼の生命状態を確認している。
ほっとする。
悪魔たちは去り、天使たちもまた、去った。
オロバス・エロス連合軍も、崩壊した。
この戦場に敵はいない。
しかし、それがいまこの瞬間だけだということも理解している。
オロバス領は、空白地帯と化した。
近隣の〈殻〉から大量の幻魔が雪崩れ込んでくる可能性は、決して低くはない。
ここはオロバス領内ではないものの、その近辺だ。空白地帯を巡る闘争に飲み込まれないはずもないのだ。
「おーい! ルナっちー!」
「ルナさん!」
ルナを呼ぶ声がした方向を振り向くと、長杖型法機に二人乗りになった字と香織が物凄い速度で飛来してくるところだった。枝連と剣もその後についてきている。
四人とも、星装を解除していた。
星装だけではない。
統魔の星霊たちも全部姿を消しており、それによって彼が力を使い果たしたのだと気づかされたのだ。
ルナは、統魔の体を抱きしめて、彼の体温を感じ取り、安堵の息を吐いた。
戦いは、終わった。